アントニオ猪木77歳――喜寿を迎えた「燃える闘魂」の勇姿が、アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で見られました。
 NumberWebでは、喜寿を迎えてますます盛んなこのレジェンド・ファイターの数多くのエピソードを、写真家・原悦生の文章で振り返ることで祝辞に代えるべく、コラムを編んでみました。果たして“あの伝説”の真相は何だったのか……。最終回のテーマは「アントニオ猪木、名勝負数え唄」です。

 猪木は様々な種類の試合を戦ってきた。

「リングっていうのはロープの中だけじゃないんですよ」

 使えるものはなんでも使うというのが、猪木流のプロレスだった。鉄柱だろうが、ロープだろうが、そのロープをつなぐ金具だろうが、そして、自分の体のどこでも使えるところはすべて使って猪木は戦ってきた。

 情熱的に、いや、時には“狂ったように”猪木は相手に向かっていった。

「ご自身が考える名勝負はどれですか?」と人に問われても、「それはお客さん、ファンが決めるものだから」といつも猪木は答えている。

 猪木が負けた試合は少ないが――負けた試合のインパクトの大きさを、筆者はよく覚えている。敗戦から這い上がってくる猪木を、これまで何度も見てきたからだ。

 最も有名な試合だと……1983年6月、猪木のために開催されたはずの第1回IWGP(インターナショナルレスリンググランプリ)の決勝戦だろう。

 ハルク・ホーガンにアックスボンバーでKOされた、いわゆる「舌だし失神事件」だ。あれは本当に壮絶なKO負けだった。

 その後のホーガンは、猪木と戦ったり、タッグを組むことによって成長し、アメリカで誰もが知るビッグネームになることができたのだ。

伝説の試合では、見事にKOされた。

 1989年4月、新日本プロレス初の「東京ドーム大会」が開催された。

 この日のメインイベントにはノーロープの円形リングが用意されていた。相手は旧ソ連のグルジア(現ジョージア)出身の柔道家ショータ・チョチョシビリ。

 結果として猪木は、そのチョチョシビリの裏投げ3連発にKOされている。

柔道着を噛んでまで戦う、猪木の異常な執念。

 そもそも猪木の異種格闘技戦の始まりは、1976年2月のウィレム・ルスカとの戦いだった。オランダの赤鬼、1972年のミュンヘン五輪柔道無差別級と重量級の金メダリスト。猪木は激闘の末、ルスカをバックドロップ3連発で破っていた。

 その猪木が同じミュンヘン五輪の軽重量級(93キロ以下)金メダリスト、チョチョシビリと、歳月こそ流れてはいたが戦った……というわけだ。

 猪木とその試合の数カ月前、モスクワに向かう飛行機に乗り合わせた時、リングについて話したことがある。

「リングだから、語源はもともと円でしょう。昔のボクシングだって、街のケンカだって、円い人垣の中で戦った。ただ、見せるためにロープを張る必要があってリングは四角くなった。6角形や8角形のリングは作れても、ロープを円く張ることはできない」

 私はこんなことを猪木に言った記憶がある。

 結果、猪木には逆転の発想が生まれたのだろう。じゃあ、ロープを取り払ってしまえば、丸い円形のリングが可能だろう、と。アマチュア・レスリングのマットの中だって、相撲の土俵だって「○」なのだ。

 正方形のリングの4面を膨らませば円形のリングが出来上がった。

 だが、こうして誕生した鉄柱だけが残ったロープのない円形リングは、柔道のチョチョシビリにアドバンテージを与えたようなものであった。

 チョチョシビリの腕殺しにあって左腕が使えなくなった猪木が、チョチョシビリの柔道着に噛みついて相手の体をコントロールしようとするシーンがある。

 柔道着を噛んでも反則ではない。

 この光景を目撃した瞬間、私は素直に「すごいな」と思った。

 戦いというものに対する、猪木の底しれぬ執念を感じたからだ。そのシーンは、まるでストップモーションのように今も私の脳裏に焼き付いている。

 この試合、最後はリングに伏して10カウントを聞いてしまう猪木の姿が残った――これも猪木の引退試合の1つだったのだろうと、後になってから納得した憶えがある。

一番好きだったのはアンドレと戦った時の猪木。

 いわゆるストロング・スタイル。技と技、もしくは力と力の攻防で一瞬も見逃せないような激しい試合は、見応えがある。

 そんな死闘の中でも、私は……あの大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントと戦う猪木が一番好きだった。

