「夏の甲子園、中止――」

5月20日、清原和博はこのニュースを自宅のテレビで見た。そして泣いたという。

「なんというか……、言葉にならなかったです。その後、高校球児たちが泣いているところが映されて、それを見てたら、涙が出てきました。自分が甲子園に出たとか、ホームラン記録をつくったとか、そういうものさえ無くしてしまいたい。彼らに申し訳なさすぎて……。そんな気持ちになりました」

清原が涙したのは、その喪失の大きさが想像できるからだという。

「世の中の人たちは、高校3年間の集大成が失われたと思うかもしれませんが、ぼくはどうしても自分が甲子園に辿り着いた道のりを思い浮かべてしまうんです。9歳からリトルリーグで野球を始めて、夏休みにブラウン管の中に映る甲子園に憧れて、あそこに行きたいという夢を抱きました。野球少年にとっては人生最初の夢なんです。そのために監督、コーチに殴られて、お母さんには朝早くから弁当を作ってもらって、暑い日も寒い日も雨の日も甲子園を夢見てやってきたんです。その間に、どれだけの汗を流して、どれだけの涙を流してきたか。最後の夏というのは決して高校3年間だけのものではなくて、球児やお母さん、家族にとっても少年時代の集大成なんです」

「どこにもぶつけられない涙だと思う」

1980年代から時代は流れた。ただ、甲子園と野球少年の関係はほとんど変わっていないと、清原は考えている。

「今の時代はぼくらの頃とは違って娯楽がたくさんあります。高校生は野球をやらなくたって、部活に入らなくたって、他に楽しいことがたくさんあります。でも、その中でも甲子園に行きたいからと親元や地元を離れて見知らぬ土地に越境入学して、おしゃれもできない坊主頭にして、泥にまみれて、そうまでして甲子園の土を踏みたいと思っている子供たちがいまだにたくさんいるんです。

 その中でも野球で大学に入ったり、プロに入ったりする子は一握りで、高校3年で野球をやめていくという子が圧倒的に多いと思うんです。

 そうした時に最後の夏というのは負けて泣いて、人生のひと区切りをつける場だと思うんです。でも今年はその場すら無くなった。彼らの涙というのは、うれし涙でも悔し涙でもなく、どこにもぶつけられない涙だと思うんです。それを思うと……」

「次の人生のステップとか」口が裂けても言えない。

日本高校野球連盟から甲子園中止が発表された日、そのニュースについて、多くの人たちがコメントした。

『これを糧に、前を向いて新たな目標を見つけてもらいたい』

『大人たちが甲子園に代わる大会を考えてあげるべきだ』

そういう声が、ウィルスによって甲子園を奪われた高校球児たちに贈られた。

 ただ清原は、彼らに贈る言葉なんてとても見つからないと言う。

「ぼくには口が裂けても言えません。次の人生のステップにしてほしいとか、大人が代わりの舞台を用意するとか、口が裂けてもそんなことは言えないです。甲子園に代わるものなんて、ないですから……」

「もし……、もし、ぼくが今年の高校球児だったら」と前置きした上で、清原は続けた。

「コロナ・ウィルスというのは誰の責任でもありません。野球よりも命が大事ですし、他人に感染させてしまうことは決して許されないことです。それはわかっています。わかっているんですけど、もし自分だったら、コロナにかかってもいいから、試合が終わってそのまま隔離されてもいいからやらせて欲しい。そう思うでしょう。17歳、18歳だったら、そう思うんじゃないでしょうか」

「ぼくは『え?』と思いました」

どうやら、清原は甲子園を諦めきれていないようだった。あれから2週間、世の中の関心が甲子園中止をあっという間に通り過ぎて「さて、次の話題は……」と移ろっていく中で、ずっとわだかまり、考え続けている。

「今、世の中がものすごいスピードで進んでいく中、もう甲子園のことはニュースにもならないじゃないですか。でも、6月にプロ野球が開幕すると決まって、高校球児はどんな気持ちなんでしょう。

 ぼくは『え?』と思いました。

 まだ8月まで時間があるのに、本当に最後の最後まで検討してくれたんだろうか? そう思えてしまうんです……」

「『あの時、甲子園やれたんじゃないか?』と」

「中止の理由に『移動のリスク』というものがありましたけど、例えば試合の前の日まで大阪には入らないことにする。その場合、遠方の高校にはハンデになるかもしれませんけど、甲子園に出られるならそれくらいのハンデなんていいじゃないですか。それについて不満を言う球児がいるでしょうか。

 県内だけなら大きな移動はないわけですから、地方大会は3年生の父兄だけ観戦していいとか、そういうことも考えられるわけじゃないですか。

 ぼくが高校球児だったら『大人の都合で中止なんて……』と考えてしまいます。おそらく時間が経てば経つほど彼らの心には『あの時、甲子園やれたんじゃないか?』という思いが浮かんでくるのではないでしょうか。一生かかっても心の整理はつかないんじゃないでしょうか」

「彼らと一緒に泣くことしか……」

PL学園1年生の夏から3年の夏まで5度全てで甲子園の土を踏んだ。歴代最多13本のホームランを打った。そんな清原の口から、球児たちへの言葉は次から次に溢れた。

「甲子園というのは世界一の大会だと思うんです。メジャーで大舞台を経験してきた佐々木(主浩)でさえ『夏の甲子園っていうのは何ものにも代え難い』と言っていました。ぼくもそう思います。だから、小さい頃からいろいろなことを犠牲にして甲子園のために辛いことにも苦しいことにも耐えてきた彼らのことを思うと……、とても慰めなんて言えないんです」

 そしてここまで言うと、清原はふと我に返ったように力なく呟いた。

「でも、じゃあ今のぼくに何ができるかと言ったら何もできないんです……。彼らと一緒に泣くことしかできないんです」

人生のどん底にいた清原を支えた1本のバット。

今、清原は執行猶予明けを目前にしている。2016年、覚せい剤で逮捕されて受けた「懲役2年6カ月、執行猶予4年」の判決は、まもなく6月15日をもって効力を失う。

そんな清原の部屋には一本の金属バットがある。1985年夏の甲子園でホームランを打ったバットだ。それはこの4年間、人生のどん底にいた清原を支えてきたものの1つだ。

甲子園と切っても切り離せない人生を送ってきた。今年の球児たちへの想いは、そんな清原だからこそかもしれない。あの舞台を経験していない者には理解しがたいものかもしれない。

だけど、そういえば人間には、ただ泣きたい時がある。同情も慰めもいらず、ただただ誰かに一緒に泣いて欲しい時がある。

2020年の高校球児にとって、清原はそういう存在なのかもしれない。

文=鈴木忠平

photograph by Takuya Sugiyama