イチローさんが表紙を飾る、2020年3月26日発売「ナンバー1の条件」をもちまして、『Sports Graphic Number』は1980年の創刊から1000号を迎えました。
 これを記念し、編集長経験者3人による座談会を開催しました。印象に残る特集やアスリートについて、秘蔵エピソードを明かします。
 全3回の初回では、創刊の裏話やNumberがお世話になってきた執筆者の思い出などについて語りました。
<出席者>
松尾秀助 自らの発案によりNumberが創刊され、1980年代に第2代編集長を務めた。
井上進一郎 1990年代に第7代編集長としてサッカー日本代表W杯初出場などを報じた。
河野一郎 第10代編集長。学生時代から愛読し2000年代にWBC優勝号などを手掛けた。

井上「『Sports Graphic Number』(以下、Number)は松尾さんの発案で創刊されたことは文藝春秋社内ではよく知られていますが、具体的にはどのような経緯だったのでしょうか?」

松尾「1978年にフルブライト留学生でアメリカに行かせてもらったのですが、当時はカーター大統領の時代。ベトナムに戦争で負けて、心理的な転換点だった。そういった状況のアメリカで健康ブーム、スポーツブームが起きていたんですね。

 もともと日本にいるときから『Sports Illustrated』(米スポーツ誌『スポーツ イラストレイテッド』、以下、スポイラ)は読んでいたのですが、アメリカであらためて『こんな雑誌を日本でも出せたら面白そうだ』と思った。

 翌年、日本に帰ってきて、ちょうど新雑誌の募集が社内であったので、企画を出したところ、採用されたんです」

江夏、具志堅、青木の「Number1」ポーズ。

河野「自分がまだ学生のころにNumberは創刊されたのですが、その宣伝用のポスターがとても印象に残っています。江夏豊さん、具志堅用高さん、青木功さんが上半身裸で人差し指を立てて『Number1』のポーズをとっていた。

 当時はスポーツ選手のポートレート写真は珍しく、その目新しさとかっこよさに衝撃を受けました。

 自分が編集長だった創刊25周年のときは、そのポスターへのオマージュとしてイチローさんが同じく上半身裸で表紙の撮影に応じてくれました。今回の1000号でも、イチローさんはスーツ姿で同じ『Number1』のポーズをしてくれていますね」

タイトル自体が変わっていく史上初の雑誌に?

松尾「最初は『Number1』『Number2』とタイトル自体が変わっていく史上初の雑誌にしようと思っていたのですが、取次から『タイトル自体が変わると取り扱いができません』と言われて、今のスタイルになりました(笑)。

 あと苦労したと言えば、当時の文藝春秋にはビジュアル誌のノウハウがまったくなかったこと。ビジュアル誌だとレイアウトやデザインが必要だけどそうしたことをやったことがなかったし、アートディレクターもいない状態でしたから」

「江夏の21球」の取材手法。

井上「そうした手探りの状態で創刊したとはいえ、創刊準備号と創刊号に掲載された『江夏の21球』はかなり話題になりましたね」

松尾「読者からの反響はすごかったです。1979年の近鉄対広島の日本シリーズ第7戦9回裏で江夏が投げた21球を克明に振り返った記事ですが、21球の間にスクイズ失敗をはじめとして様々なドラマがありました。

 記事を作るにあたっては江夏さんにホテルの部屋に来てもらって、何度も何度もビデオを見てもらった。最初はビデオを見てもほとんどその時のことを覚えてないんですよね。『こんなことあったかなぁ』と言って。

 でも何度も見てもらって、筆者の山際淳司さんがしつこくいろんなことを聞いていった。『サードの衣笠がマウンドに来たときに、何を話したんですか?』とか。

 そうしたら『あのときは、晩飯は何を食いに行こうかとか話したんじゃないかな』とか少しずつ思い出してきた。『ブルペンでピッチャーが練習を始めた時に何を感じましたか?』と聞いたら『ムッとした』とかね。そういう話が少しずつ出てくる。さらにほじっていくと、あそこに書かれたようなことが出てきたんです」

