'08年にメダルを獲得し、今や日本が世界に伍する種目となった男子4×100mリレー。北京で花開くその4年前、メダルを逸した第1走者が走り続けたレーンの先には――。

Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!

 あのスタートの感触は今も曖昧なままで、長らく後悔のもとになっていた。

 男子4×100mリレー決勝。アテネのスタジアムは完全な静寂に包まれていた。日本の第一走者・土江寛裕は神経を耳に集中させると、爆発音と同時に走りだした。

「イギリスのフライングで仕切り直しになった2回目のスタートでした。ただどうしても記憶がおぼろげなんです……」

 そこからわずか40秒足らずでレースは終わった。日本はアンカー朝原宣治が数選手をかわす好走をみせて4位になった。

 金メダルのイギリスがフラッグを掲げ、銀に終わったアメリカがうなだれているのが見えた。コンマ数秒が分けた勝者と敗者の群れの中、土江は心を天秤にかけていた。

 4位は日本の同競技史上最高順位だった。ただ一方で3位ナイジェリアに0.26秒差、約2mの差でメダルを逃したのだ。

「讃えてくれる声も多かったんですけど、やはり残念という気持ちが強かったですかね。なんとか代表メンバーに入れた僕としてはリレーにかけていた。最後のオリンピックでメダリストになって、競技人生を終わりたいと思っていましたから」

 土江はこのとき、まだ自分の身に何が起こったのか気がついていなかった。

スタートミスに気づき……。

 心の天秤を少し落胆へと傾けたままTVカメラの前でインタビューに答え、新聞雑誌メディアが待つ囲みへと向かった。すると人波の中から顔なじみの専門誌記者に聞かれた。彼女はすこし血相を変えていた。

『あれ。1回目のスタート。どうしたの?』

 え? 何がですか? 土江は一瞬、彼女の言っている意味がわからなかった。

 慌てて場内モニターを見てみた。そこではじめて何が起こったのかを知った。

「取り返しのつかないミスをしてしまっていたんです……。血の気が引きました」

 事件はスタートで起きていた。

 各ランナーの後ろには小さなスピーカーがあり、そこからスタート用ピストルの引き金を引く「カチャン」という音が聞こえる。ランナーはそれを合図に走り出す。それからわずかに遅れて「ドーン」という爆発音が場内用スピーカーから流れる。

 つまりランナーが聞くスタート音と場内に流れるものとで時間差があった。土江は1回目、「カチャン」に反応して走り出したが、直後に「ドーン」と聞こえたため自分がフライングしたと勘違いしてレースを止めた。実際にフライングをしたのはイギリスで別のブザー音が鳴っていたのだが、土江は「カチャン」では早いのだと思い込み動揺していた。そして仕切り直しの2回目では、本来反応すべき音よりも一拍遅い「ドーン」を待ってしまった。

0.2秒、2mは銅メダルと4位の差。

 明らかに遅れたスタート。隣のレーンの選手も遅れたため土江は気づかなかったが、プレス席からランナーたちを俯瞰して見ることのできた記者は異変に気づいた。

「日本でやる大会のスタートシステムとは少し違っていて、事前に他の日本選手から『音の聞こえ方が変だぞ』ということは聞いていたんですが……、あまりの緊張で頭から吹っ飛んでしまっていました」

 自分のスターティングタイムを見てみると0.3秒以上かかっていた。第一走のスペシャリストである土江はいつもなら0.12〜0.13秒台で出られるはずだった。

「その0.2秒、距離にして2mというのは、そのまま銅メダルのナイジェリアとの差なんです。つまり僕の責任でメダルを取れなかったんです……」

 冷酷な現実に心の天秤は完全に傾いた。「なにしてんねん」。チーム最年長の朝原はそう言っただけで、あとはいつものようにカラッと笑ってくれた。末續慎吾、高平慎士も何事もなかったように接してくれた。

「それが逆に辛くもあって……。オリンピックのファイナルって、みんなにとっても人生で一番大事なレースで、次は4年後なので。そんなところで僕がミスをしてしまって、本当に申し訳なかったです」

