Number1000号発売を記念した編集長経験者による座談会。第3回は40年間で多々作られた“珍企画”の裏側、取材の仕方やアスリートとの付き合い方の変化などについて語りました。
<出席者>
松尾秀助 自らの発案によりNumberが創刊され、1980年代に第2代編集長を務めた。
井上進一郎 1990年代に第7代編集長としてサッカー日本代表W杯初出場などを報じた。
河野一郎 第10代編集長。学生時代から愛読し2000年代にWBC優勝号などを手掛けた。

井上「昔はずいぶん変わった特集も組んでいましたよね。『石原裕次郎と加山雄三』(250号 1990年8月20日)とかやっていた」

河野「別冊の特別号だとネコ特集(『ネコと友達物語』1986年7月15日)とか『さよなら国鉄』(1987年4月7日)とかもありました」

井上「私が編集長だった時代は、サッカーという“売れ線”があった。そうなると、それに縛られてしまう面がありました。初期のころは売れない号はたしかにあったと思いますが、その分いろんなことをやって、楽しそうな感じはありますよね(笑)」

建設中の江川の家をヘリから空撮。

松尾「売れたか売れなかったか忘れたけど、『結婚・離婚・再婚』(58号 1982年8月20日)という特集も組んだことがありますね。取材をしていて、結構面白かった。青木功さんや落合博満さんは早く結婚して、離婚して、再婚して、その後、うまく行った。結婚というのはスポーツ選手にとって、いつするか、誰とするか、ということはすごく大事、というコンセプトでやって、うまくはまったかもしれない。

『江川卓・28歳にして家を建てる』(78号 1983年6月20日)という号も作ったな。江川さんがちょうど家を建てているときで、まだ屋根がなかったから、そこに立ってもらってヘリコプターで行って空撮した。

 この号では他の選手の家も紹介したけど、印象的だったのは阪急の山田久志さん。彼が六甲の山の上に家を建てたんです。阪急に入ったときの家はかなり海岸に近かったのが、だんだん給料が上がって行くにつれ、家が高いところに上がっていくんですよ(笑)。最後は、六甲山の『そこから上は家を建てられません』というところまで上がって、そこに豪邸を建てた」

タヒチまで行って作った水着特集。

松尾「他にも『われらがスポーツ新聞は大人のおもちゃ箱だ』(20号 1981年1月20日)のようにスポーツ新聞特集なんかもやったことがあります。テレビ特集もスポーツ漫画特集もやった。'80年代はNumberが扱うジャンルを広げたいという思いがあって、『なんでもやってやろう』というのはあったと思います」

井上「水着特集もやっていましたね。当時、スポイラが美人モデルばかりつかって300万部刷って世界中で売っていた。Numberも日本版をやろうと言って、大特集や数ページの特集を作っていた。河野君も担当していたよね(笑)」

河野「水着特集は何度かやっていますが、たしかに一番最後にやったのが僕です(笑)。194号(1988年4月20日)ですね。なんとタヒチにまで行っているんです。

 当時、タヒチに行くにはまずニューカレドニアに行って、ニューカレドニアで十数時間のトランジットがあって、それからオーストラリアに行って、それからようやくタヒチに行くというルートだった。それを往復するという……。

 どうしてタヒチだったかというと、バブル期で余裕があり、スポンサーもついていたからです。梶原真弓さんというモデルさんを起用したのですが、彼女は後にシェイプUPガールズになっていました(笑)。

 でも結局、『スポイラの水着コレクションにはかなわない』となって、これで最後になった。今見ると、恥ずかしくなりますね(笑)」

フロリダまで謝罪に行った。

井上「連載コラムでも変わり種はいろいろありましたが、個人的に思い出に残っているのは豊崎由美さんにお願いした『それ行け、トヨザキ!!』ですね。1年以上やって、本にもなりました。

 私は'93年にNumberを出て、週刊文春に配属になって、外からNumberを見ていると、ものすごく『きれい』に見えて猥雑さが欲しいなと思っていた。

 それでNumberに戻ってきたときに、豊崎さんにマイナースポーツなど、いろんなスポーツを観戦してもらって書いてもらうことにしたんです。ジャニーズ大運動会なんかも行ってもらいましたね。ただ、ときどき筆がすべることがあって、フロリダまで謝罪に行ったこともありました(笑)」

'80年代の選手との関係性は羨ましい。

河野「今は事務所の存在が大きくなりましたよね。

 井上さんが編集長だったころから事務所がものすごく前に出てくるようになって、マネージャーチェックとか、取材に対する規制とか写真の撮り方に関するNGとかが出るようになった。

 初期のNumberを見ると、さきほどの家の話もそうですが、みんな明け透けに話をしています。『江夏の21球』にしても、何度もビデオを見てもらって話を聞いていますが、今は一流のアスリートにそれだけ時間を取ってもらうことは難しい。

 '80年代の選手との関係性は羨ましいという思いもあります。ごく普通に鈴木啓示さんの家の風呂場に入って写真撮ったりしていますから、無茶苦茶ですけどね(笑)」

誰をインタビュアーにもってくるか。

井上「たしかに取材の仕方などは、この40年間で大きく変わったところだと思います。

 ただ、事務所など関係ない時代も、アスリートによってはシャイだったり、頑固だったりして本音を引き出すのが難しいことは多かった。

 私はよくF1の中嶋悟さんのインタビューをやっていました。中嶋さんは取材に応じてはくれるけど、自分のスタイルもあるし、シャイな一面もあるからなかなか多くは語らない人だった。それがインタビュアーが今宮純さんだったら全然違うんですね。自分のことをよく分かってくれている、競技のことをよく分かってくれている、と信頼している人であれば、心を許していろいろとしゃべってくれる。

 これは割と一流アスリートに共通することでしたね。中田英寿さんは金子達仁さんには心を開いていたし、イチローさんは石田雄太さんのインタビューにはしっかりと答えてくれる。

 いつの時代も、誰をインタビュアーにもってくるか、というのは重要なことでした」

曙が突然心を開いた。

河野「信頼関係が大事なのは、写真撮影でも同じですよね。271号の相撲特集で曙さんの撮影をしたときのことは今も強く印象に残っています。撮影は広告の第一線で活躍されていたフォトグラファーの藤井保さんにお願いしていました。

 もともと、曙さんは『写真撮影は面倒くさいから嫌だ』と言っていた。取材当日も機嫌が悪くて、撮影場所に予定していた屋上まで上がるのは絶対に嫌だと言って上がらなかったんです。

 ここで、取材前に藤井さんと打ち合わせをしていたことが活きました。『普通に撮っても肉体美がすごいけど、何かを持たせて撮るとより面白いから、何か持たせよう』ということになっていました。

 藤井さんが用意してくれていたのが、ハワイの花だったんです。なかなか手に入らないものですが、何とか手配して持ってきてくれていた。その花を見た曙さんが『そんなの用意しているの! ハワイの花じゃないか』と突然心を開いてくれて、撮影OKになった。

 そういう撮影秘話みたいなものもNumberならではでしょう。

 1000号あれば、1000の表紙があるわけです。それぞれに1000のストーリーがあって、僕らも『この表紙は忘れられないよね』というのがあるし、それは読者にもあると思う。

 それもNumberのいいところでしょうね」

文=NumberWeb編集部

photograph by Sports Graphic Number