名古屋ウィメンズマラソンの参加ランナーは2万2千人。

 今年も、世界最大の女子マラソンとしてギネスにも堂々認定された。そして2万2千の頂点を争うエリートランナーのレースから若きヒロインが誕生した。

 東京マラソンで設楽悠太(ホンダ)が日本新記録をだしてから、マラソン界では「日本記録」のキーワードが広まっている。

 なにしろ、日本新記録に与えられる1億円のインパクトはでかい。当然、「男子の次は女子?」という期待の声も大きくなっている。

 ところが、名古屋ウィメンズマラソンのレース2日前に行われた記者会見でその話題はほとんどでなかった。

 前田彩里(ダイハツ)、小原怜(天満屋)、清田真央(スズキ浜松AC)など錚々たる顔ぶれの招待選手たちが言葉にした目標は記録への挑戦ではなく「MGCの権利を獲得したい」だった。

守るものがない選手たちが。

 2020年東京オリンピックのマラソン代表選考レースであるマラソングランドチャンピオンシップ(略称MGC)への出場権は、オリンピックを目指す長距離選手にとって避けることができない第1関門だ。

 名古屋ウィメンズマラソンでのMGC条件は、日本人3位以内で2時間28分以内、または日本人6位以内で2時間27分以内となる。

 つまり、主力招待選手にとっては自己記録よりかなり遅いタイムということになる。

 さらに、25キロまでペーサーが引っ張ってくれるので自ら仕掛けを考える必要もない。

 レース前から日本人の中での順位さえ気にしていればいいという、守勢になりがちな雰囲気がみられたことは事実だ。

 そして結果は、期待された実力者たちではなく、守勢になる理由をもたない選手たちにMGCがもたらされたのだ。

 今回MGCを獲得したのは、ハーフマラソンの経験さえない初マラソンの関根花観(せきね はなみ/日本郵政グループ)、コーチとともに実業団を飛び出し、結果を残さなければ後がない危機感をもって走った岩出玲亜(いわで れいあ/ドーム)、ベテラン実業団選手として自己記録に挑戦した野上恵子(十八銀行)の3名だ。

ケニアの有力選手についていった2人。

 レースを振り返ってみて、マラソンはメンタルが重要な種目だということを再認識したのである。

 実績があっても守りに入った選手たちが自滅したのに対し、実績はなくともチャレンジスピリッツが旺盛な選手や、レースに対する覚悟を持った選手の方が強かったのだ。

 25キロでペーサーが離脱したあと、予想どおり2時間20分53秒の記録を持つ実力者バラリー・ジェメリ(ケニア)がギアチェンジして集団を切り崩した。

 懸命に追いすがったのは初マラソンの関根と岩出の2人。

 やがて岩出も離れはじめ、それぞれ単独走になった。

 バイク解説を担当していた私は関根と10キロ近く並走し、その走りをつぶさに観察した。

 トラック競技ではリオにも出場した関根ではあるが、ロードレースは駅伝の距離しか経験がない。

 アルバカーキの高地トレーニングで「一番苦しかった」と語った50km走はこなしたが、レースとはペースも状況もわけが違う。

関根は一度も振り返らなかった。

 前を走るジェメリとメリマ・モハメドが関根の視界から徐々に遠ざかっていく。

 選手の心理としては自分のペースが落ちているのではないかと不安になる場面だ。特に後ろから追いかけてくる選手の存在が気になるだろう。

 しかし、関根は一度も後ろを振り返ることはなかった。それどころか、腕時計さえ見なかった。

 表情は歪んでいた。 マラソンでおきる、脚が辛くて止まりそうになる苦しさが関根を襲ったのだろう。

 それでも、トラック競技で課題となっていた肩が上がる癖を修正するように何度も肩を上下させた。まさに関根は、ライバルではなくマラソンという未知の距離、そして自分自身の苦痛と闘っていたのだ。

 そして、見事に一度もペースを落とすことなく2時間23分7秒の3位でフィニッシュし、MGCを獲得した。

メンタルも逸材の条件である。

 なんといっても関根は初マラソン。同じく初マラソンの大阪国際女子マラソンで優勝した松田瑞生(ダイハツ)に匹敵する快挙だ。

 トラック競技や駅伝は、最大酸素摂取量を越える呼吸の苦しさとの闘いがあり、ラストスパートでは無酸素状態での苦しさと格闘する。しかし、それは数分あまりの短時間のことである。

 マラソンは90分を超えると低血糖、低ナトリウム状態で思考能力が低下した状態になる。そして、脚の辛さとの闘いが1時間近く続く。さらに、長時間身体を酷使することにより胃、肝臓、腎臓などの内臓も疲労し脱力感が襲いかかる。

 強いマラソン選手になるには、正しくとも過酷なトレーニングを積み、まずはフルマラソンに耐えられる身体を作る。その上で、レース本番で長時間の辛さに耐えるタフなメンタルが要求される種目なのだ。

 関根は初マラソンで自分との闘いに勝てた。

 メンタルが強いマラソン選手として、 素晴らしい逸材が東京オリンピックの代表候補に名乗りをあげた。

文=金哲彦

photograph by EKIDEN News