 小さな頃から憧れていたオリンピックはアテネの苦い夜とともに終わった。

200m日本王者だった父からの教え。

 山陰・島根の出雲で生まれた。200mの日本王者だった父からは、どんなに小さな“かけっこ”でも1番になれと言われた。

 高校のとき、インターハイで3位になって喜んだらこっぴどく叱られた。

『1位以外は全員が敗者なんだ』

 父は土江が走るとなれば、当時発売されたばかりの大型ビデオカメラを肩に担いであらゆるレースに駆けつけた。

「家に帰ると親父が『ビデオを出せ』と言って、そこから僕の走る映像を見ながら、ずっとダメ出しです」

 だから早稲田大に進んで親元を離れ、世界を舞台に戦うようになっても土江には勝者と敗者の境界線がはっきりと見えた。

「オリンピックの勝者というのはメダリストであると、そう考えていました。だから自分としてはアテネの4位というのは最もとってはいけない順位だったんです」

 少年時代から刷り込まれた人生観はアテネのレースが終わったあとも土江を苛み、あのスタートを何度も胸によみがえらせた。

スタッフとして数値で策を伝える。

 ただ、振り返ってみると、同時にそれは土江にとって「失った0.2秒」を取り戻すための原動力にもなっていた。

 2006年に引退した。その後は代表スタッフとなり、北京オリンピックへ向けた強化合宿に参加することになった。

 そこにいたのはアテネの戦友である朝原、末續、高平、そして自分に代わってメンバー入りした塚原直貴だった。

 もう彼らとバトンを介してつながることはできない。ただ土江にはずっと胸に秘めていた策があった。

『20mのバトンゾーンに前後10mを加えた40mを、3秒75で走ることができれば、金メダルの確率は50%である――』

 土江が彼らに伝えたのは明確な数字をちりばめた魔法のようなフレーズだった。

「これまで“何となく”だった部分にこだわってもらうための言葉です。陸上選手というのは数値に慣れています。このハードルを超えればこんな結果が出るというのをわかってもらうことが重要だったんです」

「アンダーハンド、嫌いでした」

 リレーの鍵はいかにバトンパスでスピードを落とさないか。そのためには従来のように20mのバトンゾーンのみにこだわるだけでなく、前後10mをプラスした40mのタイムを追求すべきだと土江は考えた。

「100mを10秒1か2で走るスプリンターは40mを3秒63くらいで走ります。目標とした3秒75というのはそれよりも遅めなんです。そこにメンバーの100mの持ちタイムを加えると、そこから推定できるゴールタイムはアテネで金メダルのイギリス(38秒07)よりも上なんです」

 世に知られているのはバトンパスの方法をオーバーハンドからアンダーハンドへ変更したという事象だが、じつは日本は土江がまだ現役だった2001年からすでにアンダーハンドを採用していた。当時の代表コーチ・高野進がよりスムーズに見えるアンダーハンドパスに賭けて取り入れたのだ。

「でも僕はアンダーハンドが嫌いでした。下から手を出すと上体がのけ反ってバトン部分が見づらい。それで結果的に何度も失敗しました。コーチにも『どこがいいんですか?』と食ってかかっていました」

瞬きより速く過ぎ去る0コンマの奥へ。

 自分には合わない。ただ、土江はそこで感覚や感性という曖昧なものに判断を委ねてしまわないところがあった。

「僕は偏屈な性格なのでいくらアンダーハンドの方がスムーズだと言われても納得いく根拠を示されないと受け入れられないんです。そこで映像を見て根拠を探す中でアンダーのスムーズさを数値化すれば、さらにタイム短縮の可能性を追求していけるのではと思ったんです」

 当時、主流だったオーバーハンドはランナー同士が近づかなくてすむという長所があるが、その反面、パスを「点」で合わせなければならないという難しさがある。逆にアンダーハンドは近づかなければならないが、パスは「線」で合わせればよかった。

 世界と比べて個々の力で劣る日本が、好タイムを出せる確率が高いのはどちらか。

 土江はそこに確固たる根拠を探した。

 人が走るというシンプルな動作を映像でコマ割りし、何度も凝視した。瞬きより速く過ぎさる0コンマのさらに奥へと分け入っていった。その作業は土江にとって少年時代から体に染みついたものだった。出し入れのたびにガチャンと音がするビデオデッキの前に父と座った日々。

