昨年末、1通のLINEメッセージが届いた。

「来シーズンも、品川CC横浜でプレーすることになりました」

 送り主は、渡邉大剛。京都サンガ、大宮アルディージャ、釜山アイパーク(韓国)、カマタマーレ讃岐で活躍した名MFだ。昨年2月に現役を引退し、選手の代理人としての活動を始めた。同7月からは神奈川県社会人サッカーリーグに所属する品川CC横浜に加入し、代理人と選手の二足の草鞋を履く。

 彼のプロキャリアは、国見高校時代のある“事件”をきっかけにスタートした。

 2002年の春休み、岐阜県大垣市のグラウンドに名将・小嶺忠敏の怒鳴り声が響いた。

「そんなものしているなら、もう長崎に帰れ! キャプテンも剥奪や!」

恋愛禁止の掟破りのネックレス。

 2カ月前に選手権を制した国見は、強豪校を集めて開かれる大会に参加するため、この地を訪れていた。2年生で全国制覇を経験した渡邉は、新チームの主将に任命されたばかり。選手権3連覇へ好スタートをきるために燃えていた。

 ただし、思春期真っ盛りである。彼は銀色のネックレスをぶら下げて、この遠征に参加していた。「恋愛禁止」の掟を破り、内緒で交際していた同級生の彼女からもらったプレゼントだった。それがコーチに見つかり、小嶺忠敏監督のお説教が始まった。

 グラウンドに全力で反省の言葉を叫ぶ渡邉の声が響いた。小嶺の吊り上がった眉も、ようやく元の位置に戻った。

「わかった。じゃあ残っていい。ただし、試合には出さん。走っとけ!」

 何とか許しを得た“元キャプテン”は、すぐさま走った。ピッチの縦一面分をダッシュ、ダッシュ、ダッシュ。国見の試合中には、マネジャーの仕事をこなす。仲間のために飲み物を準備し、ビデオでピッチ上を撮影する。

 試合が終われば、再び走った。小嶺とコーチ陣は次の試合の準備をしているから、この“罰走”の様子を見ていない。それでも一切手を抜かずに、ダッシュ、ダッシュ、ダッシュ。

京都のスカウトは“罰走”を見ていた。

 そんな彼の姿を、グラウンドの隅から見つめる男がいた。Jリーグ・京都パープルサンガのチーフスカウト、竹林京介だった。渡邉が、当時を懐かしそうに振り返る。

「京介さんは、2年のころから僕のことを見てくれていたそうなんですけど、あの“罰走”が良かったみたいです。『ちんたら走ろうと思えば、走れる。それなのに、あいつはどれだけ走れるんだ。渡邉大剛、すげえぞ』と思って、獲得に乗り出してくれたらしいんです。あの“ネックレス事件”がなかったら、僕のプロ人生もなかったかもしれないですね(笑)」

 あれから18年。小嶺に“事件”のことを訊いてみた。

「大剛のネックレス、よーく覚えてますよ。でもあの子はね、少し調子に乗るところはあったけども、真面目だったんです。特にサッカーノートは、素晴らしかった。毎日、丁寧に、びっしりと書いてくる。弟たち(千真、三城)はそうでもなかったんだけどね(笑)。今までの教え子の中でも、大剛のサッカーノートが一番だね」

 罰走も、そう。サッカーノートも、そう。居残り練習も、そう。恋愛も、そう。

 一度やると決めたら、こつこつ、こつこつ。中学1年からつけ始めたサッカーノートは、昨年の引退まで書き溜められ、大量のノートの山が、今でも長崎・国見町の実家に山積みされている。

「僕は“クソ真面目”なんです(笑)」

 さらに国見時代は、全体練習後の居残り練習も欠かさず、同級生を誘っては1対1でひたすらドリブルの技術を磨いた。夜20時、最後にナイター照明のスイッチを消すのが、渡邉の日課だった。ちなみに18年前にネックレスをプレゼントしてくれた相手は、現在の彼の奥様である。

「文章を書くことも、居残り練習も、せっかく始めたことを途中でやめる自分が嫌なんですよ。これは根気強い性格と、小嶺先生や小中学校の監督の影響だと思います。小嶺先生からは、常に『継続は力なり』『鍛錬は千日の行。勝負は一瞬の行』と言われていました。

