プロ野球で年間最も活躍した先発完投型投手に贈られる「沢村賞」。その由来となったのは伝説の天才投手、沢村栄治だ。夢見た慶應義塾大学進学を断念して野球選手になった彼は、親族の借金や度重なる徴兵に苦しみ、27歳の若さで戦死した悲運のエースでもある。
そんな沢村栄治の一生を綴った『沢村栄治 裏切られたエース』(文春新書)より、1937年の大阪タイガース戦をもとに、現代のメジャーリーグ最高峰の投手などと比較しながら、沢村の“脅威の速球”について検証した一節を抜粋する(全2回の1回目/#2はこちら)。

 1937(昭和12)年の職業野球リーグは、前年より1チーム増えて8チームで争われることになった。この年の1月に、株式会社後楽園野球倶楽部が創立され、新球団・後楽園イーグルスが誕生したのである。

 イーグルスの初代監督には、大阪タイガースの監督の座を石本秀一に追われた森茂雄が就任し、名古屋軍から前年秋季大会の首位打者である中根之、アメリカ国籍の名捕手バッキー・ハリス、日系アメリカ人の高橋吉雄らが入団した。

 きりのよい8チームとなったこの年のペナントレースは、春季と秋季の2シーズン制で争われることになり、春季リーグ戦は3月から7月までの4カ月間にわたって各チームが8回総当たりの56試合を戦い、その勝率で優勝を争う方式になった。

打倒巨人、打倒栄治で結束した大阪タイガース

 春季リーグ戦の本命は、打倒巨人、打倒栄治で結束した大阪タイガースだった。チーム作りを担当するゼネラルマネジャー、そして現場でチームを指揮する監督、この両面で傑出した能力を持つ石本率いる大阪タイガースは、巨人に敗れて2位に終わった前年秋から今春にかけて大量10選手を補強していた。

 その中で即戦力としてもっとも注目されたのが、関西大学のエースで同校のリーグ戦8連覇の立役者となった西村幸生(1977年野球殿堂入り)だった。

 関西で無敵を誇った西村は、東京に乗り込むや“レベルの低い関西のことだから”と冷ややかに見ていた東京六大学のチームを次々に破って野球ファンをうならせ、大学ナンバーワン投手の称号を勝ち取っていた。

 栄治と同じ宇治山田の出身で、栄治が卒業した明倫小学校のライバルである厚生小学校を卒業していた。そのため、職業野球の大エースになった栄治に強烈なライバル心を持ち続け、巨人を含む多くの球団の誘いを蹴ってタイガースに入団して打倒栄治に闘志を燃やしていたのだった。

 常勝・石本は、若林、景浦、藤村、藤井、松木、御園生といった、前年秋の時点で既に投打の総合力で巨人を凌駕していたメンバーに、西村ら新人10人を加えた新チームを2月に甲子園に集め、巨人の茂林寺を上回る猛練習を課して徹底的に鍛えあげた。

 合宿の終盤には、甲子園球場のすべての出入り口に内側から鍵をかけて関係者以外の出入りを禁止した上で、天敵の栄治を打ち崩すための特訓を敢行した。球の速い若手の打撃投手を正規のプレートより前から投げさせ、その全力投球の球に振り遅れぬよう打ち込むのだ。この練習の発案者は主将の松木謙治郎で、松木は明大野球部時代に、当時日本一の投手だった早大の伊達正男の速球を打つために同様の練習をした経験があったという。

栄治の負担を軽減する補強はできなかった巨人軍

 一方、タイガースの挑戦を受けて立つ前年優勝の巨人軍の補強は、思うように進まなかった。この年の目玉である関西大学の西村投手をタイガースにさらわれ、台湾の嘉義農林から俊足の呉昌征(1995年野球殿堂入り)、下関商業出の好守の平山菊二を獲得したのが目立つ程度で、栄治の負担を軽減する投手の補強は皆無だった。

