喜びと戸惑い。新型コロナウイルス感染拡大防止のための活動自粛期間を経て、1カ月ぶりにボール練習を再開した久光製薬スプリングスの石井優希に電話で話を聞くと、そんな複雑な感情が伝わってきた。

 4月8日から1カ月間は、活動が自宅での自体重トレーニングやランニングに限られた。石井は、「これだけ長くボールを触らなかったことは初めて。動けないし、家からも出られないので、ストレスは溜まりました」と言う。

 それでも、ちょうど石井の29歳の誕生日だった5月8日に、久光製薬はボール練習を再開。寮生とそれ以外の選手に分けて1日おきに、まずは対人パスやサーブレシーブなどから行なっている。

「完全に感覚が狂っています」

 待ちに待ったボール練習だったが、ブランクを痛感させられて愕然とした。

「みんな1カ月間ボールを触っていないからもう、素人レベル、まではいかないけど、完全に感覚が狂っています。特にアンダーハンドパスが一番ひどい。組んでいる手の感覚からしておかしいから、両手にうまく当たらないし、ボールの軌道も全然つかめなくて。足も一歩がなかなか出ない。筋肉量が落ちているから、思うように動けないんです。自重でのトレーニングはやっていましたけど、重りがない分、できることは限られますし、バレーボールのプレーで使う筋肉はまた違う部分もあるので……」

 積み上げてきたものが崩れてしまった焦りはある。ただ、練習を重ねるにつれ、「自然と動けるようになってきている」と手応えも感じている。今後はジャンプ動作も取り入れていく予定だ。

「体がなまっているし、怪我が怖いので、徐々にやっていきたい。(国際)大会がないので、焦らずに上げていきたいですね」

インターハイ棄権で味わった悔しさ。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、スポーツ界は先が見えない状況が続いている。バレーボールの国際大会も、延期とされていたネーションズリーグの中止が決まり、今年の大会はなくなった。

 国内大会も次々に中止となり、全国中学校体育大会や全国高校総体(インターハイ)も中止が決定した。

 実は石井も、就実高校3年の時に悔しい思いをしている。

 2009年、就実高はインターハイの出場権を勝ち取ったが、選手の多くが当時流行していた新型インフルエンザに感染したため、直前で棄権を余儀なくされた。

「その年は1年生に佐藤優花(上尾メディックス)が入ってきたりして、チーム的にすごく良かったし、中国大会でも優勝していたので、インターハイに懸けていました。だから棄権したのは本当に悔しかった。今の子たちの気持ちが少しは、わからなくはない、ですね」

 当時、春高バレーは3月に行われており、3年生は出場できなかったため、インターハイが3年生にとって最大の目標だった。それでもその年の就実高は11月の皇后杯のセミファイナルラウンドを引退試合とすることができた。現在は春高バレーが1月に開催されているため、今年の3年生もまだ試合ができる可能性はあるが、それまでに引退してしまう選手もいる。

「試合をせずに引退してしまうというのは、なんとも言えない思いがあると思うので、なんとか試合ができる機会があると嬉しいだろうな、と思うんですけどね……」と喪失感を抱えている高校生や中学生を思いやる。

五輪延期……「あと1年もか」

 石井自身もこの春、ショックで一時は思考停止に陥った。東京五輪の1年延期が決まったからだ。

「やっぱり、『今年の7月』と思ってやってきていたので、本当に残念というか、『あと1年もあるのか』という思いのほうが断然強くて……。テレビなどで他のアスリートの人たちが、『1年延びたことによってたくさん練習できる』とか、『もっと詰められる』と話していて、本当に前向きで。そう言わざるを得ないという部分もあったとは思うんですけど。でも私は、正直そこまで考えられなくて、もう本当に、『あと1年もか』という感じでした」

 石井は、「29歳で迎えるオリンピック」に懸けていた。

「特に何歳までやりたいとか、東京五輪が終わったら辞めるとかまでは考えていないんですけど、私自身、年齢的に、29歳でオリンピックを迎えられるって、一番自分がいい時かなと思っていたんです。経験もある程度積んだ上でできるので。でもこの先の1年はすごく変化も大きくなると思うし、ベストパフォーマンスを考えると……。ポジション的にもボールが集まってくるところなので、体力は必要ですし」

 体と心と経験値。そのバランスをこの夏、もっとも充実させて五輪に臨めるのではと自分に期待していた分、ショックは大きかった。

ゆっくり歩みを進めてきた石井。

 石井は昨年のワールドカップでアウトサイドの柱として起用され、チーム最多得点を奪った。得意のディグでも存在感を発揮した。

 他にエース候補として名前が挙がる古賀紗理那(NECレッドロケッツ)や黒後愛、石川真佑(ともに東レアローズ)といった若手スパイカーたちは、高校卒業後すぐに代表で鮮烈な活躍を見せ期待を集めたが、彼女たちとは対照的に、石井のここまでの歩みは一歩一歩、ゆっくりとしたものだった。

