昨年秋に上梓した『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)の取材過程において、筆者は主人公野口修の口から、多くの人物の知られざる一面を聞いた。父親の野口進や“戦後最大の黒幕”児玉誉士夫。“ゴッドハンド”大山倍達。“キックの鬼”沢村忠や“国民的歌手”五木ひろしの前半生も興味深いものがあった。

 その中において、責了後なおも筆者の関心を惹いて止まなかったのが、野口修が少年時代に出会った嘉納健治である。

射撃の名手「ピス健」=嘉納健治とは何者か?

 大正から昭和前期にかけての神戸の大物やくざにして「ピス健」と呼ばれた射撃の名手。野口修の父・野口進も所属した大日本拳闘会の会長。前稿でも詳述したように、日本に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた功労者の一人でもある。

「戦後の一時期、御影のピス健の家に家族四人居候していたことがあった。『遠慮せんと食え』って、戦後すぐなのに肉から魚から腹一杯食わされてさ。いつもは威張っている親父も平身低頭。『偉い人だなあ』って思っていたね」(野口修 ※同書より抜粋)

 野口修にとって嘉納健治とは、少年時代に劇場や賭場に連れて行ってくれた、記憶の断片にあるだけの人物である。しかし、取材を進めるにつれて、日本のボクシング史、格闘技史、芸能史的にも看過できない人物かもしれないと思い至った。

 嘉納健治とは何者なのか。実家である嘉納家とはいかなる家だったのか。そしてそれは、現在の柔道競技やボクシングに何をもたらしたのか、改めて振り返ってみたい。

菊正宗、白鶴酒造、灘中…嘉納財閥に現れた“異端の男”

 日本酒の生産地、灘五郷の一つ、御影郷(現在の神戸市東灘区御影地区)。ここは、業界大手の老舗、菊正宗酒造と、業界最大手の白鶴酒造が創業から現在に至るまで本拠地を構える日本有数の酒所である。

 二つの老舗メーカーを経営するのは神戸指折りの名家である嘉納家で、菊正宗が本家(本嘉納)、白鶴が分家(白嘉納)となる。

 嘉納家の歴史は古い。

 14世紀、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇が、福原(現在の神戸市兵庫区福原町)上陸後、神功皇后以来の由緒ある御影の地に立ち寄った。その際、霊泉「澤乃井」の管理者より泉から造った酒を献上される。喜んだ天皇はこの管理者に「嘉納」の姓を授けた。「褒め喜び納める」という意味で、名家の起源と酒造業を始めた由来はここにある。

 幕末期には海運事業でも財をなし、勝海舟のパトロンとなった嘉納治郎作が神戸と西宮に砲台を建設。この治郎作は明治政府に出仕し、海軍権大書記官を拝命する。

 八代目当主の嘉納治郎右衛門に至っては、菊正宗の経営に加え、土地、建物の投資事業から灘商業銀行(のちの神戸銀行)を設立。黎明期の関西財界を牽引する一方、名門進学校となる灘中学校(現在の私立灘中学校/高等学校)を創設するなど、その働きは嘉納財閥の惣領に相応しい。そして血脈は、政財界、教育界、スポーツ界、文壇にまで列なる。

 そんな、閨閥を絵に描いたような嘉納一族にまったくそぐわない、いたく無頼な人物が現れた。──それが嘉納健治である。

「その昔“ピス健さん”って呼ばれていた人でしょうか」

 1881(明治14)年9月24日、神戸御影に生まれ、博徒、興行師として雷名を轟かせたこのやくざは、正真正銘、名家の嫡流に列なる。七代目当主嘉納次郎右衛門の長女はつが、治一という婿養子との間にもうけた三兄弟の次男として生まれたのだ。

 資料の少ない件の人物の輪郭を把捉しようと、筆者は2015年の夏、神戸まで出向き、東灘区の御影周辺をほっつき歩いては、高齢とおぼしき通行人につぶさに声をかけてみた。空襲と震災の影響から再開発が進み、古い面影の少ない御影一帯だが、阪神電鉄御影駅南口からの阪神高速下、国道43号線までの町並みは、土地柄か今も酒屋が多く、往時の名残も残していた。

「その、嘉納なんやらいう人は、その昔“ピス健さん”って呼ばれていた人でしょうか」

 そう訊き返したのは、見るからに上品な身形をした87歳の老婦人だった。首を傾げながら、昔の記憶を絞り出してくれた。

「私らが子供の頃は、菊正宗のハッピ着たピス健さんの子分が、家を一軒一軒回って、聚楽館(しゅうらくかん)の切符をいっつも配ってましたわ。それで妹を連れて、ようスケートに行きました」

 聚楽館とは1913年、当時の神戸最大の歓楽街、新開地のシンボルとして、小曽根財閥の小曽根喜一郎、「日本のマッチ王」こと瀧川辨三、関西財界の実力者森本清ら、錚々たる顔触れが出資して落成した、鉄筋三階建て、地下一階の西洋建築の劇場である。

 七代目松本幸四郎の歌舞伎公演と、松井須磨子主演、トルストイ作『復活』をこけら落としに据え、以降もロシア・バレエの第一人者アンナ・パヴロワの来日公演や、世界的ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツのコンサート、笠置シヅ子の松竹楽劇団レビュー等々、「西の帝劇」に相応しく、和洋織り交ぜた豪華なラインナップを上演している。

