雑誌「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」を紹介します。今回はトライアウトに関する3人の言葉です。

<名言1>
1度目の戦力外と、今回は違いましたね。めちゃくちゃ、きつかったです。
(久保裕也/NumberWeb 2017年5月11日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/828034

◇解説◇
 抑えの効いた切れのある速球と多彩な変化球が持ち味だった久保。木佐貫洋とともに2002年ドラフトの自由獲得枠で巨人に入団すると、先発、中継ぎ、抑えと原巨人のブルペンを大車輪で支えた、松坂世代の知性派投手だ。

 特に2010年にはセ最多登板となる79試合で32ホールド、翌2011年には21ホールド20セーブ、防御率1.17という素晴らしい成績を残した。

 しかしその翌年から成績が下降すると、2015年限りで巨人から戦力外通告を受ける。この時はDeNAが獲得に手を挙げて入団したものの、わずか1年で再びの戦力外通告を受けた。2年連続で“クビ”を宣告されてしまえば、どれだけ実績を残した選手だとしても精神的なダメージは大きいだろう。

 その時点で久保は36歳。現役生活にひと区切りつけてもおかしくないだろう。しかしDeNA時代の同僚で、同じ松坂世代の後藤武敏の「絶対おれはあきらめない。チャンスがある限り頑張り続ける」との言葉に突き動かされ、トライアウトの舞台に挑んだ。

「妙な緊張感がありました。これですべてが終わってしまうんじゃないか、とにかく結果出さなきゃ、という……。ロッカーが他の選手と一緒なので、いろいろ話をしたりして。いや、僕から見るとすごくいい投手が多かったんですよ。なんで戦力外になったの? なんて話をしてました」

 結果は打者3人に対して、被安打1。その時点では声がかからなかったものの、翌年2月に楽天にテスト入団する。そこで「手応えは……まったくなかったですね」と語っていた久保を救ったのは故・星野仙一球団副会長だった。

「合格だ」

 若手投手の見本にもなってほしい――その思いを込めた一言に、久保は涙が出るほど喜んだという。久保はその後、一度は育成契約になった期間もあったが、2017〜19年と3年連続で20試合以上登板するなどいぶし銀の働きを見せ、2020年限りでの現役引退を発表した。

 トライアウトを経て、ピッチャーとしての野球人生をまっとうしたのである。

<名言2>
育成でもなんでもいいんで、もう1回NPBに戻りたいです。
(佐藤貴規/NumberWeb 2015年11月25日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/824590

◇解説◇
 新庄剛志のトライアウト挑戦でも話題になったが、トライアウト後、NPBでの現役続行もしくは復帰に向けての審判期間は「1週間」だといわれている。その期間で連絡が来なかった選手の気持ちを慮れば、あまりにも切ない。それでも「翌年のトライアウト」までモチベーションを持続させたのは、貴規である。

 貴規は2020年のトライアウトを受験した由規の弟である。2010年の育成ドラフトで、当時兄が所属していたヤクルトに育成選手契約で入団した。ネットでは「兄貴のコネで入団した」という陰口があった中、2012年と14年には二軍ながら打率3割をマークするなどバッティングに光るものを見せた。ただし課題の守備のスローイングが安定するどころか“投球恐怖症”となってしまった結果、2014年限りで戦力外通告を受けた。

 その年のトライアウトを受けて野球にひと区切り――となるはずだった貴規だが、2015年、当時BCリーグに新規参入した福島ホープスへの入団を決断した。

「野球をやらないと申し訳がなくて」

 こう言った貴規の原動力は、兄の存在だったという。当時の由規は右肩のリハビリに取り組んでいる真っ最中だったが「諦めるな」との涙の説得に引退を翻意したのだ。

ⒸGenkiTaguchi

 迎えた1年後のトライアウト、貴規は4安打を放つ活躍を見せた。その翌年も3度目のトライアウトに挑戦したものの、声がかかることはなかった。それでも兄からの励ましで、野球を長く続けられたことは確かだ。

 なお現在の貴規は野球用品販売会社で働きつつ、同社のYouTubeチャンネルで“ユーチューバー”となったという。

<名言3>
(母と妻に)いい報告が出来るようにと思って、マウンドに立っていました。
(西川健太郎/NumberWeb 2016年11月15日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/826898

◇解説◇
 トライアウトは現役生活を模索する場であるとともに、多くの選手にとって「現役最後の舞台」となる。その多くが20代前半の若手であることも現実である。これほどまでにプロの世界の厳しさを実感するものはない。

 アマ時代に高く評価された選手でも、プロの世界で結果を残せなければ戦力外通告の憂き目にあう。西川は名門・星稜高校で1年秋からエースとして君臨。甲子園の舞台こそ踏めなかったものの、140キロ台後半のストレートなど将来性を買われ、2011年ドラフトで中日に2位指名された。高卒1年目から一軍登板の機会が与えられると、2年目には阪神打線相手に7回1安打の好投でプロ初勝利を挙げるなど、順調に成長していくかと見られた。

 しかし3年目以降はケガなどもあって出番が減ると、2015年の「6試合 1勝 防御率3.68」というシーズン成績が一軍最後の数字となった。

 2016年限りで戦力外通告を受けた西川。当時23歳という年齢もあって、12球団合同トライアウト参加を決断。もともとのオーバースローに戻して挑んだ。「最速は141キロでした。久しぶりに投げたことを考えれば、まずまずだったと思います。ストレートが魅力と言われてこの世界に入った投手です。だから最後の1球はどうしても真っすぐで勝負したかった。(中略)悔いのない選択をしたと自分では思っています」と、自分のピッチングができたと語っている。

 スタンドでは故郷・石川から駆け付けた母が名前を叫びながら声援を送った。一方、1つ年下の若妻は名古屋の自宅にいた。12月下旬には第1子が誕生する予定で、自宅から祈っていたという。

 結果として、西川に現役選手として声をかける球団はなかった。しかし、恩情を見せたのは古巣の中日だった。

 トライアウト直後に、中日は打撃投手への転身を打診した。そして2016年11月24日、西川は打撃投手として正式に契約している。チームを支える“裏方”として、今もなおプロ野球の舞台を支えているのならば――彼の野球人生は、現在進行形で進んでいるといってもいいのだろう。

文=NumberWeb編集部

photograph by Nanae Suzuki