Number1000号発売を記念した編集長経験者による座談会。第2回は「ミスタープロ野球」やサッカー日本代表など、それぞれ最も印象に残っている特集について制作秘話も含めて語っています。
<出席者>
松尾秀助 自らの発案によりNumberが創刊され、1980年代に第2代編集長を務めた。
井上進一郎 1990年代に第7代編集長としてサッカー日本代表W杯初出場などを報じた。
河野一郎 第10代編集長。学生時代から愛読し2000年代にWBC優勝号などを手掛けた。

松尾「Numberを創刊して、実は9号目まではどうやって作ればいいか手探りでやるような状況でした。それが10号で巨人の長嶋茂雄監督に特化した号を作ったら、爆発的に売れた。

 これがNumberにとっての大きな突破口でした。金鉱であちこち掘っていたら、ボコッと金脈にぶち当たった感じでした。

 当時、巨人は背番号90の長嶋監督が率いていて、不振に喘いでいた。

『ダメ監督』とか『長嶋辞めろ』とか言われていた。それで初代編集長の岡崎満義さんが『背番号3の長嶋は光り輝いていた。我々の青春のシンボルだった。もう1回背番号3の長嶋を輝かせよう』と言って選手時代の長嶋さんを特集することを決めました。いわゆる『振り返りもの』です」

背番号3時代の長嶋さんの輝きを再び見たい。

松尾「表紙に使った空振りしてヘルメットをすっ飛ばしている写真はサンケイスポーツに探しに行って見つけたものです。長嶋さんの写真は膨大にあるわけですが、ネガをプリントしているものを見ているうちに、ピンと来たんですね。

 それが爆発的に売れたというのは、やっぱり背番号3時代の長嶋さんの輝きを再び見たいというファンの心の琴線に触れたんだと思います。

 Numberはカバー(表紙)ストーリーとカバーに使う写真がとても大事で、それに基づいて大特集を組むという、今に続くスタイルがこの号で出来ました」

今考えたら100万部刷っても良かったのかも。

井上「私が一番印象に残っているのは、やはり編集長時代にサッカー日本代表が初めてワールドカップに出場したときですね。

 これまでNumberで一番売れたのは、サッカーのフランスワールドカップ出場決定を報じた『We did it!』号の翌号です。フランスワールドカップ出場国を紹介した433号『選ばれし者たち』(1997年12月4日)で50万部近い実売数でした。

 フランスワールドカップをプレビューした446号『日本代表、史上最大の挑戦』も同じくらい売れたのですが、このときは当時の社長が来て、『井上君、100万刷れないかな』と(笑)。『そりや、無茶ですよ』と断りましたが、今考えたら100万部刷っても良かったのかも。'97、'98年ごろはバブルのような感じでした」

松尾「一般的なバブルは'90年ごろ弾けましたが、出版界は'96年がピークで、'97年からだんだん下がり始めた。そういう意味ではNumberを'80年に創刊できたのは、とてもハッピーなことだったと思います」

世界で勝つという意識を、読者と共有。

河野「僕は最初にNumber編集部に配属になったのが1987年ですが、ちょうどそのころ、Numberを取り巻く環境がどんどん世界に向けて広がっていったんです。

 それまではオリンピック以外は日本の狭いなかでしかスポーツを見てなかったのが、F1でホンダがグランプリを勝ったりして、みんなそれに興奮していた。スポーツを語る地平が変わって、広がっていった」

井上「たしかに欧州のスポーツを見るようになったのはF1が大きかったですね。'87年に中嶋悟さんがF1に参戦して、ちょうどそのころNHKの衛星放送が始まって。その後、バルセロナ五輪でNBAがものすごく人気が出たりして、日本でテレビ観戦できる競技も多くなった。

 読者の目線が世界に広がるなかで、サッカー日本代表がワールドカップに出るようになって、Numberにとってものすごく大きなコンテンツになった。2000年代になるとさらに進んで、世界に出るだけでなく、世界で勝つという意識を、読者と共有するようになりましたね」