 その末に弾き出されたのが「アンダーハンド×40m×3秒75=メダル」だった。

一匹狼のスプリンターが一本の線に。

 かつて一匹狼のスプリンターを集めただけだった日本リレーはアンダーハンドによってつながり、土江の方程式で一本の線になっていった。メンバーは精密なデータを測定しながらのバトン練習を繰り返して北京へと向かった。

「僕は高野さんたち先輩方が推し進めたことにタイム計測を取り入れただけです。ただ、知らない科学者がやってきて突然何かの数字を言ったのなら誰も受け入れてくれなかったでしょう。僕が自分のミスでメダルを取れなかったことをみんな知っていて、その僕が言ったので受け入れてくれたのかもしれません」

 あれから4年。北京での決勝レース。現地スタッフに入れなかった土江は日本で祈るようにテレビの前に座った。

「厳しい戦いを覚悟してましたが、予選でイギリスやアメリカがバトンミスで脱落したので、追い風は吹いているなと……」

 静寂。そしてスタートの号砲。

 あの日と同じ7レーンから、自分に代わって日本の第一走者となった塚原が飛び出した。遅れはない。二走の末續が疾走し、三走の高平が粘る。そして人生最後のオリンピックにかける36歳のアンカー朝原へとバトンは静かに滑るようにつながった。

 ブラジルの猛追をかわしてフィニッシュ。3位。メダル。タイムは38秒15――。

 アテネの夜から0.34秒も縮めた。

 仲間たちが日の丸を掲げて笑っていた。土江はしばし画面の光景に浸った。もう心を天秤にかける必要はなかった。土江は失った0.2秒を取り戻したのだ。

朝原から届いたメッセージ。

 しばらくしてメッセージが届いた。

 朝原からだった。

『ツッチーのおかげだ。ありがとう――』

 今、土江は五輪強化コーチとしてさらに深く0コンマの世界へと潜っている。

 日本スプリント界のホープ、桐生祥秀とともに狙う100mのメダルである。

 6年前、東洋大陸上部のコーチとして出会って以来、葛藤しながらここまできた。

「桐生は自分の中にこうすればこう走れるという内部感覚がある。僕が根拠はないと思っていてもポーンと9秒台を出してしまう力がある。正直、自分がやってきたことは彼の役に立たなかった。だから桐生が何を考えているかを探ることからやっています。オリンピック100mファイナルという地球上最高のレースがあり、そこに立てる能力を持ち、東京でオリンピックが予定されている。すごい運命ですよ」

 自らと対照的な感性のスプリンターにどんな根拠を見出すのか。確たるものを携えてスタートラインに立ち、その瞬間を迎えることができるか。それが勝負だ。

 土江はそのことをおそらく誰よりもよく知っている。

土江寛裕(リレー 男子4×100m)

1974年6月14日、島根県生まれ。出雲高、早稲田大を経て、富士通入社。'99年日本選手権100mを優勝。'06年に現役を引退し、早稲田大、城西大でコーチを歴任。'17年から東洋大法学部教授に。現在、男子短距離オリンピック強化コーチ。

 ◇  ◇  ◇

<この大会で日本は…>
【期間】2004年8月13日〜8月29日
【開催地】アテネ (ギリシャ)
【参加国数】201
【参加人数】10,625人(男子6,296人、女子4,329人)
【競技種目数】28競技301種目(女子レスリングが追加)

【日本のメダル数】
金16個 谷亮子(柔道48kg級)、体操男子団体総合 など
銀9個 山本貴司(バタフライ200m)、山本博(アーチェリー) など
銅12個 ソフトボール、浜口京子(レスリングフリー72kg級) など

【大会概要】
第1回以来108年ぶりの開催。マイケル・フェルプス(アメリカ)が6個の金メダルを獲得。日本勢は野村忠宏(柔道60kg級)、吉田沙保里(レスリング女子フリー55kg級)らが金メダル、東京五輪に並ぶ過去最多の16個の金を獲得した。100m、200m平泳ぎで2冠を達成した北島康介の「チョー気持ちいい」が流行語に。

【この年の出来事】
「冬のソナタ」ブーム。プロ野球選手会が史上初のスト。自衛隊イラク派遣。

文=鈴木忠平

photograph by AFLO