名誉より恩義だ。

 流通経済大学ラグビー部のヘッドコーチ、韓国出身の池英基(チ・ヨンギ)さん。同部を2005年から率いる内山達二監督を「私の神様」と敬っている。

「私が成長できたのは内山(達二)監督、流経大のおかげです。韓国代表の15人制も7人制も(コーチで)毎年呼ばれていますが、ちゃんと礼儀を通して断っています。周りから見たら馬鹿じゃないかと言われるかもしれないです。でも、流経大が私の母校だと思っていますし、いまはRKU(流経大の愛称)を勝たせることを考えています」

 池さんは1982年、韓国中部の清州に生まれた。檀國大学4年のときにラグビー韓国代表に選出。のちに代表12キャップを重ねた身長187cm、体重105kgの大型フルバックだった。

 大学卒業後の2年間は、韓国軍のスポーツ部隊「尚武(サンム)」に所属。その後はコーチとしての将来も視野に入れ、ニュージーランド・ウェリントンのクラブで2年間プレーした。

結婚式翌日には日本へ飛んだ。

 日本行きのきっかけは、流経大・内山監督との縁だ。

 内山監督は2009年、入学希望の韓国出身選手の両親に会うために韓国を訪れていた。入学する選手の両親とは必ず会う。それが内山監督のポリシーだ。

「韓国人学生の入部希望があって、韓国に行きました。そのときの通訳が彼(池さん)の奥さん。韓国の方なんだけど日本語がペラペラで、『実はうちの夫がラグビー選手なんですけど、日本でプレーする機会ありませんか』と」

 ニュージーランドで知り合った韓国出身の夫人、イ・ジョンユンさんは、大学時代に日本語を専攻していた日本フリーク。その夫人を介して内山監督と出会った池さんは、まず選手としての挑戦を決意。2009年11月21日に結婚式を挙げ、なんとその翌日に日本へ飛んだ。

 それからは短期滞在で日本と韓国を往復しながら、トライアウトを受けるなど、選手としての道を模索。しかし当時少なかった外国人枠を使い、29歳の池さんを獲得するチームは現れなかった。

340円弁当を夫婦で分け合って。

 30歳手前にして、明日の見えない日々。その悔しさは、コンビニ弁当を食べたときに溢れ出た。

 2010年、流経大がある茨城・龍ケ崎に滞在していた池さんは、夜中に夫人とコンビニへ行った。

「お金がなくて、ひとつのコンビニ弁当を買って、二人で食べました。340円の弁当。チキンとかいろいろ入っていました」

 見知らぬマンションの裏手に座り、2人で分け合った。熱烈にアプローチした妻に、みじめな思いをさせている29歳の自分。味は覚えていないが、悔し涙に襲われたことは今も忘れられない。

「ひとつの弁当を2人で分けて。嫁にも申し訳なくて。嫁に見せないように泣きました。泣きながら『おれ絶対成功する』と」

 そんなときに流経大コーチとしての椅子を用意してくれたのが、内山監督だった。

試練は練習後のコーチコメント。

 池さんのコーチキャリアが2011年、龍ケ崎市の流経大グラウンドで始まった。しかし1年目は大きな試練からのスタート。グラウンドが東日本大震災で被害を受けたのだ。

 人工芝は陥没し、水が噴き出した。部員たちは一時帰郷。ちょうど妊娠中だった夫人も韓国へ一時避難。日本語の話せない池さんがひとり流経大に残り、片付けなどに従事した。

 チームの練習がようやくスタートしたのは、夏季目前の6月18日。しかし池さんにとっては、その練習も試練だった。

 内山監督が練習後、毎回選手の前でコーチコメントを言わせたのだ。

「日本語が喋れないですよね。選手の前に立った時に、頭が真っ白になります。毎回練習に出ることが怖くて」

 日本語を間違えて笑いが起こったこともある。それでも毎日憶えたばかりの言葉を絞り出した。分からなかった日本語をメモして、毎晩夫人に尋ねる日々が続いた。

 やがて訪れた変化を、内山監督は昨日のことのように憶えている。

「夏合宿を越えたあとに、学生が一切笑わなくなった。びっくりしたね。言葉にどんな体重、どんな熱を乗せて話すかということが、どれほど大事か。それを彼から学びました」

その人柄に選手の態度も変化。

 池さんの人柄、努力に触れ、選手の態度が変わった。当時の4年生には日本代表の中島イシレリ(神戸製鋼)、セブンズ日本代表の小澤大(トヨタ自動車)らがいた。当時を思い出すたびに池さんの涙腺は緩む。

