ヤクルトと正式契約を交わす9月6日から遡ること数日前、歳内宏明は恩師である聖光学院の斎藤智也監督に電話で吉報を届けた。

「ヤクルトに決まりました。最初の登板は二軍になりますけど、結果次第では一軍に上がれるかもしれないんで頑張ります」

 2012年にプロとなって以降、二軍であっても自分が投げた試合後には夜遅くでも必ず連絡を入れた。19年に阪神を戦力外となった際も、独立・香川で再スタートを切ることが決まったときも歳内は報告を欠かさなかった。

 斎藤への恩義も当然ある。ただ、それ以上に、恩師との会話は歳内にとって道しるべとなるほど濃密でもあるからだ。かつての彼の言葉が、それを物語っていた。

「そのときだからこそ言ってもらえる言葉もありますし。高校を卒業してからは、腹を割って話をさせてもらえていますね」

「二軍で終わるんじゃねぇ」

 ヤクルト入団を報告したときがそうだ。斎藤からの激励は、「頑張れ」というありきたりなものだけでは終わらなかった。

「今のお前なら二軍で抑えられる。せっかくプロの世界に戻ってきたんだから、そこで終わるんじゃねぇ。ヤクルトのエースになるつもりで、一軍でも抑えてみろ!」

 プロ野球を一度、戦力外となった選手に対しては、やや飛躍したエールである。しかし、斎藤としては、根拠なく大仰な言葉を贈ったわけではなかった。

防御率0.42「独立リーグで無双状態」

 歳内は香川で、有言実行を果たした。

 チームに入団の際に、監督である松中信彦(現総監督)の「半年でNPBに戻れるようバックアップする」という言葉を信じてマウンドに立ち、圧巻のパフォーマンスで応えた。9試合に先発し5勝無敗、防御率0.42。独立リーグで無双状態だった歳内から、斎藤は漲るほどの自信を受け取ってもいたのだ。

「今までで一番、調子がいいです」

 歳内とは、中国の故事に出てくる「木鶏」のような男である。

 いくら調子がよく、結果もついていたとしても、不遜なく「まだまだです」と足元をしっかりと見る。阪神時代に右肩の故障で満足に投げられない時期が長かったように、不運が続いたとしても「それが今の自分には必要な時期なのだ」と現実を受け入れる。

 その何事にも動じない男が、「今までで一番」と矜持を見せたのである。聖光学院の部訓である『不動心』を体現し続ける男だからこそ、あえて「ヤクルトのエースになれ!」と、発破をかけたわけだ。

「聖光学院の象徴のような選手」

 斎藤が言う。

「歳内という男は、高校のときから考え方が大人なんだよ。一喜一憂せず、どんな状況に身を置いたとしても落ち着いて行動できる、精神がブレない人間。だから、注目されたとしてもカッコつけないどころか、そういう自分にしてくれた周りに感謝の気持ちを表現できるんだよね。阪神を戦力外になって、一度、奈落の底に突き落とされた選手が、またプロに返り咲いた。それは、あいつの実力もそうだけど、人徳も大きいと思うんだ」

 そう評する歳内を、斎藤は「聖光学院の象徴のような選手」と迷わず言った。それだけの重厚な時間を、ふたりは過ごした。

 2年生エースとしてマウンドに立った2010年夏。歳内は広陵、履正社と、優勝候補にも挙げられていた強豪校を抑え、ベスト8進出の立役者となった。3年生になる頃、不動のエースは「プロ注目の投手」として脚光を浴びるようになったわけだが、そんな矢先に、東日本大震災によって聖光学院のある福島県も甚大な被害を受けた。

『夢や希望を与える』なんて薄っぺらい言葉を発するな

 未曽有の大災害の渦中にいる強豪校。チームを支えるプロ注目の選手。連日のようにマスコミがグラウンドに訪れ、このとき主将を務めていた歳内は常に取材の中心にいた。

 忙殺や煩雑、辟易する日常に身を置きながらも、歳内は震災について多くを語らなかった。それは、監督である斎藤が、チームに訴えてきたこんな言葉を、自分なりに解釈していたからだった。

「お前たちは『夢や希望を与える』なんて薄っぺらい言葉を発するんじゃない。野球で自分たちの気持ちを伝えてくれればいい」

 兵庫県出身で、2歳になる1995年に阪神・淡路大震災も経験している歳内は、当時の心情をこう述懐していた。

「高校生が『被災した人たちの想いを背負う』と思うこと自体、おこがましいというか。練習とかでモチベーションにすることはいいんでしょうけど、試合でそれを持ち出すのは違うというか、ズルいなって。チームには実家が被災した選手もいたし、人それぞれ考え方があって何が正しいかを判断するのは難しかったですけど、僕はそう思っていました」

聖光学院初のプロ野球選手

 11年の夏に甲子園出場を決めた聖光学院は、好投手・歳内の存在も相まって「優勝候補」に挙げられるほど期待を寄せられていたが、2回戦の金沢戦で敗れた。

「チームを勝たせられず申し訳ないです」

 大きな敗因に守備の乱れがあったものの、言い訳ひとつせず大粒の涙を流す歳内に、斎藤は心のなかで唸ったという。

「こいつは達観できた。野球で福島の、東北の想いを背負ってくれていた」

 そしてこの年、歳内はドラフトで阪神から2位指名を受けた。それは、聖光学院にとって初めてのプロ野球選手誕生という快挙だった。

 本来ならば選手を特別扱いすることを嫌う斎藤ではあるが、歳内については「特別だと言わざるを得ない」と認め、短い言葉で自分たちの関係性を表した。

「俺と歳内の間に絆が生まれた」

プロ野球人生の「第2章」

 歳内が聖光学院を巣立ち、プロ野球選手となって8年が過ぎた。

 平坦というより、山あり谷あり。苦難続きながらも、今年、歳内はその右腕でプロ野球人生の「第2章」を切り拓いた。

 ヤクルトでの初登板となった9月9日の二軍戦で6回無失点と好投し、最初のチャンスを掴んだ。一軍初マウンドの16日のDeNA戦でも、勝ち星こそつかなかったが5回2失点と粘った。ところが、聖光学院の1学年後輩である岡野祐一郎との投げ合いとなった23日の中日戦では、3回途中5失点でノックアウトされ初黒星を喫した。

 一軍で2試合に登板し0勝1敗、防御率8.59(9月28日現在)。成績は芳しくない。それでも「エースになるつもりで投げろ」と壮大な道を示した斎藤は、教え子の歩みを信じるように、言葉に愛情を乗せる。

「どん底から這い上がってきたんだから、ひと花咲かせないと男が廃る。一軍で通用するピッチャーになるために全てを出し切って、ふてぶてしいくらいの姿でマウンドに君臨してもらいたいね」

 まだ「ヤクルトの歳内」は、力を出し切ってはいない。

 幸不幸に捕らわれることなく新たな道を邁進し、鮮やかな再起を遂げる――。

 そのとき、彼はきっと「未だ、木鶏たり得ず」と言わんばかりに成熟を見据え、恩師との絆をより深めるはずである。

文=田口元義

photograph by KYODO