コロナ禍でボクシングも長きにわたり試合がありませんでした。“名勝負”に飢えているファンも多いことでしょう。そこで、Number Webでは過去の印象深い「日本人対決」をシリーズで特集します。対戦した2人にあらためて話を聞き、試合を再現。初回は“神の左”と現役世界王者の日本タイトルマッチを3回に分けて公開します。
(第2回「死闘の中盤。山中慎介は鼓膜が破れ、岩佐亮佑は『何か星が飛んで……』」、第3回「山中慎介、劇的な勝利。岩佐亮佑は『“倒れさせてくださいよ”って』」は記事最終ページ下にある「関連記事」からご覧ください)

 拳を交えたなかで忘れられない闘いというものが、ボクサーなら誰にもある。

 WBC世界バンタム級王座を12度防衛して引退した山中慎介は引退会見において世界戦ではなく、岩佐亮佑(現IBF世界スーパーバンタム級暫定王者)との日本タイトルマッチをその1つに挙げた。

 9年前、世界挑戦権を懸けて両雄は無敗同士でぶつかった。遅咲きのハードパンチャーと、高校3冠のホープの一戦はわずか2時間でチケットが完売するという注目度の高さであった。

 勝った者が強い。それがプロボクシングの世界だ。

 しかし勝者となった山中が後に世界の名王者となっただけでなく、ここでは敗者となった岩佐も紆余曲折を経て世界王者に2度たどり着き、今、充実期を迎えている。

 2人にとってあの一戦は、どんな意味があったのか。

 日本人対決、その名勝負の裏側――。

何だよ。チャンピオンはどっちなんだよ。

 始まってもいないのに、会場の興奮は後楽園ホールにまるで収まっていない。

 2011年3月5日、日本バンタム級タイトルマッチ。ファンは待ち切れないとばかりに足を踏み鳴らし、声を張り上げて後楽園ホールを揺らしていた。

 王者・山中慎介は入場曲を声援でかき消されながら赤コーナーサイドから出てくると、先にリングインしていた岩佐亮佑に目をやった。

 チャンピオンは裸でタオル、チャレンジャーは洒落たガウン。トランクスもチャンピオンカラーの「赤」に寄せてきている。

<何だよ。チャンピオンはどっちなんだよ>

 内心のつぶやきは闘志に変換される。リングに上がった瞬間に、気持ちを沸点まで引っ張り上げる。コールの後でレフェリーの前で向かい合い、グローブを合わせる。チャレンジャーの両拳を、ぐぐっと押し込んでコーナーに戻った。

ともに無敗、予想は真っ二つに分かれた。

 28歳の山中は13勝9KO2分け。遅咲きながら左ストレートを武器に7連続KO中と勢いに乗る。

 一方、21歳の岩佐は高校3冠の鳴り物入りで8勝6KO。半年前に「最強後楽園」トーナメントを制して、トップコンテンダーとなった。

 気持ちを沸点まで高めていたのは岩佐とて同じ。

<今の勢いのまま飲みこんでやる>

 異様なほどの会場の盛り上がりは闘志に変換された。重圧の欠片もなかった。

 ともに無敗、そして勝った者が世界挑戦の切符をつかめるという分かりやすい構図。サウスポー同士の日本バンタム級頂上決戦の予想は真っ二つに分かれていた。

 静かなスタートながらも瞬時にして一触即発となるような緊張感が、後楽園の沸点を抑え込んでいた。

戸惑いを覚えていたのは岩佐のほう。

 ジャブの差し合い。言葉にするなら刺し合いが相応しい。

 1分を経過したところで山中が速いジャブをダブルで突く。拳をしっかり握って打つ“固いジャブ”を意識していた。

「僕のジャブは拳の力を伝えるようにガツッと打つ。対サウスポーは嫌いじゃない。ジャブは右肩を入れることができるから伸びるんです。

 自分の動き自体は最初、硬いなとは思いましたけど、ジャブの感触は良かった。ジムでスパーリングをしても世界チャンピオンの粟生(隆寛)から『タイミングが分からない。やりづらい』と言われていて、サウスポーに有効なんやなって自信はあったんです」

 高速ジャブの刺し合いは、分かりやすい優劣を映し出さない。だが戸惑いを覚えていたのは岩佐のほう。右目付近が赤くなっていた。山中の左ではなく、内側から飛び出してくる右ジャブを受けてできたものだった。

