今年の箱根駅伝は、最終盤に劇的な展開が待ち受けていた。
4区5.6kmから143km超に渡って先頭をひた走ってきた創価大が、残りわずか2.1kmでついにトップを明け渡したのだ。最終区での首位交代は、97回の箱根駅伝の歴史で9例目だった。
『最終10区での最後の首位交代は20年前。順天堂大学が駒澤大学を抜いて優勝したのが最後……』
テレビでは、そんな実況で逆転劇が伝えられた。
「“俺だ”って思いましたね。(母校・駒大が)逆転したことよりも、“また言われちゃったな”という思いのほうが強かったです(笑)」
20年前に駒大のアンカーを務めた高橋桂逸さんは、今年の箱根駅伝を家族と見ていた。20年前の逆転劇の当事者が高橋さんだったことを家族はもちろん知っており、そんなアナウンサーの実況に思わず苦笑していたという。
初優勝を喜ばなければいけないのに
高橋さんは進学校の長野高校出身。高校時代に5000m14分27秒1の好記録を持ち、3000m障害でも活躍しており、いくつかの大学から勧誘を受けていた。しかし、高橋さんは一般受験で駒大に進学する道を選んだ。
「その当時、一番勢いがあったのが駒澤でした。やるんだったら一番強いチームでやりたい、という思いがあったので、駒澤に入りました」
高橋さんが駒大に入学したのは、1999年のこと。当時の駒大はまだ箱根駅伝での優勝はなかったが、その前年度は2年連続の総合2位に入っていた。藤田敦史、佐藤裕之の二枚看板とは入れ違いだったが、高橋さんの同期には松下龍治、布施知進、島村清孝、松村拓希といった力のある面々がおり、初優勝への機運が高まっていた。
そして、実際に、高橋さんの1年時に駒大は初優勝を果たした。ちなみに、当時キャプテンを務めていたのが、現・國學院大監督の前田康弘氏だ。今年の箱根駅伝で駒大の大八木弘明監督は3人のルーキーを起用したが、実は初優勝時にも3人の1年生が走っていた。しかし、そのメンバーに高橋さんの名前はなかった。
「箱根を走った同期に“負けない”という気持ちで走っていたので、メンバーになれなかったことは、すごく悔しかったです。本当は優勝を喜ばなきゃいけないんだと思うんですけど」
歓喜の瞬間、高橋さんは寮に一人残って電話番をしていた。チームの快挙も、高橋さんには悔しい思い出として残った。
不安を拭えぬまま、翌年ついに憧れの箱根駅伝に
その1年後、2年生になった高橋さんは力を付け、今度は10区にエントリーされた。前回1区3位と好走し初優勝の立役者になった島村が故障で箱根に間に合わなかったという事情もあったが、ついに憧れの舞台に立つ権利を手にした。
ところが、レースまで1週間を切ってから、高橋さんは体調を崩した。腹を下し、寝込んだ日が1日あり、万全な状態で本番を迎えることができなかった。
「あの年は、コマが揃っていなくて、たぶん10番目が僕だったんです。大八木さん(当時コーチ)も、年末ギリギリまで決めかねていたと思うんです。僕にタスキが渡るまでに勝負を決めて、最後はなんとか逃げ切ろうという作戦でしたね」
最後まで不安は拭えなかったが、高橋さんは2001年の第77回大会を走ることになった。
3区間連続区間賞、トップで襷を受け取った
当時は、駒大と順天堂大が二強。前回覇者の駒大の連覇か、出雲、全日本を制した順大が大学駅伝三冠を成し遂げるか、そのライバル対決は“紫紺対決”などと呼ばれ注目を集めていた。
先行逃げ切りを狙っていた駒大だったが、3区までは順大にリードしていたものの、4区で逆転を許すと、往路を4位で折り返した。往路1位の中大には2分24秒、ライバルの順大には2分16秒の差を付けられていた。高橋さんまでに大きな貯金を作るプランだったが、早くも黄信号が点っていた。
「往路のことはあまりよく覚えていないんですけど、4区を走った松村があまり良くなかったので、松村から“頼む”と言われたような記憶はあります。あとは、自分がいかに走るかということだけを考えていました」
復路では、6区を終えた時点で、順大との差が3分8秒にまで広がっていた。
ところが、7区から駒大の快進撃が始まる。7区、8区、9区と3区間連続区間賞で、9区ではついに順大をとらえて先頭に躍り出た。
「8区でだいぶ差を詰めていたのは、なんとなくテレビで見ていました。9区の高橋(正仁)さんが抜きそうだというのも聞いていましたが、あとは自分がしっかり走ることに集中しようと思っていました」
大八木「追い付かれてから、付いていけ」