病床の山際さんと語ったこと。

井上「取材手法の斬新さもあり、『江夏の21球』はスポーツノンフィクションの新たな地平を開きましたね。山際さんも一躍有名になりました」

松尾「その後、NHKのサタデースポーツやサンデースポーツなどのキャスターにもなりましたから。ただ、そんなときに胃がんになってしまった……。

 最初にお見舞いに行ったときには『ハワイでヨットの取材が入っていたんだけど、僕行けないから松尾さん行ってよ』なんて言って、とても元気そうだった。それでたしかに一度は仕事の現場に戻ってきた。やせたな、という感じはあったけど。

 でもしばらくして、また入院してしまった。ある時『山際さんが危ない』と連絡があって、病院に駆けつけると奥さんもいて、『耳は聞こえているはずだから、話をしてください』と言われて、僕が一方的に創刊のときの話なんかをしたりした。それから1日か2日ぐらいで亡くなりました……。

 まぁ、本当に惜しいことをしたと思います。彼は小説も書き始めていたから、そちらの方面で大きな仕事をしたかもしれない」

村上龍、村上春樹……バラエティに富んだ執筆陣。

井上「振り返れば、山際さんに限らず、村上龍さん、村上春樹さん、海老沢泰久さん、沢木耕太郎さんなど、本当にバラエティに富んだ筆者に書いてもらってきました」

松尾「沢木さんとはロサンゼルス五輪の取材のために、現地で一緒に一軒家を借りて合宿しましたね。

 記憶に残っているのは、陸上女子3000mの金メダル候補だったアメリカのメアリー・デッカーが、先頭を走っていたゾーラ・バッド(南アフリカ)に足をひっかけられて倒れて棄権してしまうんだよね。バットもそのショックと場内からの凄まじいブーイングでトップから落ちていって、結局7位だった。現場で見ていて最も印象深かったです」

神に愛でられし者と佐瀬稔さん。

井上「五輪では佐瀬稔さんも思い出に残りますね。

 アトランタ五輪のときに佐瀬さんに『カール・ルイス 神に愛でられし者の足跡』という記事を書いてもらった。

 カール・ルイスが現地で30分だけ時間をくれることになって、なんだかんだでずっと待たされて、やっと実現したインタビューなんだけれども、いかにも佐瀬さんらしく現場主義でちゃっちゃと取材をやっちゃって、最後はカール・ルイスと一緒に写真に納まるという(笑)。記事も非常に臨場感あふれるいいインタビューでした」

「清原が泣いてます。撮ってください」

河野「創刊当初から野球を書いてもらっていた永谷脩さんの記事でとても印象深かったのが、1987年西武vs.巨人の日本シリーズ第6戦で試合中に清原和博さんが涙を流したときのものです。

 あの試合で僕は一塁側のベンチの上あたりにいて、カメラマンたちにトランシーバーで指示を出す係をやっていました。カメラマンとは違う位置から見ていて、何か特別なことが起きたら、『撮ってください』と伝えるわけです。

 清原さんが泣いていたのは、テレビでは放送されていたそうですが、実は球場では一塁付近にいた人にしか分かっていなかった。

 僕はたまたま真横あたりにいて、双眼鏡で見て泣いているのが分かったので、『清原が泣いてます。清原が泣いてます。撮ってください』とトランシーバーで懸命に伝えたんですが、カメラマンからは何の反応もなく……。

 日本シリーズ優勝が決まる9回の最後の場面だったので、カメラマンはトランシーバーなんてほっぽり出して、優勝の瞬間にマウンドに集まってくるところを撮ろうとバックネット裏に行っていたんです。

 結局、そのシーンの写真はスポーツニッポンから借りましたが(笑)、永谷さんの記事を読んで、ドラフトではいろいろあったけど、あらためて清原さんの“ピュアさ”にジーンときたことをよく覚えています」

文=NumberWeb編集部

photograph by Sports Graphic Number