 223センチ、230キロ。そのアンドレの攻略法に、特に濃厚な「猪木の世界」を感じることができたからだ。

 大巨人につぶされて苦痛に耐える猪木。絶妙なタイミングでアンドレにドロップキックを浴びせる猪木――そのままアンドレを抱え上げて投げ飛ばす時、この上ない快感がストレートに伝わってきた。

北朝鮮で15万人の観客の前で戦った記憶。

 1995年4月、北朝鮮・平壌で開催された「平和の祭典」。

 その大会のリック・フレアーとの試合は、古き良き時代のプロレスを強烈に感じさせてくれた。フレアーという一流のアメリカン・プロレスのキャラクターと、日本を代表するストロング・スタイルの猪木が戦ったのだ――まるで昭和の30年代後半から40年代が思い浮かぶような光景。

 あの大会が開催されたのは、世界最大とも言われた15万人収容の「メーデースタジアム」だった。スタンドだけで15万人だから、アリーナも入れるとさらに多くの人が見たことになる。まるでこだまのように遅れて伝わってくるスタジアム内の大歓声が、これまで感じたことがない異様な雰囲気を作り出していた。

 猪木は、師匠・力道山の故郷で大観衆から称賛されたのだ。

 この時の試合を振り返って猪木が、「ガウンは平壌に脱いできた」と、まるであの試合が引退試合だったかのような発言をしたこともあるほど、感慨深い一戦だった。

「やり残したことなんかないよ」

 猪木の実際の引退試合は1998年4月に東京ドームで行われた。

 猪木はUFC王者ドン・フライをグラウンド・コブラツイストに捕らえて、正真正銘の最後の試合で、勝者としてリングを降りた。

 プロレスラー、アントニオ猪木はきれいにリングから去ることができたのだ。

「やり残したことなんかない」

 猪木は自らの引退を語ることで、安易にカムバックしてしまうプロレスラーたちに厳しい警鐘を鳴らしてきたのだ。

「猪木プロレス」はアントニオ猪木でなくては成立しない。たとえ、誰かが猪木の名前を口にして戦ったとしても、だれも猪木になることはできない。

 だから、猪木がリングを去った後――日本プロレス界は、大きくそのスタイルを変えざるをえなかったのだと思う。

 それは時代の流れに身を任せるようなもので、ごく自然なことだったのかもしれない。

今の夢は、水プラズマを使った新事業!

 祖父から引き継いだような大きな夢を、猪木は今も追い続ける。その家系で培われた猪木の世界観は独特だ。

「山師なのかもしれない。悪い意味ではなくてね」(猪木)

 そして、今の夢はプロレスではない。

 猪木の頭にあるのは「水素」だ。

 環境汚染の対策として水プラズマを使った産業廃棄物処理の実現に向けて動いているのだという。九州大学の渡辺隆行教授の理論に則って、フィリピン政府の後押しを受けて事業化を進めているのだそうだ。

 こういう時、猪木の掲げるテーマはいつも、とてつもなく大きい。

「世界の食糧危機を救う」「環境問題」「エネルギー」……そして今回は「ゴミ問題」だ。

 かつて、ブラジルで進めたアントン・ハイセル事業が失敗に終わって多額の借金を背負ったことだってある。でも、猪木は「借金も財産のうちだ」とモハメド・アリ戦の負債18億円と共に笑い飛ばしていた。

「(うまくいったら)世界に向けてバカヤローと言える時が来るよ」と笑いながら、猪木は水プラズマの凄さを熱く語っていた。

「さよならだけが人生だ」

 2月20日の喜寿の祝宴で、大勢の客を目の前にして、猪木はこんな詩を読んだ。

 「花に嵐のたとえが
        あるように
  さよならだけが
        人生だ
  人は出会いと別れの
        交差点
  今日は明日への
        おくりもの」

 アントニオ猪木は今でも強烈過ぎる存在だ。

 猪木自身が願うように「フーッと風が吹いて、砂漠が形を変えるように」本当に自分の足跡を消し去ることなど、果たしてできるのだろうか……。

文=原悦生

photograph by Essei Hara