8月31日、東京・新宿フェイスで「ファーストレート Presents A-SIGN BOXING」というイベントが開催された。後楽園ホールよりも小さな500人規模の会場で、特に注目の選手が出場したわけでもなかったのに、メインイベントに出場した坂井祥紀のファイトマネーはこのレベルでは規格外の100万円に達した。ITを駆使した新しいボクシング・イベントのあり方とは――。

 新型コロナウイルスの影響で入場客数を制限したこともあり、この日の観客数は70人程度。タイトルマッチはなく、4回戦1試合、6回戦4試合、8回戦1試合という構成を考えれば、ボクシングファンでさえ気がつかないような地味なイベントとして、ひっそり終わっていてもおかしくはなかった。

共感を呼んだ選手たちのストーリー。

 しかし、今回の「A-SIGN」は今までの興行とは違った。横浜光ジムの石井一太郎会長と、八王子中屋ジムの中屋一生会長という38歳と41歳のプロモーターがタッグを組み、ユーチューブをふんだんに使ったイベントPR、EC物販、オンラインサロン、クラウドファンディングによる選手への投げ銭(激励賞)などを実施したのだ。

 これが当たった。前座に出場する4勝2KO11敗2分の35歳、山口拓也がクラウドファンディングで77万円もの投げ銭をゲット。元引きこもり、家賃2万円のアパートでの貧乏暮らしなどなど、次から次へとユーチューブで描き出される特異にして心温かなキャラクターに人気が集まった。

 メインの坂井にも37万円の投げ銭が集まった。坂井は高校を卒業して単身メキシコに渡り、海外36試合の経験をして日本に帰ってきた逆輸入ボクサー。世界ランキングに入るような選手ではないものの、こちらもユーチューブで流された「異国で10年間戦い続ける日本人ボクサー」のストーリーが共感を呼んだ。

「100万円プレーヤー」が誕生。

 中屋会長によると、この興行を開催するにあたって立てた1つの目標が「100万円プレーヤー」を作ること。坂井のファイトマネーは70万円で投げ銭と合わせて100万円を超え、主催者の目標は達成された。山口のファイトマネーは12万円。投げ銭と合わせて90万円近くにまで達し、もう少しで2人の100万円プレーヤーが誕生するところだった。

 通常は日本、東洋太平洋チャンピオンレベルで100万円というのがファイトマネーの相場だ。山口のファイトマネーにいたっては、これまでの最高額が8万円程度だったというから、文字通りに桁違いの数字になったのである。

 余談だが、山口が計量後の取材で「自分は何もしていない。これだけお金が集まったのは取材してくれた人が、面白い映像を作ってくれたから」と投げ銭の全額受け取りをよしとせず、所属するワールド日立ジムの和式便所を改修する費用に充てると発言したことは書き記しておきたい。

ボクシングでの大成功の理由。

 肝心の試合は、山口が2回KO負け、坂井は苦しみながらも日本ランカーに判定勝ちで日本デビュー戦を飾った。ライブ配信の視聴者数は、第3試合の山口、メインイベント(第6試合)の坂井がともに4700人をマーク。石井会長は「同時接続でこれは相当いい数字。3000いけばと思っていましたから」と驚いていた。

 さて、ITを駆使すれば成功するかといえば、そう簡単な話ではないだろう。同じような試みはいろいろなスポーツやイベントで行われている。成功するケースもあれば、思うような結果が出ないことも少なくない。

 そうした中、成功の要因を石井会長に聞いてみると、次のような答えが返ってきた。

「こういう(新しい)ことをやるなら協力したい、応援してあげたい、という人が多かったということだと思います。たとえば2980円の商品を販売していても、みんな3500円とか4000円とかを払って買っている。ようするにチップをつける。そういうみなさんの気持ちが成功につながったと思います」

 このようなイベントがボクシング界では初めてだったこと、新型コロナウイルスの影響により業界が苦境にあることを多くのファンが知っていたこと、山口という特異なキャラクターを得られたこと、石井会長が以前からユーチューブに力を入れ、それなりの登録者数があったこと――こういったさまざまな要素が重なって、今回の結果が出たと言えそうだ。

打破したかった悲惨な状況。

 そもそも石井会長、中屋会長がこのようなイベントを開こうと思ったのは、新型コロナウイルスだけが理由ではない。

 井上尚弥(大橋)や村田諒太(帝拳)ら一部のスター選手の試合なら、チケットはそれほど苦労しなくても売れるだろう。ところが通常の興行の場合、チケットを売るのは主に選手だ。選手によってはかなりのチケットをさばく選手もいて、これはプロモーターにありがたがられる。ただし、それは裏を返せば「興行は選手個々の集客力におんぶに抱っこのところがある」(石井会長)ということ。チケットを売れない選手は悲惨なことになり、ひいてはプロモーターも潤わない。こうした現状をプロモーターとして打破したい、という決意が石井会長の原動力になっているのだ。

次はボクシングの格を見せたい。

 A-SIGNはこの日、次回の興行を11月5日、墨田区総合体育館で開催すると発表した。今回の成功体験を次に生かすのか? そう問いかけると石井会長は即座に否定した。

「次も同じようにやろうとは思っていません。今回は6回戦の選手が主体だったので、リングの上は真剣ですけど、バラエティーというか、そういう要素があった。ライブ配信もいかにもユーチューブっぽい感じでした。次のメインは伊藤と三代くんですから。ボクシングの格を見せるというか、ライブ配信もよりテレビ中継に近いものにしたいと思っています」

 伊藤とは前WBO世界スーパー・フェザー級チャンピオンの伊藤雅雪(横浜光)であり、三代とは無敗の東洋太平洋同級王者の三代大訓(ワタナベ)だ。試合はノンタイトル戦になるが、紛れもなく日本のトップ選手が激突するファン垂涎の好カードである。これにふさわしい舞台を用意するというのが石井会長の考えなのだ。

 現状を大きく打破できない閉塞感にコロナショックが追い打ちをかけたボクシング界において、精力的なチャレンジをする石井会長や中屋会長は貴重な存在と言える。彼らをボクシング界の救世主と持ち上げるのではなく、それぞれがそれぞれの立場で時代に即したプロボクシングのあり方を模索することが大切なのだろう。

文=渋谷淳

photograph by Hiroaki Yamaguchi