重くて固いジャブに“やべえ”。

 岩佐はこう振り返る。

「いつももらわないはずのジャブをもらっている。その事実だけで“やべえ”と思いました。それにジャブが重いし、固いなって。昔、山中さんが日本ランカーのときに一度スパーをやったことがありましたけど、左が強いイメージはあってもこの重くて固いジャブの印象はさほどなかった」

 山中は“感触がいい”、岩佐は“やべえ”。

 だが1ラウンドのハーフタイムを過ぎてから岩佐が攻勢に出る。ワンツーをヒットさせ、残り30秒あたりで山中の打ち終わりに右フックを合わせて頬を捉えた。

 さらにはコーナーに押し込みながらのワンツー。本来は遠いレンジを得意とするが、前に出て打ち合いを挑むアグレッシブさによってポイントを引き寄せる。

「このジムにチャンピオンベルトを」

“やべえ”は焦りを呼ぶと同時に向かっていく気持ちを生み出していた。山中のパンチに瞬時に合わせていくそのセンスは一級品であることを実証。とはいえラウンドの最後は山中が連打で逆に押し戻している。

 期待を裏切らない。いや期待を上回りそうな激闘の予感。

 岩佐が歓声を受けて青コーナーに戻ると、セレスジムの会長でメーントレーナーを務める小林昭司が諭すように言った。

「いいよ、いい感じだ。でもジャブをもらっている。距離が近い。もう少し離れて戦おうぜ」

 元世界チャンピオンの指摘に愛弟子はうんうんと頷く。自分が思っていることを言ってくれる。セレスジムが誕生して初のタイトルマッチ。「このジムにチャンピオンベルトを」と思うだけで気持ちが一層高まっていく。

残り1分を切ったところで後楽園が沸いた。

 2ラウンドも刺し合いは続く。

 右ジャブから組み立てを進めていく山中に対し、焦りと勢いの入り混ざった感情によって「離れよう」が打ち消されて前に出ていく岩佐。

 残り1分を切ったところで後楽園がドッと沸いた。山中の左ストレートを岩佐が左クロスで合わせてクリーンヒットさせたのだ。

 王者は腰を落とす。大きくバランスを崩して挑戦者に背中を向ける。

 岩佐の感触はどうだったのか。

「体が傾いたなと思いましたけど“よっしゃ、当たった”という感覚でもなかった。(当てる)タイミングは確かに良かった。でも、ああいうクロス系のパンチは当時得意じゃなかったところもありましたから」

 半信半疑。確証と手応えが足りない。間合いを詰めてもパンチが返ってくる。

「キャリアを通じて最初で最後やったと思います」

 逆に山中はどうだったのか。

「あの試合から9年経ってあらためて映像で見ると、(パンチを)もらっていますよね。僕の左がああやってしっかり合わされたのは、現役のキャリアを通じて最初で最後やったと思います。一発の怖さはさほどなかったけど、タイミングよく打ち込んでくるあたりはさすがやな、と。

 でもこのとき僕は“やばい、合わされた”という感覚じゃなかった。“もらったけど、バランス崩した”くらいでそんなに深刻に受け止めることもなかったんです。大いなる勘違いというか(笑)。でも結果的にはこれが良かった。楽観的に捉えられましたから。あとジャブが当たっている感覚も大きかったとは思います」

ポイントと戦っている2人のイメージの乖離。

 パンチが派手に当たっているのは岩佐のほうだ。1ラウンドの右フックにしても、2ラウンドの左クロスにしても。

 しかしながら焦りと勢いの天秤は、前者に傾いていく。山中の“ガツンジャブ”によって、主導権を握られてしまっている感覚が岩佐からは消えない。

「同じジャブをもらうにしても力を抜いたパンチと、ガツンと来るパンチじゃ全然違いますから。余裕もなかったです。行かなきゃっていう焦りのほうが強くなっていきました」

 序盤の3ラウンドが終わって、ジャッジはここまで3者とも岩佐の10−9。つまり3ポイント差をつけていたことになる。10回戦の3ポイントリードはかなりでかい。

 このときはまだ公開採点制度以前。しかし実際に戦っている2人は「王者ペース」という印象を抱いているのだから面白い。

 楽観的な王者と焦燥的な挑戦者。

 次のアクションを起こしたのは、山中のほうだった。

文=二宮寿朗

photograph by Hiroaki Yamaguchi