長野パルセイロで過去3シーズン、J3のカテゴリーを戦ってきた明神智和が今季限りでの現役引退を発表した。その翌日となる12月3日、かつての僚友だった遠藤保仁に驚きは全くなかった。

「知っていましたよ」と話す遠藤にはこの秋、明神本人からLINEを通じて「今年で辞めようと思っている」と連絡があったという。

 ボランチというサッカー用語を生み出したブラジルは、このポジションをしばしば、こう表現する。

 カレガドール・デ・ピアノ(ピアノの運び手)。

 ピアニストとなる攻撃のタレントのために、重いピアノを運ぶ労働者、つまるところ黒子である。

明神がピアノを運び、遠藤が奏でる。

 10年間所属したガンバ大阪で、ピアノを運び続けてきた明神だったが、そのピアノの鍵盤を叩き、攻撃サッカーという魅惑のメロディを奏でてきたのが遠藤だった。

 チーム内での役割はまるで対照的だが遠藤は言う。

「中盤から前の選手を気持ち良くプレーさせる部分においてかなり貢献した選手。僕らが後ろを気にせず、前に攻めに行けたのは“明さん”がいたからこそ。お互いの信頼関係は試合の中でもあったし、僕がこれだけやって来られたのも明さんのお陰と言っても過言ではない」

 その言葉は決して、社交辞令ではない。個人にスポットライトが当たるパフォーマンスを好まないガンバ大阪の大黒柱が、一度だけ、飛びっきり気が利いた「仕掛け」を用意した1日があった。

ヤットが「17番」を身に着けた日。

 2016年1月1日の天皇杯決勝戦――。

 味の素スタジアムで浦和レッズを2−1で下し、天皇杯連覇を飾った直後の表彰式でのこと。当時キャプテンだった遠藤は、高円宮妃殿下から受け取った優勝カップを掲げる直前、金正也(現ベガルタ仙台)にカップを一旦預けると、くるりと反転し、ガッツポーズ。

 そのユニフォームには「MYOJIN」の名と背番号17が刻み込まれていた。

 2003年以降、ガンバ大阪では一貫して7番を背負い続けてきた遠藤が唯一、異なる数字を身につけた瞬間だった。

「何年間か、ガンバでキャプテンでやっていたし、明さんがクラブから去るのは皆が知っていた。いい時のガンバを陰で支えてくれていたし、チームにとってもクラブにとっても欠かすことのできない選手だった」

 その年限りで退団が決まっていながらも、決勝戦のベンチに入れなかった明神への感謝と惜別の思いを込めた遠藤流のメッセージだったのだ。

遠藤、二川、橋本と「黄金の中盤」。

 ガンバ大阪が悲願のリーグ制覇を果たした翌年の2006年、柏レイソルから加わった明神は遠藤や二川孝広(現FCティアモ枚方)、橋本英郎(現FC今治)とともに「黄金の中盤」を形成。西野朗監督(現タイ代表監督)が作り上げた攻撃サッカーに欠かせない存在であり続けた。

 抜群の危機察知能力と、圧巻の運動量で危険地帯をカバーする。「2点取られたら、3点を、3点取られたら4点を」をポリシーとした当時の西野ガンバにおいて、リスクマネージメントを託されていたのが明神だった。

西野監督が語った愛弟子の重要性。

 華麗な攻撃サッカーに当時のホーム万博記念競技場は何度も沸いたが、献身的なカバーリングやインターセプトで場内を盛り上がらせた数少ない男が小柄な守備の人、明神である。

 当時、明神はこう胸を張ったものだ。

「試合をしている時に目立たないかもしれないけど、守備の場面とかで観客が沸いてくれると凄く嬉しい思いはある。でも、ガンバが攻撃的に行く中で、自分に対する守備の負担が多いなんて感じてはいなかった。そういう幅広いカバーを自分で守ってやろうと思っていたし、むしろそういうプレーが僕の持ち味だから」

 西野監督にとって明神は柏レイソル時代からの愛弟子である。2011年に明神がJ1出場350試合出場を果たした試合後の記者会見で、西野監督はその重要性をこう語っていたのだ。

「自分の理想の中の必ずいなくてはいけない選手。代えの利かない選手だと思う。ヤット(遠藤)のプレーを活かせているのも明神の存在が大きい」

山口智コーチだから語れる秘話。

 黒子。汗かき役。職人。いぶし銀。全てがそのプレースタイルに合致するのだが、ピッチ内外における明神の良さを知るのが、遠藤以上に付き合いが長い山口智ヘッドコーチである。

