メディアの異様なフィーバーに晒され、2006年トリノ五輪15位惨敗のバッシングに傷ついた安藤は、「人を信じないようにする」ことで強くなった。だが荒川静香選手の華やかな優勝報道の陰で、傷だらけだった18歳の彼女を支えたのも「人」だった。トリノの会場の外で「こんな大きな会場で4回転に挑んでくれてありがとう。勇気をもらったわ」と声をかけてくれたある女性の言葉が、スケートをやめようと決めていた安藤に別の感情を芽吹かせる。

「私のジャンプを、4年後を期待してくれる人たちがいる。自分をサポートしてくれる、力をくれる人たちを信じたい」。自分を励ましながら、安藤は自分のスケートキャリアの起点であった恩師、門奈裕子コーチの下でジャンプを作り直し、「安藤美姫を振り付けたい」と自らオファーをくれたニコライ・モロゾフコーチのもとで表現を学び、より大人びた女性としての演技力を磨き、ついにスケート人生の最盛期を迎える。

 一度はスケートから離れることを決意した安藤美姫は、いかにして2度の世界選手権制覇を果たすトップアスリートに返り咲いたのか。奇跡の復活から引退発表まで、本人に話を聞いた(全3回の2回目/#1、#3へ)

安藤美姫さん

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トリノ後の「誰も信じない」から雪解けへ

 2006-2007シーズンの安藤は「モロゾフ・マジック」で目覚ましい変貌を見せ、日本ばかりでなく世界をも驚かせた。GPシリーズで好調な滑り出しを見せ、全日本選手権2位で参加チケットを獲得した世界選手権では、会心の演技で優勝、世界女王となる。

 全日本選手権は地元名古屋、2007年の世界選手権の会場は東京で、ともに日本。トリノ五輪直後の安藤の心境では、母国は「アウェイ」だった。

「それこそアウェイだなと思って出場したんですけど、会場を見渡したら自分の名前の入ったバナーや国旗を掲げながら、声援を送ってくださる方がたくさんいた。こんなに応援してくださる人がいたんだなと気づかされたんです。会場以外でも、お手紙や掲示板のメッセージで温かい言葉を送ってくださる方もいました」

「誰も信じない」と決めた安藤の心のなかで、静かに雪解けが始まった瞬間だった。「それなら、信じる人と信じない人を分けて考えようって。人って顔も性格も違うし、同じ色を見て誰もが同じ答えを出さないところが、個性でもあり人間性でもあるとプラスに思えるようになりました。私のことを好きな人、応援してくださる人がいれば、そりゃあ嫌いな人もいるよねと。自分をサポートしてくれる、力をくれる人たちを信じる気持ちの方が少しずつ大きくなっていったんです」

モロゾフコーチをはじめ、 ©Takuya Sugiyama

 20歳前。安藤はあまりにも若く繊細で、あまりにも傷つきすぎていたのかもしれない。だがその好不調に波のある、危うさをはらんだ個性はむしろ彼女のスケーティングの魅力でもあった。ファンは安藤の葛藤に自分たちの人生を重ね、場を圧倒する成功や体当たりで弾ける失敗にさえ、魅了されたのだろう。

バンクーバーの後に休養をとる予定だった

 2度目の挑戦となった、バンクーバー五輪は5位入賞。メダルこそ逃したが、その頃の安藤は自分のスケーティングと最も安定的に向き合えていたと言える。そこから4年ぶり2度目の2011世界選手権優勝を始めとして、スケートキャリアの中で最盛期ともいえる成績を残している。彼女は、スケーターとしても、表現者としても成熟を遂げていった。

 この頃の自分を、安藤はこう振り返る。「最初はバンクーバーの後に休養をとる予定だったんですけど、その次のシーズンの世界選手権の開催地が東京に決まって、コーチに『休養を取り消してもう1年やりなさい』って説得されたんです。やっぱり日本人として世界選手権に出られるレベルにあるし、良い成績を残せる可能性があるんだったらやった方がいい、と」

