白血病のため1年7カ月の間、実戦から離れていた池江璃花子(ルネサンス)が、8月29日、東京辰巳国際水泳場で行われた東京都特別水泳大会の女子50メートル自由形に出場し、昨年1月13日の三菱養和スプリント以来594日ぶりにレース復帰を果たした。

 萩野公介や大橋悠依ら多くのトップスイマーが集った大会。自身が持つ日本記録の24秒21と約2秒違いの26秒32のタイムで泳ぎ、5位になった池江は、感無量の面持ちでこう言った。

「ここまで戻ってきたぞということをやっとみんなに見せることができました。ここから第2の水泳人生が始まると思っています」

 池江自身が「タイムや順位ではなく、ここで泳いでいるということに自分自身、感動した」と強調するように、今の時点でフォーカスすべきことは成績の部分ではない。ただ、彼女の泳ぎをシンプルに見つめれば見つめるほど、周囲も興奮を抑えるのに必死にならざるを得ない。

泳ぎを見て「さすがだな」と。

 まずはタイムだ。今年6月から池江を指導をしている西崎勇コーチによれば、試合の3日前に2人で話し合った第1目標は、「日本学生選手権(インカレ)参加標準記録の26秒86を切ること」。そして陰の目標として「26秒5が出たら二重丸をつけていいよね」ということだった。ところが終わってみればシークレットのターゲットをも上回る26秒32。二重丸どころか花丸の結果だった。

 泳ぎの質が変わっていないことも西崎コーチを驚かせた。元々、大きな泳ぎを持ち味としていた池江だが、1年7カ月ぶりのレースでもワンストロークの長さは健在だった。さらには水面で高いポジションをキープする能力にも変化はなかったという。

 西崎コーチは「今日の泳ぎを見ていても、さすがだなと思うところがありました。最初の10メートルで分かりました」と言いながら、「今までを振り返ってみても、池江選手は良い意味で皆さまの期待を超えてくる存在。一緒に練習を始めてからの戻り方(復活ぶり)は、私がイメージしていたのと比べて全体的に一歩二歩早いという感触はあります」と続けた。

体調を第一に、一つずつ前へ。

 サプライズに満ちあふれる池江だが、優先順位が何であるかについては、本人とコーチングスタッフの中でしっかりと意思統一しているのも強みだろう。今は体調第一とするべき時期。加えて、新型コロナウイルス感染症のリスクには細心の注意を払う必要がある。そのため、現在のトレーニングスケジュールは、週4日練習で、そのうち1日はほぼリカバリー。ウエイトトレーニングは4日の中の1日にとどめ、しっかりと週3日の休息を確保している。これは6月から変わっていないという。

 このため、筋肉量とスタミナの面ではスタート地点から少し進んだという状態だ。復帰レースでのスタートのリアクションタイムは、通常より0.1秒ほど遅い0.70秒。池江の言葉によれば、「自分的には今までと同じようなスタートをやってるつもりなんですけど、やっぱり脚力が戻っていないので、どうしても瞬発力が足りない」。また、ラスト15メートルではきつさを感じたとも語っていた。これらの点を踏まえて西崎コーチは「体調を見ながらですが、まずは体重を戻して、一つずつトレーニングの強度を上げていくことでクリアしていきたいと考えています」と言う。復帰初戦の快泳にざわつきがちなムードを助長しないように、慎重に言葉を選んでいる様子が伝わる。 

6月下旬の泳ぎは衝撃だった。

 緊急事態宣言が解除された後の6月下旬。ナンバー1007号のインタビューのため、日大水泳部のプールを訪ね、十分に距離を取ったエリアから練習を見学する機会があった。

 実は、そのときのタイムトライアルでの泳ぎがこちらの先入観を見事に吹っ飛ばしてしまうほど速かったため、東京都特別大会での泳ぎはある程度想像のつくものではあった。体はまだ細いが、6月のインタビューでは「体重は一番減ったときがマイナス15キロくらいで、今はそこから5キロ戻って50キロ近くです」と話していた。それから2カ月。今回は6月よりももう少し筋肉がついている様子が見て取れた。特に肩から上腕にかけてのラインに厚みが出ている感じだ。

「負けたくない」本能が残っている。

 慎重な歩みに徹している池江だが、復帰初戦でアスリートとしての本能をあらためて呼び起こされた部分があったと語っていたのは印象的だった。

「きょうは満足しているのですが、今後試合に出ていった時に、自分が勝てなかった時の悔しさがどうなのかと想像することができました。やっぱり、アスリートとしても負けたくないという気持ちがしっかり残っているのだと。それは次の試合に向けてという部分だと思います」

 このコメントから察するに、今後はさまざまな場面で沸き上がる気持ちの推進力をどうコントロールしていくかがカギを握るのかもしれない。たぐいまれなる水泳センスとひときわ強い意志を持つ池江だけに、“やればやるだけできる”、“記録が伸びて楽しい”という状態が続くこともありえるだろう。だからこそ、慎重に、穏やかに見守る必要があるだろう。

奇跡の人の、パリへの一歩。

 復帰戦のプールサイドでは過酷な闘病生活にも寄り添ってきたマネジメント会社のスタッフが目を潤ませる姿を見つけて、「私ももらい泣きしちゃいました」と涙をぬぐった。萩野は「スタート台に立つこと自体が奇跡だなと思った」と感嘆していた。8月29日の辰巳の光景がどれだけ尊いものか、池江を見つめた多くの人々の目に宿る温かみがすべてを物語っていた。

「まずはインカレ(10月2〜4日、東京辰巳国際水泳場)。そして、一番の目標はパリ五輪に出場することです。今は全力でタイムを出すのではなく、徐々にタイムを出していき、パリに向けて体を戻していくことがモチベーションになっています」(池江)

 焦るまい。焦らせるまい。20歳から始まった第2の水泳人生。ワンストロークごとに着実に前へ進んでいく姿が見られることを願っている。

文=矢内由美子

photograph by 東京都水泳協会/ベースボール・マガジン社