話は少し前にさかのぼる。

 2012年11月。フランス最大級の屋内競技場として知られるパリのベルシー体育館(現アコーホテルズ・アリーナ)で行われた空手の世界選手権、女子形決勝。大観衆の前に現れたのは、宇佐美里香とフランス出身のサンディ・スコルド。

 先に演武したスコルドは地元開催の重圧からか、決めの姿勢で右足が動くまさかのミスを犯し、会場がざわついた。演武が終わり、宇佐美と入れ替わった。

 最初の突きを打つ。スピード感や切れがスコルドとは比べものにならない。開始から5秒ほどで、早くも客席からは拍手が出始めた。それは時間が経つごとに会場全体に広がっていく。終盤でバッと飛び上がる見せ場では、割れんばかりの大歓声。演武を終えて一礼すると、スタンディングオベーションが起こった。

動画は1000万回以上再生された。

 取材していた私は、あっけにとられた。

 この光景の異常さは、フランス国内のスポーツイベントを観戦した者なら理解できるかもしれない。フランス人は、とにかく自国選手を熱狂的に応援する。テニス男子の錦織圭も、全仏オープンで地元選手と対戦する際は観客が「クレイジーになる」と表現したことがあった。そんな一癖ある観客たちの心を、わずか2分半ほどの演武でわしづかみにしたのだ。

 最後は審判の判定。結果は誰もが予想した通り、宇佐美が巻く帯と同じ青色の旗5本がきれいに上がった。

 世界空手連盟(WKF)の公式YouTubeチャンネルで視聴できる宇佐美のこの演武は、数あるWKF公式動画の中でも2番目に多い1000万回以上が再生されている。まだ見たことがない方は、スコルドの分を含めてぜひこの機会に視聴していただきたい。

 空手史に残る名場面を置き土産に、宇佐美は翌年に引退。その後継者が今のエース、清水希容である。名前は「きよう」と読む。

清水のライバルは38歳のサンチェス。

 清水には強力なライバルがいる。スペインのサンドラ・サンチェス。芽が出なくても諦めず、30代に入ってからようやく世界トップの実力をつけた遅咲きの38歳だ。清水とは12歳差。

 サンチェスの演武は力強いだけでなく、基本がしっかりしていると言われる。欧米選手はパワフルさやスピードには定評があったが、近年は技術も向上してきた。研究熱心な選手たちが毎年のように空手発祥の地とされる沖縄を訪れ、技を磨いているのも一因だろう。

 空手は東京五輪で初めて五輪競技として行われる。WKFは国際オリンピック委員会(IOC)からの指摘を受け、形の判定をより観客に分かりやすくするため、旗判定から採点方式に変えた。

 テクニカル・パフォーマンス(技術点)、アスレチック・パフォーマンス(競技点)と2種類の採点項目があり、30点満点である。

マドリードでの決勝は大差の敗北。

 昨年11月に行われたプレミアリーグ最終戦マドリード大会の女子形は、下馬評通りに清水とサンチェスが決勝で顔を合わせた。

 先に演武した清水は大きなミスなく、26.28点。後攻のサンチェスは27.00点をマークした。0.01点を争う競技としては大差といえる。昨年のプレミアリーグ6大会で3勝ずつを分け合い、最終戦は年間女王を決める舞台だった。

 翌年に迫った五輪で金メダルを取るため、「打倒サンチェス」に並々ならぬ意欲で臨んでいただけに、清水は人目に付かない場所に来ると涙を抑えられなかった。自信があった技術点でも敗れたことが、ショックを膨らませた。

 形は、過去の結果も審判の採点に影響を与えると言われる。2018年世界選手権で自身の3連覇を阻んだサンチェスを上回るには、相手より明らかに上の演武を見せることが必要だった。少なくとも、清水本人はそう感じていた。

「世界選手権のことがあったので、僅差ではサンドラに勝てないのはよく分かっていました。かなりの差をつけて勝ちにいこうと思って臨んだんですけど、いつも以上に離されてしまいました」

「呼吸音」と「力の加減」。

 清水が課題にしているのが「呼吸音」と「力の加減」。技術点を評価する基準の1つに「適切な呼吸」があり、呼吸音が大きいと減点されてしまう。練習では音を抑えることができるが、本番で気持ちが高まると大きくなってしまうという。

