イビチャ・オシム監督が「我々のホーム」と愛した市原臨海競技場(ゼットエーオリプリスタジアム)に、絶叫が響く。

 マスク越しだったが、無観客試合のために内容がはっきりと聞き取れる。

「ここからだぞ! ここから!」

「全然オーケー! 大丈夫! 大丈夫!」

「ゴー! ゴー! ゴー! ナイス!」

 コーチングエリアの最前線で仁王立ちとなり、選手たちを叱咤激励していた指揮官は、立て続けに迎えたチャンスを相手GKにことごとく防がれると、まるで絵に描いたように、膝から崩れ落ちた。

 監督がそんな風にオーバーアクションだから、スタンドからの視線はピッチ上のプレーより、ついついベンチ前の彼に向かってしまう。

 ああ、監督になっても、一流のエンターテイナーなんだな――。

 関東1部リーグ(J5に相当)を戦うVONDS市原の岡山一成監督を見て、そう思わずにはいられなかった。

日韓合わせて10クラブを渡り歩いた後に

 '97年8月の横浜マリノス入団を皮切りに、大宮アルディージャ、セレッソ大阪、川崎フロンターレ、アビスパ福岡、柏レイソル、ベガルタ仙台、浦項スティーラース、コンサドーレ札幌、奈良クラブと、日韓合わせて10クラブを渡り歩き、FW、DFとして奮闘した。キャリア半ば以降はハンドマイクを片手に“岡山劇場”を展開し、ファン・サポーターを沸かせてきた。

 長く、熱い現役時代を過ごし、「心残りがある」「指導者には向いていない」と感じていた男は、なぜ、指導者への道を歩み出したのか――。

「ああ、俺は日本代表にはなれそうもない」

 23年前の夏、テスト生から横浜マリノスとの契約を勝ち取ったとき、岡山の夢は日本代表になることだった。

「日本代表の試合になると、テレビの前で釘付けになって。いつか自分もこの場所で、って思いながら、応援していましたね」

 その夢は期限付き移籍で大宮に行ったときも、C大阪、川崎に移籍したときも抱き続けていた。

 しかし、そこまでだった。

「やっぱり気づくんですよ。ああ、俺は日本代表にはなれそうもないなって。それがフロンターレ時代。それでもどうにかチームに貢献できないものかと考えて、試合後に“岡山劇場”をやるようになった。ただ、ちょっとの差でもあったんです」

 横浜時代、チームメイトで日本代表だった井原正巳、城彰二、松田直樹、中村俊輔と自身との間には、歴然とした実力差が存在した。どう頑張ったとしてもその差は埋められそうになかった。

古巣フロンターレの初優勝を見届けて

 一方、川崎のチームメイトで、数年後に日本代表に選ばれることになる我那覇和樹、中村憲剛、寺田周平、箕輪義信とは、そこまで大きな差を感じたわけではなかった。

「あの頃もっと頑張って、彼らに付いて行ったら、自分のキャリアも違うものになっていたかもしれない。そんなことを思ったりもしたけれど、フロンターレも彼らもどんどん遠い存在になっていって。あの日、等々力で見たフロンターレはもう、自分の知ってるフロンターレとはまったく違った。ものすごいチームになっていた」

 '17年シーズンのJ1最終節、5シーズンを過ごした奈良クラブを数日前に退団したばかりの岡山は、等々力陸上競技場に駆けつけた。そして、スタンドのサポーターに混じり、古巣が初優勝する瞬間を見届けたのである。

 その瞬間、自分の中で止まっていた時計の針が再び動き出すのを感じた。

「フロンターレを去るとき、『必ず等々力に帰ってきて対戦する』って約束したんです。でも、一度も帰れんかった。それがずっと心残りやったんですけど、フロンターレが優勝した瞬間、そうか、選手としてでなくても、対戦相手の監督やコーチとして戻ってくればいいんやって。新しい夢が見つかったんです。指導者っていう」

「ライセンスを取らんと始まらない」

 こうして岡山は'17年限りでスパイクを脱ぎ、セカンドキャリアへと踏み出した。

 もっとも、指導者への想いを燃え上がらせたところで、すぐにチームを率いることができるわけではない。

「ライセンスを取らんと、始まらないですからね。現役時代の実績もあって、なんとかA級ライセンスの講習を受けられることになって。ただ、講習って年4回なんですよ。その間、何かせなと思って、いろんなところに声を掛けたんです。なんでもやりますんでって」

 その結果、岡山が携わることができたのは、大学チームのアドバイザー、Jリーグ中継の解説、子ども向けのサッカー教室、JFAこころのプロジェクトの『夢先生』だった。

「飲食関係とか、指導者に繋がらん仕事はしない。サッカーに繋がることだけやるって決めていたんで。奈良クラブ時代に働きながらサッカーをやっていたんで、免疫はあったんですけど、キツかったですね。フリーは毎月が勝負。解説の仕事でも『ああ、今月は1試合しか来んかったか』とか、『おお、今月は2試合来た!』とか。でも、指導の勉強という点では、現場を見ることができて良かったです」

「A級取ったんで」と売り込んだが……

 肝心のA級ライセンスも、インストラクターに「指導というのは簡単なものじゃない」と厳しい言葉を受けながら、なんとか'18年12月に取得する。

「さっそくいろんなクラブに売り込みました。『A級取ったんで、契約してください』って。でも、どこもダメで。そうやって声を掛けたひとつが、アンリミやったんです」

「アンリミ」とは三重県の鈴鹿市で活動するJFL(J4に相当)の鈴鹿アンリミテッドFC(現鈴鹿ポイントゲッターズ)のことである。

 実は1年前の冬に奈良クラブを退団したとき、現役続行の選択肢がゼロだったわけではない。選手としてのオファーをくれたクラブがあったからだ。そのクラブこそ当時、東海リーグ1部(J5に相当)にいた鈴鹿アンリミテッドだった。

