戦争に関するニュースが多くなるこの時期、ひとりの名騎手の存在が自然と思い出される。

 最年少ダービージョッキーの前田長吉である。

 前田は、1943(昭和18)年の日本ダービーを牝馬のクリフジで優勝。20歳3カ月の最年少ダービージョッキーになった。

 しかし、翌1944年、臨時召集されて旧満州に出征。旧ソ連に抑留され、終戦翌年の1946年2月28日、シベリアの強制収容所で戦病死した。23歳になったばかりだった。

「競馬界の沢村栄治」と言える前田は、「戦争に奪われた才能」として語られることが多い。確かにその通りなのだが、実は、前田は戦争によって見いだされ、生かされた才能でもあったのだ。

 それは、「競馬」というものが、いや、「馬」という生き物が、人類の歴史につねについて回る「戦争」と密接に関わってきたからでもあった――。

近代日本における馬匹改良のきっかけは戦争だった。

 古来より馬は力の象徴であった。多くの野生の馬がいた「牧(まき)」を支配した地方豪族は、やがて武士として権力を握るようになった。

 人間と長らく共生してきた馬は、また、チンギス・ハーンやナポレオンが示したように、戦争の形を劇的に変えた存在でもあった。

 近代日本における馬匹改良のきっかけとなったのも戦争であった。

 1894(明治27)年に日清戦争、1904(明治37)年には日露戦争が勃発。勝利を収めた日本は、欧米列強の仲間入りを果たした。しかし日露戦争では、馬を自在に操るコサック兵に大いに苦しめられた。また、在来和種がほとんどだった国産軍馬の馬格や輸送力、戦闘力が、欧米諸国の生産馬に比べて大きく劣っていることが明らかになった。

富国強兵策の「活兵器」から、東京競馬会設立へ。

 そうした事態を憂慮した明治天皇は、日露戦争開戦の2カ月後、「馬匹改良のために一局を設けて速やかにその実効を挙ぐべし」との勅命を下した。それにより、同年9月に臨時馬制調査委員会が設置され、富国強兵策の一環の国家事業として、日本は「活兵器」である馬匹の改良に取り組むことになったのだ。

 そして、馬匹改良における競馬の必要性を盛んに説いていた加納久宜子爵と、のちに「日本競馬の父」と呼ばれる安田伊左衛門が東京競馬会設立に向けて動き出した。政府も馬匹改良における競馬の必要性を認識しており、寺内正毅陸軍大臣も強力な推進論者のひとりだった。

 かくして1906年春に東京競馬会が設立され、加納が会長、安田は常務理事となった。そして同年秋、池上競馬場で日本人による馬券発売をともなう初の洋式競馬が開催され、大盛況のうちに幕をとじた。

サラブレッドの持つ才能を追求したかったのでは。

 臨時馬制調査委員会によって立案された日本の馬政計画は、ナポレオンの手法を範にとったものと思われる。19世紀の初め、同様に国力増強のため馬匹強化を目指したナポレオンは、6カ所の国営種馬牧場と30カ所の種馬所、3カ所の乗馬学校を創設するなどした。さらに競馬を馬匹改良の手段とし、近代競馬の基礎を築いたのであった。

 馬は貴重な軍需資源で、競馬は国力増強のための国策となった。

 しかし、日露戦争のあと、品種改良のため輸入されたサラブレッドは性質が敏感すぎ、戦場への適応力が疑問視された。軍馬改良の主役はアングロアラブになろうとしていたのだが、それでも競馬関係者はサラブレッドの品種改良にこだわり、競走馬のなかから国有種牡馬を選ぶというルールを馬政局に認めさせた。言い過ぎかもしれないが、競馬のスポーツ性に魅せられた関係者にとって、軍馬改良というのはあくまで名目で、とことんまで追求したかったのは、サラブレッドだけが持つスピードだったのではないか。

最年少ダービージョッキーと無敗の変則三冠馬の誕生。

 前田長吉がクリフジで制した第12回日本ダービーが行われたのは、戦時中の1943年6月6日だった。戦況が悪化したこの年、1月には日本軍がニューギニア・ブナの守備隊が玉砕。4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六がソロモン群島上空で戦死し、6月5日に国葬が行われた。その翌日に、日本ダービーが開催されたのである。しかも、残された映像ではすし詰めに見えるほど多くの人々が東京競馬場を訪れている。もちろん馬券も売られていた。

 4月には東京六大学野球連盟が文部省から試合禁止を命じられ解散するなど、ほかのスポーツは戦争の影響で中止されても競馬がつづけられたのは、重要な軍需産業のひとつだったからだろう。また、今と同じように、売上げの一部が国庫に納付されていたのだから、お国のための営みであったわけだ。

 そうした背景のなかで、前田は最年少ダービージョッキーとなり、彼を背にしたクリフジはオークスと菊花賞も勝ち、「無敗の変則三冠馬」となった。

クリフジに11戦全勝という輝かしい戦績を与えた。

 同年の機関誌「優駿」12月号の目次には「馬は兵器だ汚すな競馬」という標語が掲載されている。そういう時代だったのだ。

 クリフジは「大尾形」と呼ばれた伯楽・尾形藤吉の管理馬で、前田は尾形の弟子だった。デビュー2年目の前田がダービーで騎乗できたのは、馬主の栗林友二が「前田でいい」と明言したからだ。しかし、前田の先輩で、のちに日本にモンキー乗りをひろめる保田隆芳が、1940年に出征して不在でなければ、クリフジの手綱を握っていたのは保田になっていたかもしれない。

 その意味で、翌1944年にかけて、クリフジに11戦全勝という輝かしい戦績をプレゼントしたときまでの前田は、騎手として非常に幸運だったと言える。

 兵隊が不足し、身長147cmほどと、騎手のなかでも小柄なほうだった彼までも臨時召集され、シベリアの凍土で死を迎えたのは不運だったが、競馬の神様に誰より愛された騎手でもあったのだ。

誰よりも幸運で、誰よりも不運だった若き天才騎手。

 2006年7月4日、DNA鑑定で本人と確認された前田長吉の遺骨が、青森県八戸市の生家に62年ぶりに「帰還」した。

 海外で戦死した日本人は240万人。そのうち、前田の遺骨が帰還した当時のデータでは、半数近い115万人の戦没者の遺骨が海外に残されていた。国費によるDNA鑑定が2003年に始まってから06年6月までの間に、鑑定で身元が特定されたのはわずか271人。そのひとりが最年少ダービージョッキーだったのだから、奇跡と言っていい。

 敗戦によって、軍需産業だった競馬がレジャー産業になってから、約70年。それでも、戦前も戦時中も今も競馬の形は同じで、クラシックや天皇賞などの歴史あるレースは、戦前から回数をカウントしている。

 戦争と競馬が無関係になったわけではない。戦争があったから近代競馬が発展したという事実は、未来永劫変わらない。

 戦火に翻弄され、誰よりも幸運で、誰よりも不運だった前田長吉という若き天才騎手がいたことを、これからも語りつづけたい。

文=島田明宏

photograph by Sadanao Maeda