中吊り広告が盗まれるほどの人気。

河野「自分が編集長としてかかわったものでも654・655・656合併号が印象に残っています。2006年ドイツワールドカップの直前号です。この号で三浦知良さんと中田英寿さんの対談が実現した。今読んでも日本代表への2人の思いが伝わってくる。懐かしいし、やっぱり面白い。

 このときは、日本代表への期待感がもの凄くありました。

 電車の中吊り広告は、表紙の2人に宮本恒靖さん、川口能活さんを加えて、通常の倍のサイズの大きくて豪華なものを作りました。そんな大きな中吊りが盗まれたりしていました。それだけに決勝トーナメントに行けなかったのは残念でした」

軋轢も含めて生々しく、リアルに書いた。

井上「サッカーで言うと、やはり金子達仁さんの『叫び』と『断層』は強く印象に残っています。

 ブラジルを破り『マイアミの奇跡』を起こしたサッカーのアトランタ五輪代表のチーム内で実際に何が起きていたのかを、軋轢も含めて生々しく、リアルに書いていった。

 記事が出た'97年ごろは金子さんがライターとして売り出していたころで、彼とともにNumberも大きくなっていった。ひとつの時代を作ったと言えると思いますし、Numberとしても金子さんというライターを世に出すことができたというのもひとつの成果だったと思います」

松尾「私の時代では、周りと軋轢を生んでいた存在として江川卓という選手がいた。賛否両論、生意気な奴だとかいろいろあったけど、とにかくピッチャーとしては凄いということで、特集を組んだ。

 私も表紙撮影の現場にいましたけど、何か面白いことはできないかと考えた。それで、彼をTシャツ1枚にして、担当編集者にとにかくジャンジャン水をぶっかけさせたんですよ(笑)。もっともっとと煽ってかけさせた。江川さんも嫌がらずにやってくれた。

 インタビューもしたけど、面白い選手でしたよ。人を食ったようなところもあり、監督の声がかからない理由も分かる気がしますが(笑)」

「自分を高く買ってくれるとこだったら、どこでもいい」

河野「700号記念号で『700の名言』という特集を組みました。創刊号から700号に至るまでの選手たちの印象的な言葉を、編集部総出で手分けしてピックアップしたものです。

 江川さんの言葉も紹介されています。たとえば『たぶん記録にも残らないし、記憶にも残りたいと思わないわけです』(59号 82年9月4日)。これは『王は記録に残り、長嶋は記憶に残る』と口にしたインタビュアーに対して言ったフレーズなのですが、その後に『ただ、騒がれることによってコマーシャルの仕事がくれば、それはプラスだと思います』といういかにも“らしい”言葉が続いています(笑)。

 他にもいわゆる『精神論』について、『腕が折れても投げるって、腕が折れたら生活できないでしょ。ウソですよね』(24号 81年3月20日)と極めてクールに語っています。

 野球では落合博満さんの言葉も赤裸々です。ランディ・バースとの“三冠王対談”で『自分を高く買ってくれるとこだったら、どこでもいい』(139号 86年1月7日)。自宅で信子夫人も交えて行われたインタビューでは、『努力とか大嫌いさ、あんなの』(154号 86年8月20日)。

 今年行われる予定だった東京五輪が延期されることになりましたが、日本オリンピック委員会(JOC)会長の山下泰裕さんのこんな言葉も紹介されています。'80年5月、当時のJOCはモスクワ五輪ボイコットを決定します。山下さんは金メダル確実と言われていました。『小学校1年で見た東京オリンピックの感激は、正直言ってもう今回で消えましたね』(8号 80年7月18日)。

 先に出た『江夏の21球』の江夏さんの言葉も印象深いです。『ピッチャーは一球で地獄を見る。バッターは一振りで天国へ上がれる。しかもピッチャーは一球では天国へ上がれない』(442号 98年4月9日)。ピッチャーの辛さ、特に抑え投手の厳しさを見事に表していると思います。

 Numberの記事にはこうした名言がいたるところに出てくるんです」

文=NumberWeb編集部

photograph by Sports Graphic Number