 山口ヘッドコーチは1997年のワールドユースを戦ったU-20日本代表で明神とチームメイトだった。明神より1学年下だが、遠藤と同様に、やはり引退発表前に、知らせを受けていたという。

「素直にお疲れ様という言葉が出た。マレーシアかどこかの合宿で、当時ボランチだった僕は明さんと同部屋で初日の練習に遅刻してね。僕が引退する時にその思い出を『あれは焦ったな』とメッセージをくれた。そんな若い頃からの付き合いですよ」と懐かしげに22年前の秘話を明かした山口ヘッドコーチだが、2人の間には遠藤とは異なるタイプの信頼関係が存在する。

 2010年にキャプテンに就任した明神だったが、前年まで4年間、ゲームキャプテンを務めたのが山口ヘッドコーチだった。

「お前が副キャプテンをやらないと、俺はキャプテンをしない」

「明さんの後ろなら支えますよ」

技術が高くて黒子ができる凄み。

 そんな気遣いを「そういうところまで気を配ってくれたのが印象に残っている」と話す山口ヘッドコーチだが、ガンバ大阪ではCBとして後方から明神のプレーを見続けてきた。

 ジェフユナイテッド市原でデビュー当時、ボランチだった山口ヘッドコーチだからこそ分かる明神の凄みは、その技術の高さである。

「明さんは下手だから黒子をやっているわけじゃない。ミスが少なくて、基礎技術が高いし、安心してボールを預けられた。それに攻撃時も、前に出て行くところの嗅覚があるし、僕らが前に攻め上がっても絶対にカバーしてくれているやろうなという安心感もあったね。ああいうタイプの選手は今後も出てこないだろうなと思う。僕が思うに単なるボランチというよりは中盤の選手だった」

 絶妙の距離感と阿吽の呼吸が全盛時のガンバ大阪のパスサッカーを支えていたが、西野監督が嫌った「パスのノッキング」を中盤で起こすこともなく、明神はシンプルだが、効果的にボールをさばくのだ。

シンプルにつなぐからやりやすい。

 遠藤も言う。「シンプルにつなぐのは明さんの特長だったし、周りの僕らからしてもやりやすかった。ボールが来るタイミングも分かりやすかったしね」

 ガンバ大阪でピアノを運び続けた男のこだわりは「試合中にしっかり闘う姿勢や、100%を出し切るのは自分の特長。それをどんな試合でも見せようとは思っているが、それプラス、守備の際の技術や自分のキャラクターを見せるということ」(明神)だった。

 そんな「明神イズム」は今でもチームで確かに受け継がれている。

 ガンバ大阪が今季2度目の連勝を飾った11月30日の松本山雅戦。両チーム最多の走行距離12.8キロを記録し、2試合連続でスプリントが40回に達した藤春廣輝は、その驚異的な走力でチームを支えてきた1人である。

「最後まで戦え、頑張れ」

「明さんから多くを学んだし、頼れる先輩だった」と話す藤春には忘れられない一戦がある。

 大卒ルーキーだった藤春は、2011年8月のヴィッセル神戸戦でリーグ戦2度目の先発に名を連ねていた。

 3カ月前の5月にはアウェイのアビスパ福岡戦でリーグ戦デビュー。しかし惨憺たるパフォーマンスで、ハーフタイムには交代を命じられ、その後は途中出場さえ果たせず、プロの壁にぶつかっていたのだ。

 そんなルーキーが3カ月ぶりにピッチに立ったアウェイでの一戦で、ガンバ大阪は4−0で快勝した。

 試合終盤、足がつり疲弊しきっていたルーキーに明神は「最後まで戦え」「最後まで頑張れ」と声をかけ続けたという。

「あの人は日頃はあまり語らないけど、その言葉に救われたのを今でも、覚えている。『やってやろう』って気持ちになりましたから」

藤春も「明さん」のように走る。

 男は背中で語る、を地で行く鉄人ボランチのような器用さはないが、藤春もまた、その走力と献身性でチームを支えてきた。

 時に全身が痙攣するほどの疲労を感じながらも、試合の終盤に前線に顔を出したり、危険地帯で体を張ったりとタフに走りきるのが藤春のスタイルだ。

「僕がガンバに入った時から最後まで走りきれる明さんを後ろから見ていて凄いと思ったし、その影響を受けている。だからこそ、今も僕は最後まで走り切ろうと思っている。僕もあまり言葉で語ったりしないけど若い選手にも走り負けたくないし。何かを感じ取ってもらえれば嬉しい」

 24年間、ピアノを運び続けてきた「明さん」がついに、スパイクを脱ぐ。

 さらば、鉄人、第二の人生に幸あらんことを――。

文=下薗昌記

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