10年近く経っても、ふとよみがえる。いま流行りの歌ではないが、「その香水のせいだよ」と。

 匂いの記憶は、簡単に消えることはない。憧れの人から漂ってきた香りは、脳にしっかりインプットされている。槙野智章は、口元をふっと緩めて思い返す。23歳で海を渡ったドイツ・ケルン時代の話である。

「ルート・ファンニステルローイ(当時ハンブルク/ドイツ)は、めちゃめちゃいい匂いがしました。とても甘かった。テレビゲームで使っていた選手が目の前にいて、ただでさえうまくて強いのに、あの香りにもやられたかも」

槙野の記憶に残るファンニステルローイの香り ©︎Getty Images

 試合前、ハーフタイムに香水をつけてピッチに入るプロサッカー選手は、特段珍しくない。ヨーロッパでは文化になっており、いまや日本のJリーグでもスタンダードになりつつある。試合前のロッカールームであちらこちらからいい香りが漂ってくるのは当たり前。ボディクリームを使ったり、ユニホームに直接吹きかけたり、エンブレム部分にアロマオイルをたっぷり染み込ませる選手もいるようだ。

宇賀神から感じるパトリックの香り

 円陣を組むと、それぞれの香りが充満する。槙野はチームメイトである宇賀神友弥が愛用する香りを吸い込むと、好敵手のブラジル人FWを思い出し、「闘争心がめらめらと湧いてくる」と笑う。

「パトリック(ガンバ大阪)と同じ匂いがするので」

 思わぬ効果もあるようだ。

長年共にプレーする宇賀神(3番)からはG大阪FWパトリックと同じ香りが…(写真は2015年) ©︎Getty Imaegs

キックオフ前に大切にする自分の空間

 槙野自身も香りをつけるのは、ルーティンのひとつ。自らがプロデュースする香水『Five Dimension(ファイブディメンション)』を手首に強く染み込ませている。

「普段から使う自分の好きな香水の匂いをかぐことで、一番気持ちいい状態になり、精神的にリラックスできます。開始直前、僕は必ず匂いをつけた手首に鼻をあててから、キックオフのホイッスルを聞いているでしょ? あれは自分の空間をつくっているんです」

 試合前に香水を使うようになったのは、広島ユースからトップ昇格を果たし、しばらくしてから。先輩たちの見よう見まねで自然と習慣になった。若い頃は多くの種類を試し、自分に合うものを探した。他の選手たちも同じような道を通ることが多い。

「最初はみんなハイブランドだったり、強い匂いの物を欲しがるんです。ときどき“匂い負け”している選手もいます。まあ、そんな失敗をしながら、自分の香りを見つけていくんだと思います」

大人びた香りをさせていた前田大然

 槙野のその言葉を聞き、あるストライカーの顔が思い浮かんだ。2017年の秋。Shonan BMW スタジアム平塚の取材エリアで水戸ホーリーホックの選手を待っているときだった。キャップをかぶった若者が大人びた香りをぷんぷんと漂わせ、年季の入ったロッカールームからゆっくりと出てきた。ブレイク前夜の前田大然(現横浜F・マリノス)である。取材ノートには丸刈り頭の20歳とのやり取りを記している。

「いい匂いがしますけど、どこの香水ですか?」

「ディオールっす」

 前田は当時から強烈な個性を放ち、“匂い負け”はしていなかったが、少し背伸びをしている印象を受けた。あれから3年。リモート取材で前田と話す機会があり、挨拶程度の雑談から昔話した匂いネタのことを覚えているか聞いてみた。

香水のことを聞かれたのは初めてやったんで…

「あー、あのときの記者さんですか。香水のことを聞かれたのは初めてやったんで、記憶にあります。あの頃はちょっときつめのやつをつけてましたね。いまは落ち着いた匂いのシャネルを使っています」

 J2の水戸時代も今は昔。出世街道を突き進み、ポルトガル移籍を経て、今季途中から前年王者の一員となった。年齢とキャリアを重ね、よりしっくりくるものを見つけたのかもしれない。

現在はシャネルの香水を愛用中と教えてくれた前田大然 ©︎Getty Images

 香りに強いこだわりを持つ槙野も、自分の香りが定まったのは年齢を少し重ねてからだ。

「周りから『いい匂いがするね』と言われるようになり、俺にはこれだな、と思いました。同じ香水でもつける人によって匂いは変わります。“槙野の匂い”として認識してもらえるとうれしいですね」

上本大海も覚えている槙野の匂い

 いい香りは他人の記憶に残るものである。2017年限りで現役を退き、現在は大分トリニータのスカウトを務めている上本大海氏は、ベガルタ仙台時代のことを昨日のことのように振り返ってくれた。

試合中に抱き合う上本氏と槙野(写真は2015年) ©︎Getty Images

「雨の日の試合だったんですよ。槙野とピッチで少しやり合ったあと、『悪かったな』とハグしたら、すごくいい香りがして。あの匂いは覚えていますよ。何の香水だったのかな?」

 シャネルのエゴイストプラチナムだ。ちなみに上本氏はカルバンクライン、アナスイなどの甘い香りのタイプを愛用していた。

「鹿実(鹿児島実業高)時代は、そんなのご法度でしたけどね。汗の匂いをさせてナンボだったから。プロの世界は、違うなと思いました。いまの選手たちは、練習前にもシュッシュとしていますよ」

 今年は春先からコロナ禍の影響で記者を含め、ファン・サポーターの方も選手たちと接触できない日々が続いている。ただ、この我慢もあと少しのはず。当たり前だったファンサービスが解禁されたとき、いつもより半歩近づくと、ほのかな香りに気づくかもしれない。1日でも早いコロナの終息を楽しみに待ちたい。

文=杉園昌之

photograph by J.LEAGUE