Number1011号のスペインサッカー特集「久保建英、リーガがゆく」では、トップチームのアナリストとして貢献した若林大智氏に話を聞き、セビージャの強さの秘密に迫っている。NumberWebでは、町クラブからキャリアをスタートさせたという若林氏の軌跡を振り返りたい。

 8月21日、ケルンのミュンゲルスドルファー・シュタディオン。セビージャが最多6度目のヨーロッパリーグ制覇を成し遂げたピッチ上に、1人の日本人の姿があった。

「12年スペインにいるんですけど、やってきたことが1つの形となって、ようやく報われた瞬間でした」

 歓喜の瞬間をそう振り返ったのは、対戦相手の分析ビデオ作成などを手掛けるスタッフとしてジュレン・ロペテギ監督をサポートしてきたセビージャのアナリスト、若林大智だ。

 スペインに渡る以前、若林は草の根レベルでサッカーを教える無名の指導者だった。

 選手としてのキャリアは東農大一高サッカー部が最後。大学進学後は東京都目黒区にある鷹の子サッカークラブで指導をはじめた。

「担当していたのは小学1年生から6年生。日本によくあるサッカークラブというか、小学校を借りて活動をしているチームでした」

 プロの監督になるという夢を持っていた彼は、学生時代から海外に行くことを決めていたという。理由は「自分はプロになれずに死んでいくんじゃないか」という危機感だった。

「プロの監督になりたいけど、日本はライセンスが取りづらい。だからプロの選手経験がなくてもライセンスが取れる国に行って、まずはライセンスを取って一歩夢に近づくのが自分の道なんじゃないかなと思って」

「なんだあのクラブは?」

 そんな思いでスペインへと飛び立ったのは2008年6月。スペイン代表が44年ぶりのEURO制覇を成し遂げる直前のことだ。

 行き先にセビージャを選んだのは、当時国内外で躍進していたセビージャFCのフットボールに惚れ込んだからだった。

「選手はそこまで有名じゃないのに、2強(レアル・マドリー、バルセロナ)と対等に点を取り合う。本当に強かったので、『なんだあのクラブは?』と思って。どうせなら好きなチームがあるところに行こう。それプラス、ライセンスが取れる場所ってところでセビージャを選んだんです」

S級相当を最短の4年で取得

 語学の勉強もそこそこに飛び込んだセビージャでは、1年目から町クラブのセビージャ・エステで2チームのアシスタントを務めながら、指導者ライセンスを取得すべくコーチングスクールに通いはじめた。

「語学は日本で少し勉強したんですけど、アンダルス(アンダルシア訛り)がそこまで違うってことを知らなかったので、きつかったですね。でもサッカー監督になってトップでやるなんて言ったらすごく年月がかかる。だからコーチングスクールが始まる前にチームを探して、現場で言葉を覚えていこうと思って。見かけによらず結構(グイグイ)行くタイプなので」

 語学の壁に苦しみながらも、コーチングスクールでは最短の4年で日本のS級に当たるレベル3のライセンスを取得。一方、現場では2年目から監督を任されるようになったものの、なかなか7人制(12歳以下)から上のカテゴリーに進むことができなかった。

 当初はレベル3を取得した時点で帰国する予定だったが、「7人制では終わりたくない」との思いからその後も他の町クラブで指導を続けた。ようやく11人制のチームを受け持てたのは渡西7年目に入る'15年。だがこの年、思わぬ転機が訪れる。

「父親が亡くなってしまって。それで1シーズンちょっとチームには所属しないで過ごしていたんです」

 その間はサッカーを離れ、バイトをしながらセビージャで生活を続けていたが、やはり夢は捨てられなかった。'16-17シーズンには「スタート地点に戻ろう」とセビージャ・エステで監督業を再開。そして翌シーズンを迎える前、彼はある決意を抱く。

「もうずるずるスペインにいるのをやめようと思って。その年から2シーズンやって、セビージャやベティスのカンテラに入れなかったらスペインで監督を続けるのはやめようと決めたんです」

不退転の思いが呼び寄せたオファー

 これがスペインでのラストチャンス。そう決心して門を叩いたのは、セビージャの下部組織で長年監督をやっていた指導者が代表を務めるサン・アルベルト・マグロというクラブだった。

「この人の下で自分をアピールして、それでセビージャやベティスに入れなかったら諦めもつく」

 不退転の思いで戦い抜いた1年を終えると、憧れのクラブから待望のオファーが舞い込んだ。

「監督ではないんですけど、アナリストをやってみないかと。セビージャは自分が入る3年前にアナリスト部門ができたんですけど、シーズンごとに1、2人増えていく形で新しい人間を入れていたんです」

分析の映像編集は夜までかかることも

 1年目はフベニール(18歳以下)で練習や試合の撮影、編集を担当しながら、アナリストの仕事を覚えていった。最終的に同カテゴリーのトップリーグであるディビシオン・デ・オノール優勝に貢献したこのシーズンは「本当に学ぶことが多かった」という。

 そして2年目を迎える昨夏には、トントン拍子でトップチームから声がかかる。本人も驚きの抜擢だった。

「正直なところ、いきなりトップに上がるとは思っていなかった。ロペテギ監督がアナリストを連れてこなかったので、自分にも話が来て。もちろん断る理由はないですし、トップに関われるというので、すぐOKしました」

 トップチームでは4人で構成されるアナリスト部門の一員として、日々のトレーニングの撮影と編集を担当。さらに対戦相手の選手個々の分析ビデオも作成していたため、朝7時半には練習場に到着し、夜まで編集作業に没頭する日々が続いた。

「2、3分ぐらいのビデオを1人ずつ作っています。リーガはある程度予測できるので、常に20人ちょっと分析しているんですけど、リストBの選手まで入ってくるヨーロッパリーグは難しくて。次の対戦相手がどちらか分からない時は苦労しましたね。例えばシャフタールがインテルとやっていた時はどちらも分析して、結局(決勝進出を決めた)インテルの方だけ残す」

「監督」という目標は変わらない

 その苦労も報われ、セビージャは長いシーズンを最高の形で終えることができた。だが喜びもつかの間、チームはわずか2週間のオフを経て、慌ただしく新シーズンに向けて動き出している。

 若林は今季もトップチームのアナリストを続けるが、「プロの監督としてチームを率いる」という将来的な目標は変わっていない。そのために今は、アナリストという立場から様々なことを吸収している段階だという。

「今もアナリストとして仕事をしているというより、毎日勉強をしている感じで。トップチームはこういう流れでやっているんだというのを勉強して、将来自分が監督になった時に、今体験していることを生かしてチームを率いたいなというのがありますね」

最終的には日本代表に還元したい

 その先には、日本代表という壮大な夢を見据えている。

「死ぬ前に日本代表がワールドカップで優勝するところを見たい。それを自分の力で実現できたらいいですよね。ワールドカップで優勝できるような日本代表を作りたいっていったら大袈裟ですけど、そこに関わりたい」

 草の根レベルの無名コーチから欧州王者の一員へ。華麗な飛躍を遂げた今も、彼の挑戦は続いている。

「今は大きなチャンスがセビージャにある。それをうまく掴んで、でも最終的には日本に帰って、日本代表に還元したいと思いますね」

文=工藤拓

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