8月31日、練習生として合流していたセントラルコースト・マリナーズが組んだ親善試合のことだ。残り約20分の場面。背番号95をつけたウサイン・ボルトが笑顔でピッチに入ると、大歓声と花火がボルトを迎え入れた。

 左サイドのトップに入ったボルトは、ヘディングでシュートを狙う場面のほか、何度か得点チャンスがあったものの、味方からの鋭いパスに合わせることができなかった。

 試合後のインタビューでは「ちょっと緊張したけれど、ピッチに入ったら緊張はすぐに解けた。今日は得点に絡めなかったけれど、スピードやフィジカルコンディションを上げていきたい」と話していた。

 これまでプレーした親善試合とは異なり、簡単にシュートを決められずプロとしての厳しさも味わった。ボルトならこれくらい走れるだろう、というチームメイトの期待がこもったパスに対しても届かず。サッカー独特の動きにはまだ体がついていかない様子だった。

 得点はできなかったが集客には大きく貢献。プレシーズンの試合にもかかわらず、平均よりも2500人多い、1万人近くの観客がボルト見たさに集まった。

陸上からサッカーへ転身の理由は?

「ボルト、プロサッカー選手、目指すってよ」

 そんな噂を耳にしたのはいつだっただろうか。昨年8月ロンドンで行われた世界陸上で陸上から引退。長年痛めていた左大腿部を負傷し、有終の美を飾ることはできなかった。

 体力的に限界なのでは、そう思っていたファンや関係者には、ボルトのサッカー挑戦は驚きだった。

「サッカーが大好き。サッカーは人々を1つにする力があると思う。スタジアムでの高揚感、ファンの歓声などもすばらしい」

 今年3月には香川真司が所属するブンデスリーガのドルトムントの練習にも参加したが、ボルトのスポンサー「プーマ」CEOが同チームの理事をしている関係もあり、タイアップ感があったのは否めず。ワールドカップ前に開催されたサッカー界の往年のスターたちとの親善試合も、ボルトのレベルを測るには不十分なものだった。

世界各国からオファーは来たが。

 ドルトムントへの練習参加、親善試合でのプレーでサッカー挑戦を果たし、もう満足しただろうか、と思っていたが、ボルトは諦めていなかった。 

 その後、南アフリカ、ノルウェーなどのチームで練習参加。残念ながら契約に至らなかったため、8月にオーストラリア1部Aリーグのセントラルコースト・マリナーズに練習生として参加することが発表された。

 ボルトの代理人を務めるリッキー・シムズ氏は、「世界各国からオファーが来たが、特にボルトがまだサッカー選手として未成熟な部分を考慮した結果、同チームがボルトに最適だと思った」と話す。

サッカー転身には批判もある。

 今回の挑戦は、大多数には好意的に受け入れられているものの、ジャマイカの陸上関係者からはこんな声も上がっている。

「体力的に厳しいから陸上を引退したと思っていた。サッカーではなくジャマイカの陸上界にもう少し貢献すべき」

 ジャマイカ在住でボルトを長年撮り続けてきたカメラマンは「まぁ、ボルトだからね(笑)。まじめには取り組んでいないと思う。サッカー好きなのは認めるけれど、プロになるレベルではないだろうね。仲間とサッカーしたり、(陸上の練習拠点の)大学のサッカーチームの練習に参加する程度だから」と冷静に分析する。

 世界の陸上記者からは、ボルトではなく、国際陸連を批判する声が多い。国際陸連のセバスチャン・コー会長は「陸上普及のためにボルトには何らかの役割を担ってもらうつもりだ」と明言していたにもかかわらず、具体案は無し。その間にボルトはサッカー挑戦を表明してしまったため、陸上界は大きな広告塔を失ってしまった。 

技術的には劣るだけに……。

 ボルト本人は真剣な挑戦だと訴えているけれど、絶対的な練習量や技術の差があることは否めない。

 8月31日の試合後には「まだベストの状態ではないし、技術も追いついていないけれど、2カ月でそれは解消するはずだし、チームメイトとの連係もあと4、5カ月くらいあればうまくやっていけると思う」と話していた。

 シムズ氏も「本格的な練習を始めたのはオーストラリアに渡ってから」と準備不足を認めているほか、同チームのマイク・マルベイ監督も「ボルトの技術向上には1年ほど必要だと思う」とコメント。

 すぐに結果を求めるのではなく、同チームの育成チームなどで技術やフィジカルを鍛え、シーズン途中もしくは来季以降の正式メンバー入りを目指す計画のようだ。同チームは宣伝効果を狙った客寄せパンダとしてボルトを練習に誘ったのではなく、サッカー選手としての資質を見込んでいるのだろう。

 技術的には間違いなく劣る部分が多いだろう。以前、「ボールよりも速く走ってしまう」とボルトは苦笑いしながら話していたように、ボールさばきは大いに改善の余地がある。しかし持ち前のスピードと2m近い長身からのヘディングは武器になるはずだ。今後、いかに泥臭く、そして真剣に取り組めるかが鍵になるだろう。

 陸上界のスーパースター、人類最速男がプロのサッカー選手としてピッチに立つ日は来るのか。楽しみながら注目していきたいと思う。

文=及川彩子

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