 わずかな希望は、身長191センチの大型投手スタルヒンがようやく力をつけつつあることだったが、その一方で大日本東京野球倶楽部以来のメンバーだった畑福俊英投手が、新球団後楽園イーグルスに移籍していった。

 結局巨人軍は、栄治、スタルヒン、青柴憲一に、野手兼任の前川八郎という前年を下回る顔ぶれの投手陣で新たな年のリーグ戦に臨むことになり、右肩の痛みが癒えず、心に鬱積を抱えた栄治が前年同様大黒柱となって、大補強で投打に厚みを増したタイガースと対峙することになったのである。

沢村栄治 ©Kyodo

試合開始のサイレンが鳴っている間に一死をとる栄治

 3月26日、春季リーグ戦が上井草球場で開幕した。

 大会3日目に登場した巨人軍は、対名古屋金鯱戦の先発のマウンドに当然のようにエース沢村栄治を送った。この開幕戦の4日前に「私は野球を憎んでいます」と父宛の手紙に書いた栄治は、そんなそぶりを周囲にはまったく見せず、3対0と名古屋金鯱を完封してみせた。打たれた安打4本、奪った3振6個、与えた4球2個という安定した投球だった。

 栄治はコントロールがよく、常に打者を攻めてストライク先行で投げ込んでいく。打者は初めから次々とストライクがくるし、追い込まれると栄治の速球とドロップの両方に対応するのが難しいので、初球からどちらかに山を張って打ちにいく。

 そのため、栄治が投げる試合は進行が早く、たいていは1時間15分前後で終わった。試合開始のサイレンが鳴っている間に一死をとることは珍しくなく、まれにはサイレンの余韻が残るうちに二死を取ることもあった。

 当時の職業野球は、1日に同じ球場で2試合、3試合と行うので、観客を飽きさせずにより多くの試合を見てもらうには試合時間を短くする必要があった。誕生したばかりの職業野球連盟は〈プレイ・スピーディー〉、〈学生野球よりも、すべてを早く〉をモットーとして選手たちにハッパをかけていたが、栄治はその点でも職業野球に欠かせない投手だった。

 与四球の少なさ、試合時間の短さから、栄治は現代の投手のようにコーナーを丹念につく投球でなく、ストレート、ドロップともど真ん中を狙ってストライクだけを放るような投球パターンだったと推測される。それでも、多くの打者は栄治の球をまともに前に飛ばすことができなかったのだ。

「真ん中に来たと思えば胸元までホップする」

 5月1日、巨人の本拠地である洲崎球場に大阪タイガースが乗り込んできた。タイガースは、大補強に加えて、この春に敢行した甲子園球場での対沢村の猛特訓で、今度こそは、と自信を持って試合に臨んだ。

 日本一の投手・沢村栄治と、常勝石本が鍛えあげたダイナマイト打線。両雄が激突したこの注目の一戦で、栄治は2度目のノーヒット・ノーランを達成した。11個の三振を奪い、四球の走者を3人出しただけで二塁も踏ませぬ完璧な投球だった。

 栄治を援護する巨人打線は、先発景浦将、リリーフ若林忠志というタイガースの必勝リレーから4点をもぎとり、4対0での完勝だった。

 この試合に出場したタイガースの主将・松木は、

「昨年9月のノーヒット・ノーラン時より遥かに球威があった。球が二段階に浮き上がるような錯覚を受けた。これに目標を置くと、大きく落ちるドロップが打てない」と兜を脱ぐしかなかった。

 同じく7番、三塁手として出場した伊賀上良平は、

「低めのボール球だと見逃せば腰のあたりに浮き上がり、真ん中に来たと思えば胸元までホップする。球の伸びがすごかった」と、こちらも打つ手なしと脱帽している。

 甲子園球場に鍵をかけての猛特訓もむなしく、タイガース打線は再び完膚なきまでの返り討ちにあったのだった。

なぜ、栄治の球がホップすると“錯覚”するのか

 さて、ここで栄治の代名詞ともいえる“ホップする球”について触れてみたい。

 2度目のノーヒット・ノーランをくらった試合で、タイガースの松木は「球が二段階に浮き上がるような錯覚を受けた」と語っている。松木が言うように、この現象はあくまで“錯覚”である。