 1927年からは映画上映に経営をシフト。34年には三階に神戸初のスケート場をオープンさせるなど、1978年の閉館まで、昭和期の神戸を代表した娯楽施設である。この聚楽館で催されるすべての興行権を握っていたのが嘉納健治だった。

往年の

「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で本物の実弾込めてた」

 神戸で一番の大会場を押さえていた彼の実力は、次の証言からも窺い知れる。

「ピス健はこの辺を仕切っとった大親分や。今で言うたら山口組みたいなもん。しかし兄ちゃん、なんで、今さらピス健のことなんか調べとんのよ」

 怪訝そうに訊くのは82歳の好々爺である。野口修とほぼ同世代になる彼は、興味深い挿話を捲し立てるように聞かせてくれた。

「従兄が灘中に通っててやな、運動会に行ったらピス健が寄付した景品が山積み。ノートや鉛筆や折り紙な。余った分は子供らで山分けや。それに、ピス健は(大相撲の)玉乃海のタニマチやったから連れて来ててやな、二人三脚とかやらしてたがな。おもろいのは、徒競走のときにピストル撃つやろ。あれ、ピス健の命令で本物の実弾込めてたっちゅう話や」

 名門進学校の運動会で、徒競走の出走に実弾を放つとは、人気コミック『じゃりン子チエ』に出てきそうな展開でつい笑ってしまう。

 これら事の真偽は、今となっては確認のしようもないが、証言から浮き彫りとなる嘉納健治の人物像は、いかにも、昔ながらの土地の豪快な親分である。

拳銃でチンピラに重傷を負わせ…嘉納治五郎に引き取られる

 そんな嘉納健治だが、少年時代から粗暴な振舞いが目立ち、父親が早世すると、東京の医師、高橋家に養子に出されてしまう。厄介払いだったのかもしれない。しかし、船員から貰った拳銃でチンピラに重傷を負わせたため、通学していた獨協中学を放校、高橋家との養子縁組も解消されてしまう。

 そんな無頼な健治を引き取ったのが、二十人ほどの書生を常時下宿させていた講道館柔道創始者の嘉納治五郎だった。嘉納健治の高祖父の五代目次郎右衛門と、嘉納治五郎の曽祖父の初代治作が兄弟という間柄で、健治にとって治五郎は分家の叔父にあたる。

 誕生から一世紀近くも御影の地に住み、御影町誌の編纂にも加わった93歳(2015年当時)の甘玉猛は「健治さんは治五郎先生に頭が上がらんかった。そういう印象ですな。というのも、子供の頃に悪さして講道館に入れられた。それで柔道やらされていたらしいんです」と筆者に明かした。おそらくこれは嘉納塾のことではないか。

 1882(明治15)年2月、嘉納治五郎は全寮制の私塾「嘉納塾」を開いた。塾生は親類や知人の子弟で占められ、以後38年間、350人が巣立っている。放埓三昧の甥っ子がここに放り込まれたのも自然なことで、塾生には柔道実技も必修教科として義務付けられていたというから、健治もそれをこなしていたのかもしれない。

柔道vsボクシングの異種格闘技試合

 このときの柔道実技とは当て身(打撃技)のない乱取稽古と呼ばれるもので、裂傷を避けるために、治五郎と門弟たちで考案した練習用ルールだった。五輪競技や全日本大会、学校の体育科目に見られるスポーツを連想する現在の柔道競技は、実はこの練習用の実技をルーツとしている。

 打撃技のない練習形式と、囲碁や将棋にだけ採用されていた段位制の導入もあって、講道館の入門者は飛躍的に増加した。組織拡大という経営的な観点で見れば、当時の状況は決して悪くない。

 しかし、嘉納治五郎自身は「打撃技も含む柔道競技」の成立を諦めていなかったという話もある。

《嘉納がイメージしていた柔道は、まさに現在の総合格闘技を柔道衣を着てやるものだった。まず離れた間合いから殴ったり蹴ったりという当て身で攻め、あるいは相手の当て身を捌いて相手を捕まえ、それから投げ、そして寝技にいくのが嘉納の理想とする柔道だった》(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著/新潮社)

 そこで気になるのが、甥の嘉納健治の動向である。

 1909(明治42)年5月3日、横浜羽衣座にて行われた、講道館四段の昆野睦武と、イギリス人ボクサーのアリフレッド・ガレットの他流試合を観戦し、その盛況ぶりに魅せられた健治は、自らも柔拳興行の開催を決意。神戸の邸内に国際柔拳倶楽部を開設する。

 この国際柔拳倶楽部が、国際拳闘倶楽部、さらに、大日本拳闘会として後年日本最大のボクシング組織に発展する。「柔拳興行は拳闘興行の前段階にある」という従来の評価に誤りはなく、その証左とも言えよう。

 ただし、そうなるのはもう少し先の話だ。

 なぜなら、嘉納健治の手掛けた柔拳興行が、思いのほか大成功を収めたからである。

(【続きを読む】「打撃のない“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑 へ)

●参考文献
『ボクシング百年』郡司信夫著(時事通信社)
『力道山以前の力道山たち──日本プロレス秘話』小島貞二著(三一書房)
『ザ・格闘技──最強をめざす男たちの世界』小島貞二著(朝日ソノラマ)
『腕力養成拳闘術』岡野波山著(大学館)
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)

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文=細田昌志

photograph by 「ボクシング百年」資料写真