 余計に力が入ることで技のめりはりもなくなり、日本代表の古川哲也コーチは「少し力の強弱が一定になっていた部分はあった」と厳しい表情を見せた。

 年が明け、東京五輪イヤーの初戦であるプレミアリーグ・パリ大会がやってきた。ここで何としても「サンチェス強し」のイメージを払拭しなければならない。

 清水は1、2回戦を同組トップの得点で勝ち上がり、8人による準決勝に臨んだ。1番手で得意の形を披露し、26.22点。だが、7番目に演武したイタリアのビビアナ・ボッタロが26.26点を挙げ、清水はこの組2位でまさかの3位決定戦に回ることになった。

右膝に施された大きなテーピング。

 プレミアリーグで決勝に進めないのは2018年2月のドバイ大会以来で、約2年ぶりの屈辱。失意の表情でチームメートらが集まる控室に戻ると、身支度を調える途中、右膝周辺に大きなテーピングを施しているのが私の目に入った。清水は荷物をまとめると、報道陣にほとんど対応することなく引き揚げた。

 古川コーチが、その胸中を代弁した。「悔しいですね。ちょっと体が万全ではないところもあったので、いまひとつ体が動き切らない感じでした」

 聞くと、1〜2週間前の練習中に脚を痛めていたという。

「かなり(力を)コントロールして試合をやっていましたので、自分でもそこまで手応えはなかったはずです。ここで負けるのはかなり悔しいことですし、自分に対してふがいない思いもあるでしょう。しっかりと治れば問題ないと思いますけれど……」

「自分に負けたなって思った試合」

 翌日の3位決定戦で、清水は香港選手を下した。しかし、力強さやスピード、バランスを評価する競技点は同点。技術点でわずかに上回る辛勝だった。

 今度は取材エリアでしっかりと対応し、まずは大会全体の総括を問われた。

「今回の負けは相手に負けたっていうよりも、やっぱり自分に負けたなって思った試合だったので……」

「自分に負けた」という言葉を、涙声で振り絞るように言った。

「日本代表として、日の丸を背負ってやっている中で勝てないのはすごく責任を感じていますし、自分が代表でいいのかなって思う時もやっぱりあったんですけど……。今回の負けが自分の気づきになったと思うので、しっかりと、もっと自分とちゃんと向き合ってやっていきたいなと思います。

 もうこの舞台には立たないように、必ず決勝の舞台で、次は必ず(表彰台の)一番上に立てるように。全てしっかり準備して、次の大会に臨みたいと思います」

 けがを抱えていたことは最後まで明かさなかった。ただ、「自分に負けた」「(次は)全てしっかり準備して」という言葉に、調子を合わせられなかった無念さがにじんでいた。

 清水にエースのバトンを渡す形になった宇佐美は現在、指導者として日本代表を支えている。今大会は、コーチとしては自身初めての海外遠征だった。苦しんでいる現エースについて話を聞いた。

「重圧とかもあると思うんですけど、力を抜いて、気負わずにやってもらったらいいかなと思います。結構、一生懸命な性格だと思うので」

「やっぱり自分が一番何をしたいか」

 直接指導する立場ではない宇佐美コーチの目にも、余計な力みが出ていることが分かっているようだった。

 あの時、あなたがパリの観客を味方につけたような演武をするため、清水に足りない物は何か。

「観衆を味方につけるためにというよりも、自分がどう演武したいか。信じられる技術とか、正しい空手を追い求めていったら、自然とそういう演武ができると思うんですけど……。

 結果がついて来るためには、やっぱり自分が一番何をしたいか。これをしたいというのを出していけば、自然とそうなるのかなって。自分が納得いくことができたらいいんじゃないですかね」

 今後、五輪までにサンチェスと対戦できる機会は数回しかない。それまでに体調を整え、課題を克服することが何よりも大事になる。

 現役時代で一番の思い出に残る大会は何かと聞くと、「やっぱりパリ大会ですね」と宇佐美コーチ。柔らかい笑顔とともに、想定していた答えが返ってきた。

 いつか現役を退き、同じような質問を受けた時、清水は「東京五輪の決勝」と笑顔で言えているだろうか。五輪本番まで、残り数カ月。運命の日は、すぐそこまで迫っている。

文=長谷部良太

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