 現在では、自宅のテレビで簡単にメジャーリーグを代表する速球投手のボールの軌道を見ることができるが、170キロに迫る超速球を投げるヤンキースのアロルディス・チャプマンや、カージナルスのジョーダン・ヒックスの球も、浮き上がりはしない。

 では、なぜ多くの打者が、栄治の球がホップすると錯覚するのか――。現在では、球速や球の回転数を正確に測れるトラッキングシステムがあるので、数字で球質を客観的に分析することが可能になった。

 どんな剛速球投手が投げても、球は重力によって確実に落下する。が、その落下率には投手によって大きな差がある。メジャーリーグでは“球が重力によって自然に落下する場合と比較して、球に加えられた揚力によって何センチ上にいくか”を数値化している。

球をリリースする瞬間“ピシッ”と球を切る音が聞こえた

 野球データ解析サイト「ベースボールギークス」によれば、2019年を通じて、球が自然落下に比べてもっとも上昇したのはアストロズのジャスティン・バーランダーで、その数値は52.3センチ。これはメジャーリーグの平均である42センチより10センチ以上大きい。野球ボールの直径は7センチほどだから、打者が平均的なメジャーの投手の軌道を想定してバーランダーの球を振りにいくと、球はそれよりボール1個半ほど上を通過することになる。思ったよりも上にボールがある。これが、打者から見るとホップしているように見えるのである。

 では、どうすれば落下度の少ないボールが投げられるのか。それには、球速と球の縦回転数が大きな要素になる。創成期の巨人軍の一員だった苅田久徳によれば、同時代の投手のスピードがせいぜい120キロ程度だったのに対して、栄治だけはゆうに150キロを超える速球を投げていたという。それだけでも、落ちる割合ははるかに少なくなるが、それに加えて栄治の球には強烈な縦回転が加わっていたと想像できる。

 栄治が好調なとき、球をリリースする瞬間に“ピシッ”という球を切る音が聞こえたという。これはどの投手にも見られる現象ではなく、筆者が調べた範囲では、第1回日米野球で来日して“見えないボール”を投げたレフティ・グローブと対戦した早稲田の伊達が「パチッという指が球を切る音が聞こえた」と記しているだけだ。

 栄治は、右手首を内側に曲げて中指を手首にピタッとつけるようなストレッチを常日頃から欠かさなかったという。強くしなやかなスナップから、ボールに強烈な縦スピンを加えていたのだ。

 速い縦スピンのある球は、大きな揚力を得ると同時に初速と終速の差が小さくなる。つまり栄治のボールは、120キロ程度のお辞儀するボールの軌道を見慣れた打者から見ると、おそらく数十センチは浮き上がりながら伸びて加速してくるように感じただろう。

球としてはとらえられなかった“ホップする球”

 筆者は、大学生までの野球生活の中で、3回“ホップする球”を体験している。法政大学の江川卓、日本大学の佐藤義則、そして新日鉄広畑時代の藤城和明である。いずれも後にドラフト1位指名でそれぞれ巨人、阪急、巨人に入団する快速球投手だったが、江川の高めの速球は、筆者には球としてはとらえられず、ホップしながら目前をよぎる白い閃光のようだった。藤城の打席では、投げた瞬間“ワンバウンドだ”と思った球が、そこから浮き上がってきて低めのストライクになったのにはたまげて思わず打席を外したのを鮮明に覚えている。

 筆者の経験では、140キロ台のボールであれば、打者から見ると球はおじぎすることなく一直線に捕手のミットに到達しているように見える。故に、それよりも速く、かつ縦スピンが効いて大きな揚力を持ったボールは、打者の目にはホップしてくるように見えるのだ。

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文=太田俊明

photograph by Digital Mix Company.