ブラジルの名門クラブが、そこから巣立って欧州ビッグクラブを渡り歩いたかつてのスター選手を帰還させようとした。ところが周囲の猛反対に遭い、彼がピッチに立つ前に契約解除を余儀なくされた――。
1990年代に三浦知良、前園真聖もプレーしたサントスが10月10日、レアル・マドリー、マンチェスター・シティなどでプレーした元ブラジル代表FWロビーニョの復帰を発表した。

しかし、彼はACミラン在籍中の2013年にミラノ市内で集団での婦女暴行に加わった容疑で2017年、イタリアの裁判所による第一審で9年の実刑判決を受けている(現在、控訴中)。
サポーターや女性権利擁護団体などが「そんなおぞましい選手を入団させるな」と強く抗議し、スポンサーの多くも「契約を取り消さなければ、スポンサー契約を打ち切る」とクラブに圧力をかけた。
当初、サントスの会長は「まだ有罪が確定したわけではない」とロビーニョを擁護していた。
「関係を持ったのは事実だが……」
しかし、あるメディアがイタリアの裁判所が有罪判決の決め手としたという彼と共犯者とされる男の会話記録(ロビーニョが「あの女は泥酔していて、何が起きたかなんて覚えていないよ」などと語った)をすっぱ抜いた10月16日、「本人と合意の上で、契約を“凍結”する」と発表。ロビーニョは「非常に残念だが、クラブに迷惑をかけるのは本意ではない」とコメントした。
その一方で、「この女性と関係を持ったのは事実だが、合意の上だった」とし、「自分の無罪を証明する」と言明している。
ペレ以来の天才と噂された若き日
ロビーニョは、サントス郊外の貧しい家庭に生まれた。フットサルで技術を磨き、12歳でサントスの下部組織へ。圧倒的なスピードと驚異的なテクニックを生かしたドリブルでマーカーを翻弄し、クラブ関係者の間で「ペレ以来の天才」と噂された。
評判を聞いて練習場へやってきたペレが、「これまで“ペレ二世”と呼ばれた少年は何人もいたが、彼は本物だ。プレースタイルから風貌まで、私の若い頃にそっくり」とお墨付きを与えた。
2002年、18歳でトップチームへ昇格すると、たちまちレギュラーに。翌年にはブラジル代表に招集された。
ブラジル中の少年の憧れとなり、後にやはりサントスで頭角を現わしたネイマール(現パリ・サンジェルマン)も「子供時代の憧れはロビーニョだった」と繰り返し語っている。

マドリーの10番を背負うもその後は
2005年、21歳のときに当時としては破格の移籍金2400万ユーロ(約30億円)でレアル・マドリーに迎え入れられ、背番号10を与えられた。
しかし、「白い巨人」では調子の波が大きく、監督との軋轢もあって、主力にはなれなかった。3年後、マンチェスター・シティへ移籍したが、ここでも素行上の問題などから力を出し切れない。ブラジル代表でも2006年と2010年のワールドカップ(W杯)に出場したが、顕著な活躍はできなかった。

2010年以降は、ACミランを経て中国、ブラジル、トルコなどのクラブを渡り歩く。今年8月にトルコのクラブを退団し、母国へ戻ってきたところだった。
すでに36歳。ピッチ外のトラブルがあまりにも多く、選手として大成できなかったばかりか、現在、極めて厳しい状況に置かれている。
「いずれ世界一の選手に」と期待され、自らもその夢を目指しながら実現できなかったブラジル人選手は、ロビーニョだけではない。
「ロナウドの再来」パトも無所属
アレシャンドレ・パトは、華麗なテクニック、ずば抜けたスピード、抜群の決定力から「ロナウドの再来」と謳われた。
ブラジル南部の名門インテルナシオナルの下部組織出身。2006年11月、17歳2カ月でデビューし、試合開始直後に初得点。その翌月、世界クラブW杯に出場し、準決勝のアル・アハリ(エジプト)戦の前半に先制点を叩き出す。決勝のバルセロナ戦にも先発し、優勝に貢献した。
2008年3月、ブラジル代表に初招集されてスウェーデン代表との強化試合に途中出場すると、鮮やかなロングシュートを決めた。
その前年夏には移籍金2400万ユーロ(約30億円)でACミランへ移り、背番号7を与えられる。そして、すぐにゴールを決めてレギュラーに。絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーで、「久々の超大型ストライカーが出現した」と騒がれた。

