2月末のJリーグ開幕直前、フットボールへの愛を語っていたローランドさん。Jリーグ中断に伴い、未掲載のまま温めていたコラムを、リーグ再開を前に特別に公開する――。

 プロのサッカー選手になることだけを目指して、無心でボールを追いかけた少年時代だった。中学時代を育成の名門として知られる柏レイソルのアカデミーで、高校時代を屈指の名門・帝京高校で過ごし、「プラチナ世代」と称された1992年度生まれの一員として青春時代のすべてをサッカーに捧げた。

 残念ながら、プロ・フットボーラーになる夢を叶えることはできなかった。それでも、一発逆転を夢見て飛び込んだ夜の世界で、厳しい勝負の世界の頂点に立った。そこまでたどり着いて初めて、「一度は嫌いになったサッカーをもう一度好きになれた」と口にする。

 とある金曜の夜。舞台は新宿・歌舞伎町。この街のナンバーワン・ホストとして知られるローランドは、どこまでも熱く、真剣に、どこまでも楽しそうにサッカーとJリーグを語った。

すべてのパワーをサッカーに注いでいた。

――まずはサッカーを始めたきっかけから教えてください。

 始めたのは幼稚園の時。でも、理由がわからないくらい、気づいた時にはもうボールを蹴っていたという感覚です。もちろんプロを目指していましたし、それ以外の目標はありませんでした。僕は“熱しにくく冷めにくい性格”なので、『これ!』と決めたら他に選択肢がなくなってしまうんですよ。だから、どうやったらいいプレーができるか、ゴールできるか、ずっとそればかり考えていました。

――子どもの頃からストイックだった?

 そうですね。ものすごくストイックにサッカーのことだけを考えて生きていましたし、少し極端なくらいに、サッカーに必要なこと以外はすべてムダに感じていた気がします。

 例えば、『学校に行く暇があったらボールを蹴っていた』なんて逸話がブラジルにあると聞けば、それを信じて『勉強は悪だ!』と思い込んでしまったり。恋愛もそう。そういうものをすべて犠牲にして、すべてのパワーをサッカーに注いでいました。

――学生時代はどんなタイプの選手だったのですか?

 ゴリゴリで、泥臭くて、ただ点を取るためだけにピッチに立っているようなストライカーでした。技術的な意味ではずっと『ヘタクソ』と言われ続けていたので、足元のうまい選手がうらやましかった。そういう選手との差は、ずっと感じていました。

宇佐美と対戦、身の丈を知ってしまった。

――ローランドさんは、いわゆる“プラチナ世代”の1992年生まれですよね。

 本当にすごい学年でしたね。宇佐美貴史(ガンバ大阪)選手が17歳でACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出場してゴールを決めたり、宮市亮(ザンクトパウリ)選手がJリーグを経由せずにアーセナルに加入したり。彼らはU-17ワールドカップであのネイマールやフィリペ・コウチーニョがいるブラジル代表と対等以上に渡り合っていたし、もっとさかのぼれば、U-13の世界大会で優勝して世界一になっているんですよ。だから、子どもの頃から思っていたんです。「俺らの世代って、もしかしたら史上最強なんじゃないか」と。

 ちなみに宇佐美選手とは1度だけ対戦したことがあるんですが、もう、本当にうますぎて何もさせてもらえなかった。宮市選手とも高校時代に対戦しましたけれど、圧倒的に速すぎて、まるで教習所に1台だけフェラーリが走っている感覚でしたね。

 そういう経験を通じて、同世代のトップにいる選手たちとの埋められない差を日々感じていたし、かなり早い段階で“身の丈”を知ってしまったのだと思います。

――サッカー選手としての最後の公式戦となったのが、帝京高校3年時の高校サッカー選手権予選だったと聞きました。

 忘れもしない、2010年11月13日ですね。都大会の決勝で駒澤大学高校に負けて、僕のサッカー人生は一度終わりました。

「これ以上ない」と言える努力をしたという自負があったし、これでダメなら、もし人生が3度、4度とあっても絶対にプロにはなれないと思える努力をしました。そういう意味で、最後の試合が終わったあの瞬間は、清々しさと悔しさが入り混じった複雑な感情になりましたね。今でもうまく説明できません。何しろ、ずっと追い続けてきた「プロになる」という夢がかなわないことを実感した瞬間だったわけですから。人生であれ以上の屈辱を味わったことはありません。

 裏切られた気持ちになって、あれだけ好きだったサッカーを遠ざけるようになってしまったんですよ。

エネルギーはサッカーで味わった悔しさ。

――その後、なぜホストの道を選択したのはなぜ?

