<名言1>
今だけ良くてもダメなんです。これをずっと続けないと。来年も、再来年も。
(佐藤寿人/Number816号 2012年11月8日発売)
浦和レッズの失速により、サンフレッチェ広島とベガルタ仙台の一騎打ちとなった2012年のJリーグ。リーグ創設時に参加した“オリジナル10”のチームで唯一、3大タイトル(Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯)を得ていなかった広島は、第33節セレッソ大阪戦での勝利で悲願の初タイトルを獲得。そのチームを牽引したのが佐藤だった。
第25節で首位の座を奪い返したことで「いよいよ優勝へ」というムードも漂う中、稀代のワンタッチゴーラーは自分を戒めることでチームを引き締めた。シーズンが終わってみれば、自身初となる得点王に輝いたほか、最優秀選手賞、フェアプレー賞、ベストイレブンと個人タイトルを総なめ。広島の初タイトルは佐藤の活躍なしには成し遂げられなかっただろう。現状に決して満足しないマインドはチームに根付き、翌年もJリーグを制している。

大久保嘉人に次ぐJ1通算161得点
2020年12月26日、プロ生活21年を終えたタイミングでスパイクを脱ぐことを決断した佐藤は、引退会見で「幸せでした」と振り返っている。
身長170センチと小柄ながら、裏に抜け出す動きとラストパスへの嗅覚鋭い反応でゴールを量産。積み重ねたゴールの数は220、J1通算161得点は大久保嘉人に次いで歴代2位の数字だ。04年から15年に至ってはJ史上初の12年連続2桁得点を記録するなど、アベレージの高いゴールゲッターだった。
ここまでの長きにわたって数字を残せたのは、どんな時も驕らず愚直にゴールを追い続ける謙虚な姿勢があったからだろう。ストライカーの仕事は、ゴールを決め続けること――矢印を常に自分に向ける姿は後続のFWに大きな指針を与えた。
<名言2>
若手に言いたいことを言わせてもらっている分、僕も自分にプレッシャーをかけてます。
(岩下敬輔/NumberWeb 2020年12月4日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/846100
スマートなルックスとは裏腹に、激しすぎるプレーで物議を醸すこともあった岩下。しかし、選手たちやサポーターからは「兄貴」として愛されたキャラクターだった。
岩下がガンバ大阪に期限付き移籍で加わっていた2012年、チームは初のJ2降格の憂き目を見た。遠藤保仁ら仲間たちが涙に暮れたピッチに岩下の姿はなく、累積警告による出場停止でチームの力になれなかったのだ。
降格直後は「代表復帰のためにもJ1でやりたい」と公言したものの、実際は翌年も「完全移籍」という形でチームに残った。
「『残留への力になってほしい』と言われておきながら、力になる権利さえなく、降格の瞬間もピッチに立てていなかったことに、サッカー選手として悔いが残っていました」
当時は在籍わずか4カ月だったが、義理堅い岩下らしい決断だった。
岩下がピッチで見せたもの
遠藤や明神智和ら背中で引っ張るタイプが多かったチームにおいて、岩下の喜怒哀楽は後輩たちにとって新鮮に映ったのだろう。時に罵声を浴びせながら鼓舞することもあったというが、自陣のゴールでは体を張って鬼神のごとく立ちはだかった。だから、4年間在籍したガンバでは宇佐美貴史、大森晃太郎など年下の選手に慕われた。

お世辞にもクリーンなCBだったとは言い難いプレーヤーだったが、そのファイティングスピリットは仲間たちに伝わっていた。
<名言3>
なぜ聞きに来てくれなかったのか。ミスをしたときこそ、聞きに来てほしい。
(曽ケ端準/NumberWeb 2020年12月24日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/846413
常勝軍団・鹿島アントラーズのゴールマウスを守り続けてきた曽ケ端。23年間で掴んだタイトルの数は「17」。史上初の3冠、3連覇、クラブ悲願のアジア制覇……アントラーズの栄光は、曽ケ端とともに築かれてきたといっても過言ではない。
Jリーグ初出場はプロ2年目。同期の小笠原満男、中田浩二、本山雅志が先に出番を得るなか、デビュー戦で完封勝利を挙げている。そこから日本代表にも選出されるなど順調に階段を登り、鹿島でも不動の守護神として活躍。17年の韓国代表クォン・スンテ加入以降、ベンチを温める機会も増えたが、再びポジションを奪い返すなど、後輩たちにもその背中で刺激を与え続けた。

“それでも聞くのがプロの仕事でしょう”
そんな曽ケ端の凄みを表すエピソードがある。自身のミスで敗れた試合後のミックスゾーンでのこと。たった一度のミスが失点に直結するポジションであるGKなのだから、重圧から下を向いてもおかしくはないが、それでも曽ケ端は“いつもと変わらず聞いてほしい”と質問を求めたのだ。
「これまで何度もミスをして失点したことはある。でも、取材する人には優勝したり、勝ったときと同じように話を聞きに来てほしい」
話を聞く側も人間。ミスをしたあとであれば、やっぱりどこか聞きにくい。“それでも聞くのがプロの仕事でしょう”。そんなメッセージとして受け取った記者は少なくないという。
常に勝利を求められる鹿島で育った「プロ」としての自覚。日本でもっともタイトルを獲った男から学ぶことは多かった。
文=NumberWeb編集部
photograph by J.LEAGUE