しかし、彼の場合は度重なる故障がすべてを台無しにした。
2008年以降は足首、太もも、鎖骨などの怪我を繰り返し、2011-12年以降はプレー内容が急低下。2013年以降、ブラジル、イングランド、スペイン、中国などのクラブを渡り歩いたが、20歳前後の頃のような輝きは二度と戻らなかった。
昨年3月、サンパウロへ移籍したが、今年8月に退団。9月に31歳になったが、10月中旬現在、所属クラブがない。
ネイマールとともに期待されたガンソ
パウロ・エンリケ・ガンソは左利きのテクニシャンで、状況判断が素晴らしく、相手守備陣のわずかな隙を突いて絶妙のスルーパスを繰り出すかと思えば、自らもミドルシュートを叩き込む。
15歳でサントスの下部組織に加わり、2008年、18歳でデビュー。すぐにレギュラーとなり、2009年以降、2歳年下のネイマールと共にサントスの攻撃の主軸となった。

2人は2010年W杯出場が期待されたが、当時のドゥンガ監督は「才能は素晴らしいが、まだ経験不足」として招集を見送った。その際、国民の多くがとりわけ落選を惜しんだのはガンソの方だった。
2010年W杯終了後、ネイマールと共にブラジル代表に初招集され、「今後10年、セレソンの中盤を担う男」と言われた。
ガンソもまた、故障に泣かされた
しかし、パトと同様、彼も故障に泣かされる。2007年に右膝の十字靭帯を断裂したのに続いて、2010年には左膝の十字靭帯を断裂。その後も太ももやふくらはぎの肉離れなどの故障を繰り返し、持ち前のテクニックと創造性を発揮できない。このため、欧州ビッグクラブからのオファーはことごとく破談となった。
2016年、26歳でセビージャへ移籍したが、やはり故障のため継続して試合に出場できなかった。

昨年1月にブラジルへ戻ってフルミネンセへ入団したが、控えに甘んじている。今月、31歳になった。
「世界一の選手になれる」期待値からは
20歳前後の頃、ロビーニョへの評価は同年代のネイマールより上だった。パトへの期待も、現在、欧州ビッグクラブで活躍するロベルト・フィルミーノ(リバプール)、ガブリエル・ジェズス(マンチェスター・シティ)らよりはるかに高かった。
またガンソも、リバウド(1990年代から2000年代にかけてバルセロナ、ACミランなどで活躍し、1999年の世界年間最優秀選手)、カカ(2000年代から2010年代にかけてACミラン、レアル・マドリーなどでプレーし、2007年の世界年間最優秀選手)以上の素材とみなされていた。
3人ともブラジル代表に招集されており、選手として全く成功できなかったわけではない。しかし、「世界一の選手になれる超逸材」という熱い期待に応えることはできなかった。
彼らが伸び悩んだことは、近年のW杯におけるブラジル代表の成績にも大きな影響を及ぼしたはずだ。
もし彼らが順調に成長していたら
もしパトとガンソが順調に成長し、セレソンでネイマールと共に攻撃の主力を担っていたら、2014年と2018年の大会におけるブラジルの成績は全く違っていたのではないか。

彼らが潜在能力を十分に開花させられなかったことは、ブラジルのみならず世界のフットボールにとっても大きな損失だった。
とはいえ、才能豊かな選手が伸び悩む一方で、それほど期待されていなかった選手が大化けすることがある。それも、フットボールの魅力の1つなのかもしれない。
文=沢田啓明
photograph by Kaoru Watanabe(JMPA)/Naoki Ogura(JMPA)