 サッカー選手になるという夢はかなわなかったけれど、「逆転したい」という強い気持ちだけはありました。目の前が真っ暗になって「何をしたらいいんだろう」と思った。でも、このままで終わりたくない。絶対に逆転したいという思いだけは強かったんです。

 当時のわずかな知識で思い浮かべられる“逆転の方法”は、芸能人になるか、ミュージシャンになるか、水商売を極めるかの3つくらいしかありませんでした。父親が音楽業界の人間なのでミュージシャンになろうと思ったんですが、でもやっぱり、“2世”というレッテルを貼られることはイヤだった。

 自分の力で人生を変えるなら、水商売しかない。自然と、歌舞伎町に足が向きました。

――ホストの世界でトップに立つことは、プロサッカー選手になることと同じくらい難しいことだと思います。

 僕の場合は、悔しさがエネルギーでした。サッカーでプロになることができなくて、落ち込んで、俺は何やってるんだと自分を責めたこともあります。でも、この業界で頑張って、結果を出して、周りに認められることで自尊心を取り戻すことができた。自分を好きになることができたと思うし、そういう状態になって、初めて「好きなものは好きなままでいたい」と思えるようになったんです。

 で、テレビで放送されていたサッカーの試合を観てみたんですよ。やっぱり面白いんですよね。ホストの世界で自分をここまで押し上げてくれたエネルギーは、間違いなくサッカーからもらったものだった。頑張ってよかったなと思います。ホストとして頑張れなかったらたぶん今でもサッカーが嫌いなままだったと思うから。今の自分は自分のことが好きだし、サッカーのことが好き。あそこで人生をあきらめなくてよかったと思いますね。

「死ぬ間際に思い出すんだろうなと」

――昨年10月には、セレッソ大阪が主催するイベントのゲストとしてヤンマースタジアム長居のピッチを歩かれましたね。

 セレッソ大阪には感謝してもしきれません。「言葉にできない」とはとてもありきたりな表現ですけれど、本当に、言葉にできないくらいの感動がありました。入場の際、一歩一歩普通に歩いていたように見えて、「これが夢見ていたピッチか」と、溢れ出る思いを抑えることができなかった。あきらめなければ夢は叶う。少し形が変わったとしてもちゃんと叶うことを自分自身で証明できた瞬間でもあって、またひとつ、自分自身を認められた気がします。

 自分にとっては本当に素敵な、きっと死ぬ間際に思い出すんだろうなと思える最高の瞬間でしたね。

――プロになることを本気で目指したからこそ思うこと、感じることがたくさんあった。

 普段からJリーグの舞台に立っている選手からすれば、もちろんもともと才能のあるプレーヤーで、「俺だからそこに立っている」と思えるかもしれません。でも、プロになった彼らを頂点とするなら、その下には、僕を含めて本気で目指したけれどプロになれなかったプレーヤーが数え切れないほど存在するわけです。

 だから、僕にとってプロのピッチは、いつまでたっても夢の場所であり、本当に夢をつかんだひと握りの人だけが立てるところ。僕にとってJリーグは、永遠の憧れです。キラキラとした夢の空間です。プロ・フットボーラーは夢のような仕事であり、最高の幸せだなと思います。

主役になるために必要なこと。

――2020シーズンのJリーグに期待することを教えてください。

 僕は柏レイソルのアカデミー出身なのですが、今はもう、夢を叶えてくれたセレッソ大阪の大ファン。新加入の西川潤選手には期待していますし、昨シーズンの久保建英選手のような活躍を見せてほしいですね。

 主役のなり方ですか? 個人的には、主役のなり方よりも脇役のなり方のほうが難しい。主役になる方法を教える代わりに、脇役になる方法を教えてもらいたいですね(笑)。

 まあ、それはローランドとしての回答ですけれど、いちファンとして答えるなら、フットボーラーとして知らなくていいことは“身の丈”だと思うんです。サッカー選手としての僕自身がそうだったように、身の丈を知ってしまった時点で限界が決まってしまう。これは特に若手選手に当てはまることかもしれませんが、ミスをしたっていいんです。サッカーは、たった1つの美しいプレーで称賛されるスポーツですから。

 だからこそ、身の丈を知らずに突っ走ってほしい。「そんなもの知るか!」という気持ちでプレーし続けることが、主役になる、さらに上に行く、もっともっと輝くための秘訣なんじゃないかなと思います。

文=Number編集部

photograph by Suguru Saito