「久しぶりに何の重荷もなく、楽しんで走ることができました。あまり練習をしていなかった分、きつかったですけどね……」

 1月の終わり、早大で駅伝主将を務めあげた吉田匠は「高山ダム駅伝」という地元の駅伝大会に出場した。最後の箱根駅伝を走ることができなかった吉田にとって、11月の記録会以来のレースであり、これが競技者としての引退レースになった。

 参加を勧めてくれたのは、京都・洛南高時代の恩師、奥村隆太郎だ。箱根駅伝を終えて奥村に連絡すると、「走れなかったことは残念だったけど、よく頑張った」という労いの言葉とともに、大学で競技に区切りを付ける吉田の気持ちを慮ってか、「引退試合に出ておかなくていいのか?」と切り出されたという。

「先生が現役を引退した時も、ケガとかがあって、自分の引退試合が何だったのかが分からないままになっているそうなんです。それで“お前はどうなんだ?”みたいな感じで切り出され、“小さい大会でもいいから出ておいたらどうや?”と勧められました」

心の拠り所だった中学時代の陸上部のメンバーに声を

 高山ダム駅伝は京都府南部の南山城村で開催される小さな大会だが、吉田には思い入れがある大会だった。高校1年時の第1回大会で2区を走った吉田は区間賞を獲得。その当時の記録は昨年の大会で破られるまで、高校生の部の区間記録として残っていた。

「最初は全然出るつもりはなかったんですけど、記念として、楽しんで走るのもいいかなと思って、中学時代の陸上部のメンバーに声をかけました」

 吉田は緊急事態宣言下の辛い時期であっても、名門校の主将として気丈に振る舞おうと決めており、部員に弱音をこぼそうとはしなかった。そんな時に相談相手として吉田の心の拠り所になっていたのが、この中学時代の仲間だった。

 中学時代には近畿中学駅伝に出場しているが、その時と同じく吉田はアンカーを走った。結果は見事に区間賞。2.6kmと距離は短いが、アップダウンのあるコースを7分19秒と、なかなかのタイムを叩き出した。

ささやかな、思い出深い引退試合に

 余談だが、周回コースで行われるこの駅伝大会で、高校生の部では注目の佐藤圭汰が別格の走りを見せたが、昨年末の全国高校駅伝で3位に入った洛南高のメンバーと比べても吉田は遜色ない走りだった。

「正直、僕もびっくりしました。箱根が終わってからは、3、4回、6〜7kmをジョグした程度だったし、1kmを3分ちょっとのペースでいければいいかなと思っていた程度だったので、意外と動くんだなって。たぶん今までの“貯金”がぎりぎり残っていたんでしょうね。ここからは衰退していくばかりだと思います(笑)」

 吉田の引退試合は、箱根駅伝のような華やかな舞台ではなかったものの、ささやかながら、気心の知れた中学時代の仲間たちとタスキをつなぎ、思い出深いものとなった。

「自分を追い詰めてしまったところがありました」

 今年の箱根駅伝では、主将を務めながらも最後の箱根を走ることができなかった選手が多かった。早大の吉田だけでなく、駒大の神戸駿介、創価大の鈴木渓太、東洋大の大森龍之介(注・16人のチームエントリーから外れたため、箱根駅伝には西山和弥が駅伝主将として臨んだ)、青学大の神林勇太、東京国際大の中島哲平、中大の池田勘汰、日体大の嶋野太海、国士舘大の加藤直人と、実に9校もの主将が出走が叶わなかった。主将としての重責を果たすことと競技を両立させることは、我々が想像している以上に易々とこなせるものではないのかもしれない。

「走れなかった要因はそれぞれの選手で異なると思うんですけど、僕自身は、自分を追い詰めてしまったところが多少なりともありました。キャプテンなのに、走れていない状況がダメだと思っていて、脚が痛くても、少しでも走れるのであれば無理して練習をやってしまっていました。それがどんどん悪い方向にいっちゃったのかなと思っています」

 吉田は前回の箱根後に右スネを痛めると悪循環にはまり、相次ぐケガに苦しんだ。一方で、主将として競技面でもチームを引っ張らなければいけないという焦燥に駆られることもあった。それでも、9月の日本インカレの後は全日本大学駅伝や日本選手権長距離を回避して、箱根駅伝1本に備えてきた。そして、箱根本番に向けて調子を上げていった。

 しかし、吉田にその出番が回ってくることはなかった。1区間約20kmの長丁場の箱根駅伝では誤魔化しがきかない。相楽豊駅伝監督にとっても苦渋の決断だったが、「状態に不安のない10人で戦う」という方針を優先させ、最終的には吉田は10人の出走メンバーから外れることになった。

「通告があったその日はけっこうつらかった」

「復路を走るつもりでいたので、前日(1月2日)が一番走る気まんまんでしたね。でも、昼ぐらいに通告があって……。両親には、気持ちの整理をしてから、夕方になって伝えました。その日はけっこうつらかったですね」

 吉田は10区10km地点で給水係を務めることになった。

「やれることは少なかったですけど、しっかり最後まで戦おうって気持ちを切り替えました。走っている時は声をかけることに夢中だったんですけど、後になって“給水だけど、一応箱根路を走れたんだな”という感慨がありました」

 最後の箱根路はわずか数十メートルだったが、後輩の山口賢助(3年)に力水を手渡し、激励した。正選手として走ることは叶わずとも、主将としての役割を全うしたと言っていい。

山口 (C)Yuki Suenaga

「辛かったけど1年間頑張って良かったな」

 吉田の4年間。箱根駅伝を走ったのは、前回大会5区の1回だけだった。だが、箱根以外の活躍に目を向けると、得意の3000m障害では、2018年のU20世界選手権で5位に入るなど輝かしい成績を残している。早大卒業後は銀行マンとして新たな人生を歩むことになるが、吉田の引退を惜しむファンもきっと多いのではないだろうか。

2018年U20世界陸上 男子3000m障害

「トータルで見れば、箱根も走ったし(前回5区15位)、世界大会も経験できたし、いろんな経験ができて、良い4年間だったなと思います。それだけに、4年目が一番結果がよくなくて、尻すぼみになってしまった。悔いが残る終わり方をしてしまいました。でも、これまでが良いことの方が多かった分、最後に辛いことを味わったのは、社会人になってから絶対に生きることがあると思う。そういう意味では、辛かったですけど1年間頑張って良かったなと思っています」

 悔しさを走りで晴らすことはできないかもしれないが、吉田はすでに前を向いている。

文=和田悟志

photograph by AFLO