もしかしたら、この一戦が現在へとつづく“大河の一滴”だったのかもしれない。

 当時、横浜DeNAベイスターズの監督を務めていた中畑清は、昨日のことのように興奮の坩堝と化した横浜スタジアムの情景を思い出す。

「俺が一番喜んでたんじゃないか。真っ先にベンチから飛び出ていたからね(笑)。原(辰徳)監督のあの悔しそうな顔は今でも忘れられないよ。どうだ参ったかって、本当の意味でリベンジできたよね。あれで俺の監督業は終わったよ。いやまあ、冗談だけどさ」

 まるで歌うような快活なキヨシ節。多くのDeNAファンにとっても留飲を下げた試合だったに違いない。

主役は7季ぶり復帰の多村仁志。

 遡ること7年前、DeNA体制になって2年目の2013年5月10日。過ごしやすい気候のなかで行われた巨人戦、主役となったのは、この年、7シーズンぶりにソフトバンクから古巣へと復帰したベテランの多村仁志だった。

 試合は7回表が終わった時点で巨人が10対3で大量リード。このシーズン、DeNAは開幕から巨人に5連敗を喫しており、いつもと変わらぬ苦手意識を露わにしていた。ハマスタには「また勝てないのか……」という雰囲気が充満していた。

 ところが7回裏、DeNA打線が突如として目を覚ます。まずノーアウトでルーキーの白崎浩之がセンター前ヒットで出塁すると、ここで代打に多村が送られた。多村は開幕ベンチ入りをしていたが、調子がよかったにも関わらず4月22日に登録抹消され、この日に再昇格していた。ファームでは3本塁打を放ち好調を維持しており、大事な巨人戦を前に声がかかっていた。

 そして初球、多村は高木京介が投じた高めに浮いた変化球を捉え、レフトスタンド上段へ飛び込むホームランを放った。大きな放物線を描く“ホームラン・アーチスト”と呼ばれた多村らしい一発だった。

7連打で、あっという間に1点差。

 スコアは10対5。まだまだ巨人の背中は遠かったが、多村のホームランが呼び水となり打線は活気づいた。

 つづくナイジャー・モーガンが来日1号となるソロホームランを放てば、走者一、二塁の場面でトニ・ブランコの打球がショート・坂本勇人を強襲して追加点、そして中村紀洋のレフトオーバーのツーベースで2得点を挙げる。DeNAは何と7連打で、あっという間に10対9にまで迫った。

大いに盛り上がるハマスタ、ベンチには生還した選手を笑顔で迎える多村の姿があった。

2006年オフ、ソフトバンクへ移籍。

 多村は1994年のドラフト会議で地元の横浜高校から4位でベイスターズに入団。素質は認められていたが、全力プレーにこだわるあまり怪我などに苦しみ、20代半ばまではコンスタントに試合に出場することができなかった。艱難辛苦の末、10年目の2004年に初めて規定打席に達すると、球団としては日本人として史上初となる3割、40本塁打、100打点を達成し、ついにチームの顔となった。

 この年の日米野球でNPB選抜に選ばれると、ホームラン競争でメジャー屈指の強打者であるマニー・ラミレスに勝利したり、また2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表として全試合に出場し、チームの打点王、本塁打王となって優勝に貢献するなど、とにかくスケールの大きさを感じさせる選手だった。

 しかし2006年のオフ、突如ソフトバンクへの移籍が発表される。ファンにとっては青天の霹靂だった。惜しまれながらベイスターズを後にした多村は、新天地においても主力として活躍し、ソフトバンクのリーグ優勝と日本一に貢献し、本人にとってキャリアハイとなる時間を過ごしている。

「いつかベイスターズに戻って」

 じつは2011年に日本一になった際、多村は「ここでの自分の仕事は終わったな」と感じていたという。同時に「いつかベイスターズに戻って自分の経験を還元したい」との思いが込み上げていた。多村の脳裏には、かつて12年間過ごすも勝てず、泥沼にはまりもがき苦しむ、愛着あるベイスターズの姿がいつもあった。常勝軍団であるソフトバンクで学び、ときにはカルチャーショックを受けた貴重な体験をチームに伝えたい。そんな折、2011年のオフにDeNA体制になっていた古巣から声がかかった。

「話をもらったときは嬉しかったですよね」と、多村は笑顔を見せた。ただ、球団は資金力に乏しく大減俸を受け入れなければいけなかった。

「それでも構わないと思いましたね。とにかくチームを変えたいという気持ちが強かった」

 2013年シーズン、7年ぶりに多村はベイスターズに戻ってきた。

「僕が帰ってきたときチームに残っていたのは金城(龍彦)と新沼(慎二)ぐらいで、あと小池(正晃)も戻ってきていましたね。だから若い選手ばかりで全然違うチームになっていた。いろいろ自分から積極的に話しかけたりしましたし、遠征先でもトレーニングジムに連れていってあげたり、自分のできるかぎりのことはしましたよ」

 移籍の際、球団からはレギュラーとしての獲得ではなく、また監督の中畑からも代打がメインだということを伝えられていた。

「中畑さんとはサウナで一緒になることが多くて、よくチームの話をしましたね。アイツをスーパースターにしたいとか。まあ、僕が手伝えることがあったら協力しますよって」

 少しずつではあるが、多村の尽力もあってチームは戦う集団へと変わっていった。

9回裏、再び多村に打席が回る。

 そして、中畑が就任時から唱えていた“あきらめない野球”の代名詞となった試合において、多村が劇的な一打で決着をつける。

 1点差の9回裏、代打の高城俊人と後藤武敏がヒットで出塁し、1アウト一、二塁の場面で多村がバッターボックスに入った。カウント2-2から、西村健太朗が投じた151kmのストレートを逆らうことなく逆方向へ。ボールは大歓声のなかライトスタンドへ吸い込まれていった。ついに7点差を逆転した瞬間だった。

 多村にとって初のサヨナラホームランであり、同試合で代打本塁打とサヨナラ本塁打を記録したのは、プロ野球史上5度目のことだ。このシーズン、多村は96試合に出場してOPS.820と活躍し、チーム6年ぶりの最下位脱出に貢献した。

「あのシーズンが一番楽しかった」

 前出の中畑は、あらためてあのシーズンを振り返る。

「あのシーズンが一番楽しかったかもしれないな。多村が戻って来て、ブランコやモーガンが入ってきてさ。野球の質がいっぺんに変わったんだよ。点を取れる野球ができるようになった。だってあのシーズン、7点差のゲームをあの試合も含めて3回も逆転したんだよ。最後の最後まで“あきらめない野球”を実践できるようになった。こんなチームになれるんだって、しみじみ思ったもんだよ」

 まだ筒香嘉智も宮崎敏郎も台頭していなかった時代の話であり、現在監督のアレックス・ラミレスはDeNAの現役選手、またホセ・ロペスは巨人の選手だった。

 その後、DeNAは投手陣を整備し、初のクライマックスシリーズに進出し、日本シリーズを戦い、昨シーズンは22年ぶりにリーグ2位になった。いよいよ目指す高みまであと一歩。あの夜の多村のように先人たちが残し、積み上げていった想いが花開く日は、そう遠くないのかもしれない。

文=石塚隆

photograph by Kyodo News