 国見育ちの僕は“クソ真面目”なんです(笑)。プロになったばかりの頃は、なかなか試合に出られない時期が長かったですし、愚痴を言いたくなることもありました。でも、そこで手を抜いたり、人のせいにして文句を言っていたら、絶対にそこで終わってしまう。ふて腐れたとしても、やるべきことは絶対やる。そこは昔からずっと変わらなかったですね」

 実るほど頭を垂れる稲穂かな。

 これもまた、小嶺が教え子たちに口を酸っぱくして伝え続けてきた言葉である。成功したときこそ、謙虚でありなさい。この言葉も、渡邉大剛のサッカー人生を振り返るのに、ぴったりだ。

J1昇格の立役者になったが……。

 2007年シーズン、渡邉は右サイドからのキレ味鋭いドリブルを武器に、レギュラーに定着。特にサンフレッチェ広島とのJ1・J2入れ替え戦・第1戦では、次から次に相手を抜き去り、正確無比なクロスで2アシスト。京都のJ1昇格の立役者になった。

 プロ5年目を終えた青年は、もう調子に乗らなかった。選手・スタッフ全員で喜びに浸った年末の納会でのことだ。渡邉は会場外のベンチで夜風に当たりながら、横に座る先輩・倉貫一毅に、頭を垂れて訊ねた。

「サイドアタッカーだけじゃなくて、いろんなプレーができる選手になりたいんです。どう思いますか?」

 倉貫の答えは、シンプルだった。

「ええんちゃう」

 この一言が、大きかった。

環境とチームに合わせて変わり続ける。

「'06年に京都がJ1を戦ったときに、僕と似たタイプのドリブラーが全然通用しなかったんです。前年のJ2ではサイドからどんどん相手を抜いていたのに、です。じゃあ同じタイプの自分が、ドリブルという武器を封じられたときに、どうやって生き残っていけばいいんだろうって、ずっと考えていました。

 一毅さんはプレーヤーとしても、人間的にもすごく尊敬している人です。実際、練習に取り組む姿勢だったり、プロとしての言動だったり、たくさん影響を受けました。そんな一毅さんが賛同して、『ええんちゃう』と言ってくれた。あの言葉がなかったら、もし『自分の武器をとにかく磨けばいいやろ』と言われていたら、もっと早く戦力外になって引退していたかもしれませんね」

 特に'09年に左アキレス腱断裂の大ケガを負ってからは、プレースタイルを大きくモデルチェンジさせた。ドリブラーから、プレーメーカーへ。味方に使われる選手から、味方を使う選手へ。

 '11年に移籍した大宮では、中央の狭いエリアに潜り込んで巧みにパスを引き出し、中盤と最前線をつなぐ「コネクタ」役を担った。'16年から加入した讃岐では、自在にパスを配り、プレースキッカーも任された。

 チームが自分に求めているものは何か、チームを勝たせるために自分ができることは何か。日々、サッカーノートに書きとめながら、考え続けてきた。その結果、J1通算214試合、J2通算183試合に出場することができた。

「サッカーの見方はだいぶ変わりましたね」

 18年前、丸刈り頭でグラウンドを走り続けていた少年は現在、代理人としてスタンドから“未来のクライアント”を探している。

「サッカーの見方は、だいぶ変わりましたね。スタンドのお客さんには、なかなか伝わらないと思うんですけど、ボールのないところで効いている選手って、やっぱりいるんです。あえて前に急がずにボールを動かして、意図的に相手を疲れさせている選手。ボールを失ったときにすごく良い位置に立って、ポジショニングでカウンターを防いでいる選手がいる。

 その一方で、代理人目線ではボールを持ったときに独力で何かをできる選手が注目されやすい。海外に目を向けた場合、そのほうが選手を移籍させやすい傾向があるからです。年齢的にも、多少のミスには目をつぶってでも伸びしろやポテンシャルを持った若手のほうが、ベテランより評価されるということも理解できました」

 Jリーガー出身の代理人だからこそ、わかることがある。それでも決して“上から目線”で語らないのが、いかにも彼らしい。

「試合に出られないときの選手の気持ちだったり、監督との付き合い方だったり、選手上がりだからできるアドバイスはあると思います。その反面、契約時の交渉だったり、強化部の人とのパイプの作り方だったりは、他の業種やいろんなビジネスを経験してきた代理人のみなさんに強みがある。そこは僕もこれから経験を積んで、選手が一番幸せになるサポートができるようになりたいですね」

 Jリーグの表舞台を離れても、こつこつ、こつこつ。きっとそうやって、彼は周囲の信頼を得ていくのだろう。

文=松本宣昭

photograph by Yoshiaki Matsumoto