標高2300mのメキシコシティーで迎えたハンマー投げ決勝。3位の記録に並び、メダル目前だった最終第6投目、あくまでも自分の理想を追った男がいた――。

2020年五輪イヤーにあたって、Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!

 これまでと同じように、同じだけの力で投げればよかった。メダルを獲るにはそれでいいはずだった。

 1968年10月17日、メキシコ・オリンピック、男子ハンマー投げ決勝。

 菅原武男は5投目で69m78を投げ、ハンガリーの選手と同記録で3位に並んでいた。最終6投目、あとは相手のセカンド記録(69m38)を越えさえすれば、日本の同競技史上初のメダル獲得だった。

 4投目、5投目と続けて69m台を投げていた菅原にしてみれば、手に残っている感触をそのまま再現すれば、その可能性は高かったはずだ。だが、菅原が望んだのはもっと遠くの形のないものだった。

「僕は記録を出したかった。世界記録を出すのが夢でしたから。野心があったからかな。いつもよりスピードが出て、フィニッシュでそれを支えきれなかった」

 標高約2300mの高地、エスタディオ・オリンピコの空にありったけの力で放った鉄球は願ったところよりかなり手前に落ちた。61m40。メダルを手にした者と、できなかった者の差はセカンド記録のわずか32cm。その残酷を嘆いた者は多かった。

小さな日本人が見せた“魔法”。

 ただ、当の本人の胸にはまったく異なる思いが浮かんでいた。

「オリンピックの後にもっと試合があればいいのになあと。そうすれば、もっともっと飛ばせる気がしていたんです――」

 タケオ・スガワラはどの国の、どの競技場にいってもカメラを構えた他国の関係者に囲まれた。3回転が主流の当時、世界でただ一人の4回転スローワーだったからだ。

 スピードを上げ、遠心力を増幅させれば遠くへ飛ばせる。そのためにターン(回転)の数を増やすという発想は当時、誰もが持っていたが、実際に4回転して投げる技術を完成させていたのは菅原だけだった。

 メキシコ五輪で入賞した6選手の平均が185cm、97kg。そんな大男たちばかりの中で174cm、85kgという小さな日本人が誰より速く多く、くるくるとまわって同じ距離を飛ばす。この“物理の魔法”はあらゆる競技者の視線を集めた。

「体がないというハンディがありましたから、技術で対抗するしかない。そのために想像力とか夢を大切にしていました」

 メキシコでは印象的なシーンがあった。陸上男子200mでメダルを獲得したアメリカの2選手が表彰台で国歌の演奏中、星条旗から視線を外し、黒手袋の拳を突き上げ、黒人差別への抗議を示したのだ。世の批難を浴び、オリンピックから追放されるふたりの姿を菅原は同じ競技場で見ていた。

「僕は別にかまわないと感じた。良い、悪いじゃない。自分のものの見方、考え方に責任を持っていればそれでいいと思った」

 世界で唯一の技術を持つ男はその視点や価値観も、他とは異なっていた。

魅せられたハンマーの可能性。

 菅原がハンマーに出逢ったのは高校2年。とくに得意な種目もなくサボりがちだった陸上部員に監督が投げてみろと言った。

「僕には砲丸はとても投げられない。やりも投げられない。でもハンマーだけは考えようによっては誰でも投げられるんです。ワイヤーがついているから。その長さを利用することによってあんな重いものを軽く感じることができるんです」

 不思議だった。7.26kgの鉄球は特大のスイカよりまだ重い。ただ、そこに1.2mのワイヤーがついただけで力はなくとも50m以上の彼方へ飛ばすことができる。

 ハンマーに秘められた可能性が、自分の可能性のように思えた。

 第二次世界大戦勃発の前年、青森と岩手の県境・秋田県鹿角市の農家に8人兄弟の末っ子として生まれた。高校を出て百姓をするか、どこでも働ければそれでいいと思っていた。遠くの未来を想像することもなかった青年の道がハンマーを手にしてから急速に開けていく。