「でも、また奈良クラブ時代と同じことの繰り返しか、って思うと気持ちが燃えなくて。それより指導者の道に行こうと思って、断ったんですよ」

「スペイン語は喋れますか?」

 それなのに1年後、そのクラブに指導者として自身を売り込んだのだ。普通なら躊躇してしまいそうだが、この大胆さが岡山らしい。

 すると、「スペイン語は喋れますか?」という返答が届いた。

 鈴鹿アンリミテッドは新監督としてスペイン人女性のミラグロス・マルティネス――ミラ監督を招聘していた。通訳兼コーチとしての契約なら可能性があるというのだ。

「アンリミの監督がスペイン人女性になったことは知っていて、面白そうやなと思って連絡したんですけどね。さすがに嘘はつけないじゃないですか。それで断念して」

 もう1年、解説の仕事を続けながら、空きが出るのを待つしかないか――。

 そう覚悟を決めたとき、岡山の天性の武器が光る。

開幕1週間ほど前にチーム合流

 現役時代、何度かサッカーの世界から離れかけたが、その度に次のクラブが見つかり、プレーを続けてきた。そんな“引きの強さ”がここでも発揮されたのだ。

「2月下旬にアンリミから連絡が来て、『通訳ができるアシスタントコーチが見つかったので、ヘッドコーチとフィジカルコーチを兼任してもらえませんか』って。もう、ふたつ返事で引き受けさせてもらいました」

 とはいえ、チームに合流したのは'19年シーズン開幕の1週間ほど前。しかもJ2開幕の日には解説の仕事が入っていたため、その日の練習を休むというバタバタぶり。こうして念願の指導者の道をJFLのクラブからスタートさせる幸運に恵まれた岡山だったが、与えられた役割はすぐに半減した。

「フィジカルコーチは失格になりまして(苦笑)。僕、追い込むタイプやから、ミラの方針と合わなくて。そもそも僕とミラは正反対なんですよ。ミラはスペインの最先端の指導を学んでいて、UEFAのプロライセンスも持っている。一方、僕は叩き上げの軍曹みたいで暑苦しい(苦笑)。たぶん、ミラはインテリな右腕が欲しかったと思うんですよ。それなのに、僕は隣で『行けー!』とか叫んでいて」

 そんな正反対のサッカー観が、シーズン序盤のある日、問題を引き起こす。

「選手たちの前で、ミラとぶつかっちゃったんです」

「完全に僕が悪いんですよ」

 紅白戦が終盤を迎えたときのことだ。アディショナルタイムで失点した試合の反省から、岡山は時間稼ぎをしてゲームを終わらせる練習をするように指示を出した。

 それを見たミラ監督が「なんなの? これは私がやりたいこととは違う!」と指摘したのだ。

「『勝たなきゃ意味がないから、1回やっておこうよ』って言うたんです。ミラは受け入れてくれると思ったんですけど、ミラの考えとは違った。それで練習が止まってしまって。完全に僕が悪いんですよ。監督のやりたいサッカーをサポートするのがコーチの役目なのに、自分の考えを押し出してしまった。

 そこからっすね、ミラとたくさん話をするようになったのは。そもそも僕はミラからいろいろと学びたかったし、逆に、日本の気候や日本人の性格、JFLの特徴については教えることができる。ミラもだんだん信頼してくれるようになって」

 その後、攻撃面の指導はミラ監督、守備面は岡山と役割分担がなされ、コーチングスタッフの絆が深まっていく。

 もっとも、チームは苦戦していた。

「ミラの考えは、攻めることが大前提なんですよ。システムは4-3-3で、『前の3人は戻ってくるな。そうすれば相手の4バックを釘付けにできるから』って。でも、アンリミは昇格したばかりだから、相手のほうが格上のことが多い。それで押し込まれて4-5-1みたいにさせられてしまう。ミラもストレスを抱えていたけれど、『守備のときは4-2-3-1に変えたほうが守りやすいんじゃない?』と僕から提案したりして」

「ミラから学んだのは、柔軟な姿勢」

 ターニングポイントは9月に訪れた。流通経済大ドラゴンズ龍ケ崎、松江シティFCと残留を争うチームとの連戦に、ロングボールや時間稼ぎも辞さない泥臭いサッカーで連勝を飾るのだ。コーチングスタッフの間で徹底的に話し合った成果だった。これで勢いを取り戻した鈴鹿アンリミテッドは、16チーム中12位でシーズンを終えた。

「ミラから学んだのは、柔軟な姿勢ですね。本来、ミラがやりたいサッカーをやるには、育成から変えないとダメなんですよ。それくらいレベルの高いパスサッカー。でも、アンリミではできない。苦悩しながらも、ミラは割り切って、理想と現実を少しずつすり合わせていった。その姿勢は勉強になりました」

 2年契約の1年目が終わる頃、岡山は翌年も鈴鹿アンリミテッドでミラ監督を支えるつもりでいた。

 ところが、岡山のもとに心を揺さぶるオファーが届く。

 指導者なら関心を持たないわけにはいかないオファーを出したのは、関東1部リーグに所属するVONDS市原だった。

(※関連記事より後編「“J5”監督挑戦、岡山一成『指導者って夢がある』 コロナ禍と雷の記憶、鬼木達の助言」もぜひご覧ください)

文=飯尾篤史

photograph by Atsushi Iio