順大のアンカーは4年生の宮崎展仁で、これが3回目の10区だった。2年前には区間賞の走りで優勝のゴールテープを切っており、10区を知り尽くしている実力者だ。
高橋さんは、その宮崎よりも17秒先に鶴見中継所をスタートした。大八木が「10区に渡るまでに2分は欲しかった」と後に振り返ったように大差があったわけではなかったが、ともかく先頭で襷を受け取った高橋さんは走りだした。
しかし、3.4km。六郷橋の下りにさしかかったところで、早くも高橋さんは追いつかれてしまう。
「早い段階で追いつかれるのは予想通りだったんですけど、予想以上に自分の体が動いていなかった。調子が悪かっただけでなく、浮き足だって、最初の1kmが速かったんですね」
大八木コーチからは“追い付かれてから、付いていけ”という指示を受けており、しばらくは宮崎の後ろに付いて走っていた。だが、京急蒲田の踏切を越えた6km過ぎに置いていかれた。これで勝負は決した。
「やっちまったなあ、やっちまったなあ」
今であれば大八木の檄が飛んでくるところだが、当時は1校に1台の運営管理車があったわけではなく、各校の監督、コーチは複数人ずつバスに同乗していた。蒲田から大手町までの17kmは、沿道の声援こそあったが完全に一人旅になった。
「カメラ車がいたかどうかも記憶にないんですけど、前も後ろも離れていたので、本当にぽつんと一人で走っていました。“やっちまったなあ、やっちまったなあ”と、頭の中はそればっかりでしたね。自分の脚が動いていなかったので、後ろの中大に追い付かれるかもしれないという恐怖とも戦いながら走っていました」
結局、高橋さんが大手町に辿り着いたのは、順大の歓喜の瞬間からは約3分後のことだった。

「大八木さんは昔からあんな感じでしたよ」
レース直後こそ、チームメイトに対して申し訳なく思う気持ちがあったが、数日間の帰省期間から戻ってくるとそんな気まずさは解消されていた。
「他のメンバーにもやらかした者がいたので、分散されたんですかね。僕が一番やらかしていますけど(笑)。
大八木さんからは“あんなことになってしまったんだから、もっと頑張れ”という叱咤激励はありましたが、優しかったですよ。自分のために言ってくれましたし、怒られるということもありませんでした。
今の大八木さんは“以前とは変わった”と言われますが、僕から見れば昔からあんな感じでしたよ。言っていることもそんなに変わらないですし(笑)」
連覇を逃したその翌年から、駒大は“平成の常勝軍団”と呼ばれるほど快進撃を続けた。箱根駅伝では4連覇を成し遂げた。しかし、高橋さんが箱根路を駆けたのはあの一度きりだった。
「僕自身、箱根駅伝を目指してやってきた部分が大きかった。あんな走りをしたら、他の人だったら“なにくそ!”と思うんだと思いますが、僕はそこまでの気持ちにはならなかったんです」
それでも、大学卒業後には実業団の愛三工業に進み、マラソンに打ち込んだ。さらに、現役を引退した今は愛知県庁のスポーツ局に勤め、名古屋ウィメンズマラソンの運営に携わっている。これまでの高橋さんの人生は、走ることと共にあると言っていい。
20年ぶりの10区逆転を許した創価大・小野寺へ
「現役で走っている時は、箱根はあんまり良い思い出ではなかったですね。毎年のように箱根駅伝の中継ではCMに入る時に、僕が抜かれるシーンが放映されましたし。7年前に取材を受けた時に当時の映像を見ましたが、正直あまり良い気分ではありませんでした(笑)。今見ても、たぶん悔しさが湧き起こってくると思います。
ただ、ほんとに皆さん、箱根駅伝が好きで、僕が抜かれたことをご存じの方もけっこういらっしゃるんです。あんな結果でしたけど、どこに行っても“すごいね”と言ってくださる方がいます。もしかしたら7年ぐらい前までは引きずっていたのかもしれないですけど、今となっては、そんなに嫌な思い出ではないですね」
高橋さんは努めて明るく当時を振り返ってくれたが、この20年の間には逆転を喫した当事者にしか分からない苦悩を思い起こすこともあったのだろう。
そして今年、20年ぶりに最終区で逆転劇が起こった。今回、先頭を奪ったのは母校の駒大だったが、20年前の自分と同じ状況になった創価大の10区・小野寺勇樹の気持ちも、高橋さんは慮った。
「今はつらいし、つらいことが当たり前だと思います。でも、10年経てば、良い思い出になるよ、ということを小野寺君には伝えたいですね」
高橋さんは、そんなシンプルな言葉を、小野寺へのエール代わりとした。

文=和田悟志
photograph by L:Sankei Shimbun R:Yuki Suenaga