 コーチにそうは言われてもなかなか気持ちは切り替わらなかったという。「選手として、モチベーションを上げるのはすごく大変だったんですけど、なんとか出場に向けて準備していました。東日本大震災が起きたのはそんな時でした」

 震災の日、安藤は世界選手権の前の時差調整を兼ね、福岡でトレーニング中だった。「東北とは距離があるので、まったく揺れなかったんです。でもテレビで地震の報道や津波の映像を見た時に、これが同じ日本なのかって、ただただ唖然としてしまった」。

 世界選手権の開催も危ぶまれるなか、安藤が真っ先に想ったのは、震災で家族を急に亡くした子どもたちのことだった。「朝、いつも通り一緒にいた家族が急にいなくなってしまう悲しさだったりとか、その気持ちをどこに持っていけばいいのか。私も8歳のときに経験したことでもあるので」。安藤の父が事故でこの世を去ったのも、東日本大震災発生時と同じ昼間だったという。

「お母さんお父さんや、お兄ちゃんお姉ちゃん、弟妹を急に亡くされた子どもたちを、夢や目標がある子どもたちのその後をどうサポートしていくか。やはり私たち大人がしっかり支えて、ひとつでも多くの道を作っていかないといけないと思いました」

 スケートを始めたばかりの頃に父親を突然亡くした安藤は、周囲の大人たちの働きかけでスケートを続け、世界の大舞台に立つスケーターになった。子どもたちへのシンパシーが、安藤を衝き動かす。「まず世界選手権より前に、チャリティーショーをやらないといけないと思って。全然ライティングとかないんですけど、福岡で小さなチャリティーショーをやらせていただきました。その後も2012年に開催したチャリティーショーからずっと今までReborn Gardenというプロジェクトを継続してます」

初めて「待ってくれている人たち」のために滑った

 気持ちがどうにも定まりかねていた世界選手権への想いも、この震災をきっかけに強く固まった。「延期されていた世界選手権がモスクワで4月に行われるという発表があって。同時に東北の方から1通のお手紙をいただいたんです。『こういう時期だからこそ頑張ってほしい』『美姫ちゃんの演技を見ることで私たちも力をもらえるし、頑張ってほしい』と」。

「家やご家族を亡くされた方もいらっしゃる中で、自分はスケートをしていていいのか」と考えていた安藤は、世界選手権の出場も棄権しようと考えていた。震災地のファンからこの手紙が届かなければ、彼女はきっと世界選手権に出ていなかっただろう。「トリノ五輪の後に声をかけてもらったときもそうでした。いつもファンの言葉で『自分がこれまでやってきたスケートで、こんな私でも人々を笑顔にできるんだ』と気づかされます。この時も、手紙の言葉に後押しいただき、自分のためではなくて、応援してくださる人たちのために演技しようとロシアに向かいました」。

 東日本大震災直後の2011年4月、安藤は初めて「待ってくれている人たち」のために滑った。すると驚くことに、結果がついてきた。SPで2位、FSで1位、総合1位。4年ぶり2度目の世界選手権優勝を果たした。「世界選手権だけれども、本当に穏やかに過ごせました」。これまでにないスケーティングを終えることのできた安藤に降りてきたのは、スケーターとして、もうやり遂げたという実感だった。

©Atsushi Hashimoto ©

「記録ではなく記憶に残る選手になりたかった」

「よく『将来どういう選手になりたいですか』って聞かれていたんですけど、ずっとなかなかうまく答えられなかったんです。私は記録ではなく記憶に残る選手になりたいと思ってきて、あまり結果を求めてスケートをやっていなかったんですね。納得のいく演技ができなくて優勝するよりは、自分の納得のいく演技をして最下位の方が私は嬉しい。だから普段の生活、試合に向けたメンタルの運び方とか色々、そのシーズン本当にしっくりきたものがあって」

 安藤の心に、引退の2文字が浮かんだ瞬間だった。

 2013年7月、テレビ番組で「2013-2014シーズンを最後に現役を引退する」ことを発表。そして、同時に4月に1児の母になっていたことを電撃公表したのだ。これによって、再び安藤美姫に厳しいバッシングが向けられることになる。

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文=河崎環

photograph by Nanae Suzuki