「私の頑張りを学生が見て、私の下手な言葉をよく聞いてくれた。『ヨンギさん頑張ったね』と言われたこともある。それからシーズンに入って、『ヨンギさんのために絶対に勝つ』という言葉を聞いたときは、一番嬉しかったですね。今も涙が出るくらいです」

 そのシーズンで流経大は震災を乗り越え、創部史上初の偉業を成し遂げる。

 創部47年目にして、関東大学リーグ戦を初制覇。内山監督が秩父宮ラグビー場の空に舞った。

 しかしチームの栄光の陰で、池さんは苦しんでいた。

 来日当初から経済的に困窮していた。チームには言わず、3年にわたり深夜の清掃アルバイトをした。当時の睡眠時間は3時間。眠れないまま練習へ行った回数は数え切れない。

内山監督は「私の神様」。

 だから恩人である内山監督の前で、ときどき寝落ちした。毎回無礼を咎められたが、睡眠不足の理由は言わなかった。意地だった。

「個人の生活のことですよね。自分で『コーチになりたい』と言って来ているのに、大変、辛い、お金ないって言いたくなかったんですね。『じゃあ辞めれば』ってなっちゃうんで」

 池さんは内山監督のことを「私の神様」と言って憚らない。アパートの賃貸契約の保証人は内山監督だ。車を譲ってくれたこともある。そんな恩人にこれ以上の迷惑は掛けられない。

 しかし結局は、内山監督の情が上回った。

 知人を介してアルバイトの事実を知った内山監督は、池さんに告げる。もうアルバイトは辞めて、コーチに専念しろ。金は、俺がなんとかする。

 2015年、池さんに男子15人制の韓国代表コーチのオファーがきた。戦術や練習を指揮する、実質的なヘッドコーチの依頼だった。そのときも内山監督は「チャンスだから行ってこい」と送り出してくれた。

エディーと渡り合った大善戦。

 現場指揮を執ったのは、日本、香港、韓国が参加する「アジア・ラグビー・チャンピオンシップ(ARC)」。池さんは徹底的に日本代表を分析した。

「日本代表の選手1人ひとりの強み、弱みを見つけて、韓国が過去に負けた試合も分析しました」

 すると韓国代表はARCの初戦、その年のW杯で南アフリカを撃破する「エディー・ジャパン」に大善戦する。最終スコアは30−56だが、前半のスコアは2点差(20−22)。当時のエディー・ジョーンズ日本代表HCは激高した。

 あのとき韓国代表に戦い方を授けていたのは、他ならぬ池さんだった。だからこそ、それから韓国代表は池さんにラブコールを送り続けている。しかし、池さんは茨城・龍ケ崎に戻った。

国境、人種、宗教も越えてこそ。

 韓国人である池さんが、流経大のヘッドコーチとして若者を指導する――。そのことに大きな意味があると、内山監督は信じている。

「ラグビーは国境も人種も越える。宗教も越える。来年のラグビーワールドカップ(日本大会)を迎えるなかで、こういうことをスポーツを通して形にしていける。それが教育機関としての幅なのかなと思いながらやっています」

 内山監督は、ラグビーに関わっている人は「ラグビー人」でしょう、と付け加える。ラグビーを取り巻く人びとは国境も人種も宗教も越えた、ラグビー人なのだと。

 池さんは昨年ヘッドコーチに昇格した。今年は若いチームだから、まだまだ伸びしろがあると目を輝かせる。

「私は結果がすべてだと思っています。内山監督が『なんで彼をヘッドコーチにしたの』と言われたときに、『実力があるからだよ』と自信をもって他の人に言えるような状況、環境を作らないといけないです。私を選んで頂いた恩を返さないと」

 いつか韓国ラグビーを日本のように発展させたい――。そんな大志はあるが、その前にやることがある。

 まだまだ、道はなかば。しかしドン底だった2010年のあの日、夫婦で分け合った340円のコンビニ弁当のことは、今ではすっかり笑い合えるようになっている。

文=多羅正崇

photograph by Masataka Tara