背番号「23」のNBA選手と言われたときに、真っ先に誰が思い浮かぶだろうか。90年代からのオールドファンならマイケル・ジョーダン、21世紀に入ってからのファンならレブロン・ジェームズと答える人が大半なのではないだろうか。

 NBAの様々な記録を集めているウェブサイト、バスケットボール・リファレンスによると、これまでNBAで背番号「23」をつけた選手は235人いるという。カルビン・マーフィー(1970-83, ヒューストン・ロケッツ他)、マーカス・キャンビー(1996-2013, ニューヨーク・ニックス)、現役ではドレイモンド・グリーン(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)、ルー・ウィリアムズ(ロサンゼルス・クリッパーズ)らも背番号「23」の選手として知られているが、235人の中で、実績でも知名度でも、そして人気でも、ジョーダンとレブロンがダントツなのは間違いない。

「23」をつけられるのは、実力の証

 ジョーダンが「23」をつけるようになったのは、すぐ上の兄、ラリーの影響だった。ラリーの背番号は「45」だったのだが、高校で同じチームに入り、同じ番号をつけることができなかったジョーダンは、兄の半分でも上手くなりたいとの思いで「23」を選んだ。それが、すべての始まりだった。以来、ジョーダンは例外的な数試合を除いて「23」をつけ、「23」はジョーダンの番号として定着した。

 特にジョーダンが活躍した90年代頃は、子どもたちの間でも「23」が常に一番人気の番号だった。激しい競争の中で「23」をつけられるのは、それだけ実力があることの証でもあった。レブロンも、子どものときから「23」をつけてきた一人だ。

 レブロンがNBAに入った2003年も、まだ「23」といえばジョーダンの時代だった。ジョーダンは3度目にして最後となる現役引退をしたばかり。ジョーダンが所属したことがなかったマイアミ・ヒートが、ジョーダンの功績を称えて、「23」を永久欠番にしたのも、この年だった。

 そんななかで、高校時代から次世代のスーパースター候補として注目されていたレブロンが、高校卒業と同時に18歳でNBAに入ってきた。ジョーダンの大ファンを明言し、「23」の背番号をつけていた。

多くの“ネクスト・ジョーダン”が消えていったが…

 若い選手がジョーダンと比べられたり、ジョーダンにちなんだ番号をつけることがどんな意味を持つかは、当時の雰囲気を知らないとわからないかもしれない。90年代のNBAでは、ジョーダンが全盛期に2度引退したこともあって、メディアもファンも“ネクスト・ジョーダン”探しに夢中だった。多くの選手が“ネクスト・ジョーダン”と期待されながら、そのプレッシャーにつぶされて、消えていった。いや、実際には消えていったわけではなく、冷静に振り返るとそれぞれ十分に輝いたキャリアを送っていたのだが、そう思えなかったほど、“ネクスト・ジョーダン”というのは重すぎる称号だった。

 しかし、レブロンは最初から少し違った。ジョーダンと比較されても、「僕にとって憧れの存在。比較されるだけで嬉しい」と喜んでいたし、「23」をつけるプレッシャーもどこ吹く風。なかなか肝が据わったルーキーだった。

 実際のところ、レブロンにとって「23」はプレッシャーではなく、心の支えだった。バスケットボールに夢中になった原点で、つらいことも多かった子ども時代に、毎日の支えとなった光でもあった。小学生の頃にジョーダンのプレーを見て、魅了されてバスケットボールを始めたレブロンは、友達といっしょにその頃流行っていたCMソングをよく口ずさんでいたという。「アイ・ワナ・ビー・ライク・マイク(マイクのようになりたい)」という歌にのせて、子どもたちが真剣になってジョーダンのプレーを真似するテレビ・コマーシャルだ。

若いシングルマザーのもとで育ったレブロン

 若いシングルマザーのもとで育ったレブロンは、子どものころは貧しく、知り合いの家を転々として生活するような子ども時代を送っていた。華やかさとはほど遠い、オハイオ州アクロンの町で、凍えるような冬を送るなか、支えとなっていたのはバスケットボールであり、ジョーダンへの憧れだったのだ。

 去年、キャリア通算得点でジョーダンを抜いた後に、レブロンは当時を振り返って、こんなことを言っていた。

「オハイオ州アクロンの多くの子供たちにとって、ポジティブな影響を与えてくれるもの、刺激になることが必要だった。僕にとっては、MJがそういう存在だったんだ。

 友だちといつも、MJのことばかり話していた。屋外のコートで、屋外用のボールを使って、雪や雨の中で、僕らはみんなMJになりたがっていた」

「マイクのようになれるなんて思ったこともない」

 背番号に23を選んだのも、ジョーダンへの憧れの気持ちからだった。大好きな選手と同じ番号をつけたいという、子どもの頃から変わらない純粋な思いだった。そんなレブロンの子ども時代の思いがわかると、「23」をつけることがどれだけ大事なことなのかも理解できる。

「最初に23をつけたのは、AAUでプレーし始めた5年生のときだったと思う。その1年前にバスケットボールを始めたときから、ずっと23をつけたかったんだ。高校に入ってからは、最初の年は1年生には新しいユニフォームがなかったから、余っている番号で見つけるしかなかった。2年になって新しいユニフォームをもらえるようになって、それからはずっと23をつけている」

 別なときには、こうも語っていた。

「マイクがいたから、僕はこの番号をつけるようになった。バスケットボールを好きになったのもマイクがいたから、彼の活躍を見たからだった。子どもの頃にマイケル・ジョーダンを見たら、まるで神さまを見たようなものだった。だから、マイクのようになれるなんて思ったこともなかった」

なぜレブロンは「23」を返上しようとしたか

 それだけ「23」にこだわっていたレブロンが、ジョーダンに敬意を表して「23」を返上しようとしたことがあった。2009年、ジョーダンがバスケットボール殿堂入りした直後のことだ。ジョーダンが試合を見に来ていたこともあって、試合後にレブロンは、メディアを前に「ジョーダンの23番はリーグ中で永久欠番になるべきだ」との持論を語った。

「マイケル・ジョーダンはバスケットボールに多くの貢献をしてきた。何らかの形でその功績を称えるべきだ。マイケル・ジョーダンがいなければ、レブロン・ジェームズもいなかったし、コービー・ブライアントもいなかった。ドウェイン・ウェイドもいなかった。この10年の間にトッププレイヤーだった選手たちは誰もいなかった」

 結局、レブロンのこの主張はリーグでそれほど賛同を集めることができず、リーグ全体の永久欠番にはならなかった。レブロンも、「23」が永久欠番だったヒートでプレーしていた4シーズン以外は、結局「23」をつけ続けている。おそらく、ユニフォームの「23」の数字を見るたびに子どもの頃の気持ちを思い出し、ジョーダンに感謝しながら──。

文=宮地陽子

photograph by Yoshihiro Koike/Yukihito Taguchi