 石井は久光製薬入団3年目の2012-13シーズンにレギュラーに抜擢され、リーグ優勝に貢献。2013年からは代表に定着した。ただプレーに波があり、代表ではなかなかレギュラーをつかめずにいた。その一因は「自信のなさ」だった。

「遠慮しがちで、自分に自信がなかった。それがもろに出ていたタイプでした」と石井は言う。

 2016年のリオデジャネイロ五輪世界最終予選では、途中出場で流れを変える試合が続き、大会途中から先発起用された。その活躍が認められ、リオ五輪のメンバー入りを果たす。

 しかし頭の中をよぎったのは、「紗理那を選べばよかったって思われてるんじゃないか」という不安だった。

 その前年の2015年のワールドカップで、19歳だった古賀は、世界の強豪から次々に得点を奪い、一躍エース候補に名乗りを挙げたが、リオ五輪のメンバーからは落選していた。

自信も自覚も足りなかったリオ五輪。

「私は、(古賀)紗理那は絶対に(メンバーに)入ると思っていて、自分はギリギリのラインだと思っていました。最終予選では、途中出場からチームを支えられたらいいな、という考えでいたんですが、(リオ五輪で)紗理那がいなくて自分が、となった時のプレッシャーはものすごく大きかったです。自信を持って臨めなかったし、自覚も足りなかった。気持ちが弱かったですね」

 選手選考の中で、古賀を残すか石井を入れるかでスタッフの意見が割れたという話も聞かされた。

 リオ五輪で、石井は木村沙織の対角で先発したが、サーブレシーブを崩されて交代する試合が続いた。チームも苦戦し、「このままじゃ日本に帰れない」とどん底にまで落ち込んだ。

 それでも、大会終盤は見違えるようなプレーを見せた。「なんかもう最後は、『自分のために頑張ろう』と開き直れて、無心で戦えました」と振り返る。

 石井の優しく、人に気を遣う性格は、アスリートとしては時に邪魔になることがあった。それでも、壁にぶつかるたびに、「自分のためにやろう」と開き直ることで打開してきた。

 代表で人間関係に苦しんだ時には、「周りがどう思おうと、自分がこれでいい、と思えるようにしよう。東京五輪のために、自分が何をしたいのかを考えよう。自己中だけではダメだけど、自分がしっかりしていないと、周りにも意思が伝わらない」と考えて乗り越えた。

29歳、「人と戦えるようになった」

 久光製薬で主将を任された2019-20シーズンのVリーグは、負けが込んでチームは7位に沈み、責任を背負いこんだが、その中でも考え方を変えた。最終戦に勝利したあと、こう語っていた。

「周りに嫌われても、どう思われてもいいから、言うべきことは言っていかないといけないと、終盤になって思えた。そこは自分自身、変われたところだなと思います」

 様々な経験を乗り越えることで少しずつ強くなり、「嫌なことは嫌とはっきり言えるようになりましたし、人と戦えるようになったなと思います」と笑える29歳の今がある。

 勢いのある若手選手の台頭に、危機感はもちろんある。

「(石川)真佑とか、身長は高くないですけど、やっぱり二段トスを打ち切れるってすごい強みだと思うし、本当に若い子はみんな堂々としている。コートに立ったら先輩後輩関係ないってよく言いますけど、(黒後)愛とか真佑を見ていると、本当にそうだなって。みんな、私にないものを持っているなと思います。私は先輩に遠慮してしまうほうだったので。

 学生の時に上下関係が厳しかったので、先輩としゃべることがあまりなかったし、久光製薬に入ってもそこで苦労しました。若い時はすごく遠慮していたし、頼っていた。ついていくのが精一杯でした。だから私は、経験を積んだ今のほうが、なんていうか、花咲いてるなーと思います(笑)。それも個性だから」

「むしろ忘れてくださいって」

 今はもう、30歳で迎える来年の東京五輪を見据えている。

「オリンピックに出ると人生が変わる」と言われてきたが、4年前のリオ五輪ではそれを実感できるところにたどり着けなかったと言う。

「自分の内容が本当に悪かったので……。私は『オリンピアンです』なんて自信を持って言えないです。むしろ忘れてくださいって思います」

 そう悔いを噛みしめる。

 まだ新型コロナウイルスの終息が見通せない難しい状況ではあるが、東京五輪で、「オリンピアン」だと胸を張れるように。遅咲きのエースは、新たな照準に向かって歩んでいく。

文=米虫紀子

photograph by Itaru Chiba