 競技を始めて4カ月でインターハイ4位に。その姿が名門・日大の指導者の目に留まり、進学が決まった。1回転だったターンが2回転、3回転になっていく。

 そして1960年、大学4年でローマ五輪に出場。だが、結果は予選落ちだった。

「体の大きさがまったく違う。自分が他の選手と同じ3回転でやっていては通用しないということを世界にいって思い知らされました。当時、4回転を成功した人はいませんでしたが、やるしかなかった」

 もっと遠くへ。

 日の出とともに投げて、拾って、また投げる。最初はどうしても3回転で止まった。4回転できても凄まじい遠心力にバランスを保てない。その手はいつも血が凝固して黒ずんでいた。「1cmでも長くワイヤーを使えば飛距離が4m、5mは違う」と、他の選手が指の第二関節にワイヤーをかけるところを第一関節にかけていた。その負荷によって指が裂け、出血していたのだ。

ウサギはなぜ速い? 猫はなぜ跳べる?

 1964年、東京五輪。なんとか4回転を形にして挑むも、13位に終わった。過度の練習によって腰が悲鳴をあげたのだ。

「体が耐えきれなかった。あと自分の背が10cmあれば、という気になりました。いくら鍛えても背は伸びない。骨格は大きくならない。力では限界がある。だから空想力、想像力を駆使しないといけないんだと」

 肉体の絶対値で負ければ終わり。そういう世界もある。ただハンマーには1.2mのワイヤーがある。その先に計り知れない可能性がある。菅原はそれを信じた。

 1日100投のかたわら、物理学者の元へ足を運んだ。5回転してみたこともあった。ウサギがなぜ速く走れるのか、猫がなぜ高く跳べるのか、じっと観察した。次第に練習場では誰も菅原のやることを理解できなくなっていた。直径約2m、たたみ2畳分ほどの小さなサークルに自分だけの世界ができあがっていった。

 そうした道程の末、やっと完成させた4回転で菅原はメキシコの舞台に立っていた。

 それを思えば、あの6投目、菅原が求めたものが周囲の価値観と異なっていたのは当然かもしれない。メダルのかかった状況でもあくまで「もっと遠くへ」と彼が願ったのは必然だったのかもしれない。

室伏重信を救った菅原の投てき。

 リッカーミシンの職場で知り合った妻は夫が見ている世界がどんなものか、何を求めているのかがずっとわからなかった。

 結婚当初、練習を終えて帰宅した菅原はいつも鼻血を出していた。

「何度も回転するので、遠心力で毛細血管が切れるんでしょうね。手も血で固まって箸を持てないのでスプーンで食事をしていました。家でも暇さえあれば何かをイメージしながら体を回転させている。私は競技に詳しくないので、夫が何をそこまで追求しているのかがわかりませんでした」

 物質的なものを求めているわけではない。だから余計にわからない。菅原はその後も4大会連続となるミュンヘン五輪に挑み(20位)、現役を終えると所属先のリッカー陸上部監督となり、何かを追い求めていた。周囲からすればメダルなきオリンピアンが欲しているものは見えにくかった。

 そんな中、菅原が頭の中に描いているものを凝視している男がひとりいた。

 室伏重信。

 7歳下の日大の後輩でありライバルであり戦友だった。菅原より恵まれた体躯を持ち、より多くのハンマーを投げてきたと自負する男はしかし東京、メキシコと五輪の代表になれなかった。もう競技を諦めようというほど悩んでいた彼を救ったのは、メキシコの空に放った菅原の投てきだった。

 1968年のあの日、室伏はテレビ中継画面にビデオを向けて撮影し、それを部屋のカーテンに映した。かろうじて見える4回転のフォームと自分の3回転とを比べてみた。朝から晩までそうしていたという。

 そこから道が開けた。菅原のあとの日本記録保持者となり、五輪の舞台を踏んだ。

「菅原さんの真似はできませんでした」

 菅原もそんな室伏をじっと見守っていた。

「室伏とは大学のグラウンドで一緒に練習したし、ヨーロッパ遠征で朝まで語り合ったこともあった。でも彼も僕に何も聞いてこないし、真似もしない。見て盗んで、自分だけのものをつくり上げるしかないんです。それぞれが持っているもの、それぞれの理想があるんです」

