アーセナル史上最高の監督であり、フランスサッカーの殿堂入りが確実視されているアーセン・ベンゲルをまだよく知らないサッカー愛好家がいれば、朗報です。

 ベンゲル本人による唯一の公式自伝『赤と白、わが人生』の日本語版が刊行されました。監督デビュー時代のナンシー、飛躍のモナコ、最盛期のアーセナルと、欧州で率いた3チームのカラーがともに赤と白でした。

 ベンゲルは正義感を体現した「白い」サッカー人生を送り、時には「赤い」悪魔と戦ってきました。悪との戦いといえば、自伝の中でも語らない、いや、未だに語れない来日の本当の理由、大きな"秘密"があります。その中身を知れば自伝をさらに楽しく読めるはずです。

 著書の中に、ヒントとなるこういった言葉がありました。

「日本で過ごした1年半は、家族やフランスリーグのプレッシャー、欧州のサッカー界に蔓延していた一種の残忍さや暴力的なムードとはまったく縁のない時間だった」

名古屋時代のベンゲル監督©Getty Images

ベンゲルは当時欧州サッカーを忘れたがっていた

 この発言の裏にある欧州での辛い経験とは何でしょうか。トップレベルの重圧だけではありません。もっとパーソナルな戦いに言及しています。日本への"亡命"の理由でもあります。2010年に来日したザッケローニ監督もそうでしたが、1995年に名古屋へやってきたベンゲル監督も、当時は欧州サッカーを忘れたがっていたのです。30年前に遡りましょう。

 1990年代前半、フランスでは名門マルセイユが絶対的な強さを誇っていた時代です。フランス代表のデシャンとパパン。バロンドール本命だったピクシー。南米最優秀選手のエンゾ・フランチェスコリや鬼才のドリブラー、イングランド代表のクリス・ワドルを集めた銀河系軍団でした。88-89から92-93シーズンにリーグ5連覇を果たしました(92-93は後に剥奪)。

ストイコビッチ(左から2人目)らを擁した当時のマルセイユ©Getty Images

 しかし、90-91と91-92シーズンの準優勝はベンゲル率いるモナコでした。もしマルセイユがいなければ、リーグ優勝の2度や3度は堅かった。モナコはそれぐらい強いチームでした。

マルセイユの会長と憎しみ合っていた

 ベンゲルは87年にモナコの指揮官に抜擢され、1年目からリーグ王者になりました。さらにトップチームを強くするにとどまらず、クラブ全体を根本的に変えます。たった数年間でモナコにフランス有数の育成システムをもたらしたのはベンゲルです。

若き日のベンゲル©Getty Images

 98年のW杯優勝メンバーになるアンリやトレゼゲ、プティ、テュラムも彼が見出しました。こうしてフランスサッカー関係者から最高の評価を得たベンゲル監督ですが、メディアや世論から見ると、常にマルセイユの陰に隠れていました。

 モナコが91-92シーズンのUEFAカップ・ウィナーズ・カップで準優勝すると、マルセイユは翌年のチャンピオンズ・リーグを制覇します。しかし、ベンゲルはマルセイユに対していつも懐疑的でした。マルセイユの会長だった大富豪ベルナール・タピとは憎しみ合う関係でした。その理由は、ドーピングや八百長疑惑、手段を選ばない勝利至上主義的なプレースタイルなどにありました。マルセイユは、ベンゲルのサッカー理念に反するクラブだったのです。

暗黒面に染まったマルセイユに納得できなかった

 ベンゲルは長期のビジョンを持ち、育成システムやスタッツ研究、栄養学など、現代サッカーのトレンドとなっている分野を80年代後半から追求する、とんでもない洞察力の持ち主でした。

 一方、マルセイユは短期のビジョンを重視し、5年以内にミランを破って世界一になるという野望の塊。マルセイユは大金を注いで次々とモナコの選手を引き抜き、それが出来なければ、相手選手たちを買収して八百長していたと当時の関係者が暴露しました。ベンゲルは暗黒面に染められたマルセイユのやり方に納得いかず、フランスサッカー連盟の助けを求めましたが、全く相手にされませんでした。マルセイユの選手はフランス代表のバックボーンでもあったためです。

 実は当時、大人気チームだったマルセイユを批判するフランス人サッカー愛好家やメディアは誰もいなかったのです。マルセイユはメディアにとっても、ビッグビジネスでした。

孤立どころか多方面からの圧力、“非国民”扱い

 ベンゲル監督は孤立してしまいました.「マルセイユは怪しい」という発言を繰り返しても、ただの悪口として片付けられ、それどころか多方面から自身への圧力が高まったのです。

 私は当時のベンゲルさんを見ていたとき、ハリウッド映画『アンタッチャブル』で悪名高きマフィアのボス、アル・カポネと戦うエリオット・ネス捜査官(ケビン・コスナー)を連想しました。ベンゲルに対する攻撃は凄まじかった。おそらく、それが理由で、彼は日本に"亡命"したのです。

CL制覇を成し遂げたマルセイユだったが、その後凋落の一途をたどった©Getty Images

 92-93のCL決勝後にマルセイユの2人の選手とGMが八百長事件で捕まり、国内リーグのタイトルが剥奪されますが、ベンゲルの名誉挽回にはなりませんでした。

 むしろ、信じられないことに、マルセイユをクラッシュさせた"非国民"として、一部のフランス人サッカーファンには睨まれました。まっすぐなベンゲルはそれでも母国を批判せず、黙々と海外でサッカー人生を歩む決心をしたのです。名古屋グランパスの次には、ご存知の通りアーセナルを選びました。

 イングランドで大活躍し、ようやく人気を取り戻しました。少しずつ、フランスのサッカーファンは彼が正しかったと認めました(10年間かかりましたが)。2001年にベンゲルが『レキップ』誌の表紙を飾ったのは、フランスサッカーとの和解の決定的な証でした。

ベンゲルが表紙を飾った『レキップ』誌※ダバディ氏提供

 以来15年間、フランスでも人気が高まり、次期フランス代表監督の第一候補とされ続けましたが、彼はアーセナルへの忠誠心から断ります。96年に自身を助けた恩人のデービッド・ディーン(アーセナル副会長)を裏切ることはできませんでした。

©Takuya Sugiyama

「時には失望や恨み、怒りを感じ、客観的な目を失ってしまうことだってある。感情に流されてしまうときもある」と自伝でさりげなく振り返る本人。そのトラウマを未だに話せないのです。しかし、著書では「正々堂々と戦う」ことをモットーにし、今年3月16日に行われた日本語版の出版記念記者会見で、「恐れずに挑戦しろ」と日本代表選手へ訴えました。フランスでの苦い体験が背景にあるに違いありません。

 常に正義のために戦った男、アーセン・ベンゲルは、どんな嵐の中でも、魂を売らなかった。FIFAの育成テクニカル・アドバイザーに就任した今、ベンゲルさんは世界のサッカーを少しずつ変えていくはずです。

文=フローラン・ダバディ

photograph by Takao Yamada