 時が経ち、時代が変わり、菅原が指導者を退き、髪に白いものが目立ち始めた2004年、室伏広治という4回転の投てき者がギリシャのスタジアムに立っていた。

 菅原はこの大会の前、重信の息子・広治と交わしたあるひと言によって、彼が世界のトップになると確信したという。

「ジュニア(広治)がね、僕にこう言ったんです。『菅原さんの真似はできませんでした』って。僕はそれを聞いて、ああ、僕以上の、何か素晴らしいものをこの男は手に入れたんだって、そう思いました」

 サークルの中に他者と重なることのない自分だけの世界を持っているか。菅原と室伏親子をつなぐものである。

 82m91。アテネの空に描かれた放物線を菅原は東京・羽村の自宅で見た。画面には日本の同競技史上初となるメダルも映し出されていたが、菅原の目が向けられたのはやはり形のないものだった。

「フィニッシュでね、僕からすれば開きが早いんです。最後のスタンスの幅をもう少し狭めて、ハンマーを残すようにしてやればもっとものすごい記録、世界記録が出る可能性があると思ったんです」

 アテネの夜を遡ればメキシコの空につながる。それを知ってか知らずか、菅原は相変わらずあくなき可能性を見ていた。

「見るだけ。遠くから見るだけ」

 妻は最近、夫がずっと追っているものが何なのかわかってきた。というのも老人の域に入った菅原の前には今も、形を変えて“サークル”があるからだ。

「私がお茶をやっているので、それに使う山野草を主人が育ててくれているんです。基本を勉強して、そこからは自己流にするんです。土をブレンドしてみたり、根っこを半分に割ってみたり、それで枯らせてしまうこともあるんですけど、あの人、花が咲かない鉢も『もしかしたら再生するかもしれない』って捨てないんですよ」

 ベランダや庭に並んだ、ひとつとして同じもののない50鉢を眺めて菅原は言う。

「いい花でも、実のない花でも、みんな平等だと思う。平等にどう咲くかという選択権があるんです。ああ、そういえば今度、私の地元の秋田に女子のハンマー投げで凄い選手がいるというので見に行ってみようと思うんです。見るだけ。遠くから見るだけ。良いとか悪いとかないんです」

 自宅のリビングには妻が綺麗にトロフィーや盾を並べた棚があるが、やはりそうした形あるものには目もくれない。

「何もいらないですよ。死んだら何か残るわけじゃない。私が死んだらああいうものは捨てろと言っているんです」

 物質ではない。彼方へ飛んでいく鉄球が示すもの。菅原がサークルの中でやってきたのは人間が持つ可能性の追求だった。

「メダル? そりゃあね。半分こにしてくれないかなと思ったよ。でも、やっぱりそれよりも自分に背丈が180cm、190cmあったらなと思いますよ。そうしたら、世界新記録、出せたんじゃないかなあ」

 81歳。頭の中ではいまだサークルに立っている。そこで可能性の旅を続けている。

 メキシコの空に悔いを残していないのはおそらくそのためだ。

菅原武男(ハンマー投げ)

1938年5月23日、秋田県生まれ。毛馬内(現・十和田)高校から日本大に進学後、リッカーミシンに入社。'60年ローマ五輪から'72年ミュンヘン五輪まで4大会連続出場を果たす。世界で初めて4回転投法を成功させたことで知られる。

  ◇  ◇  ◇

<この大会で日本は…>
【期間】1968年10月12日〜10月27日
【開催地】メキシコシティー(メキシコ)
【参加国数】112
【参加人数】5,516人(男子4,435人、女子781人)
【競技種目数】19競技172種目

【日本のメダル数】
金11個 上武洋次郎(レスリング)、体操男子団体など
銀7個 君原健二(男子マラソン)、バレーボール女子など
銅7個 森岡栄治(ボクシング)、男子サッカーなど

【大会概要】標高約2300mに位置する空気の薄い高地で行われ、空気抵抗が少ないため陸上競技では走り幅跳びや短距離走などで多数の世界新記録が生まれた。日本男子体操団体は大会3連覇。男子サッカーが銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。ジャック・ロゲIOC前会長(ベルギー)がヨット選手として初出場。

【この年の出来事】東大紛争勃発。アニメ『巨人の星』放送開始。グループ・サウンズ大流行。

文=鈴木忠平

photograph by PHOTO KISHIMOTO