山陽特殊製鋼、四国電力、日清食品グループと実業団の強豪チームを渡り歩き、世界陸上にも出場した渡邊和也が、最後に選手生活を送ったのが東京国際大だった。4年前、指導者を志して29歳で入学し、この春に卒業を迎えた。

「選手としては結果を残すことが大前提にあると思うので、今までは自分のことばかりを考えて競技をしていました。でも、大学では目線が変わったというか、一歩引いて、周りのことを考えたり、チームの雰囲気を見たりするようになっていました。

 教員免許も無事取得することができたし、4年間の大学生活はプラスしかなかったと思っています。

 もちろん若ければ若いほうがいいと思うんですけど、29歳からでもチャレンジはできた。いくつになってもチャレンジはできるよ、っていうことは伝えたいですね」

2011年 世界陸上大邱大会での渡邊

高校卒業から11年後に大学へ進学

 “オールドルーキー”などと使い古された肩書きが付くこともあったが、渡邊にとって4年前の決断は決して遅過ぎたわけではなかった。

「高校の頃から、将来は指導に携わりたいなと思っていて、当時も大学進学を考えたことはあったんです」

 渡邊はそう振り返るが、高校卒業時は“強くなるため”と判断し、すぐに実業団に進むことを選んだ。

 結局、高校卒業から11年後に大学に入学することになったが、その間に1500mで日本歴代2位(当時)となる3分38秒11をマークし、5000mでは日本代表にまで上り詰めた。

 その一方で、2度の移籍を経験し、数々のケガにも苦しんだ。また、2008年の日本選手権では1500mで北京オリンピック出場がかかっていたが、先頭を走りながらもフィニッシュ直前に転倒し出場を逃すという悔しさを味わっている。

 決して順風満帆だったわけではない。酸いも甘いも噛み分けた約10年間の実業団選手時代だったが、それらの経験は、指導者を志す渡邊にとって大きな財産になった。

「ぎりぎりだったけど、箱根を走れたことは良かった」

 大学進学を決めた時も、逆境に立たされたことがきっかけだった。実業団選手としての進退がかかっていたレースで結果を残せず、将来に悩んだ時、日清食品グループのコーチだった保科光作(現・慶大コーチ)を介して、日清食品グループOBで東京国際大のコーチである松村拓希に話を聞く機会があったのだ。

 指導者になるためだけであれば、他の選択肢もあったかもしれない。ただ、渡邊は現役続行にこだわっており、大学進学を決意した。

 それまでは1500mから10000mまでのトラックをメイン種目としていたが、大学では20km超の箱根駅伝が大きな目標になった。

「大学に入るまでは、練習でも20km以上の距離は、片手に余るぐらいしか走ったことがありませんでした。それぐらい長い距離はやってきていなかったので、練習方法も年間スケジュールも今までとは全く違いましたね」

 大学1年目は、まずまず順調な滑り出しだった。故障を抱えながらの再出発だったが、箱根駅伝本戦には間に合わせ、7区を走り区間7位の成績を残した。

「やっぱり経験として1回は箱根駅伝を走っておきたかった。ぎりぎり間に合ったんですけど、箱根を走れたことは良かったです」

 短い準備期間でまずまずの結果を残したのは、さすがのポテンシャルとしか言いようがない。

2018年の第94回箱根駅伝に出走した

思うように練習ができなかった2年時

 しかし、2年目は、思わぬ苦戦を強いられた。体育の実技で選択した器械体操の授業が思いの外きつく、陸上競技で味わうものとは違った筋肉痛に見舞われ、練習にも支障をきたすほどだったのだ。

「授業と練習の兼ね合いがうまくいかなかったというか、今となっては、授業の選び方を間違えたのかなと思っています。なかなか思うように練習ができなかったのが2年生でした」

 箱根予選会には出場したものの、チーム全体が力を付けてきていた時期でもあり、本戦の出走メンバーからは外れた。

 そして、大学生活も折り返しを迎える。

「トラックを見るだけで気分が悪くなる時期もあり」

 仕切り直したいところだったが、2年生の終わりの合宿中に原因不明の下痢に見舞われた。1週間、1カ月と治らず、「さすがにおかしい」と思って診療を受けると、ストレスによる過敏性腸症候群という診断だった。

「今現在も治っていないんですけど、気持ち的にもつらい状況になり、お腹が痛くて練習にも集中できず、自分でもどうしたらいいのか分からない時期が続きました。トラックを見るだけで気分が悪くなる時期もあり、3年生の時は中途半端な時間を過ごしてしまいました」

 また、実業団で競技に取り組んでいた頃とは、心境に変化があることにも気付いた。

「けっこう負けず嫌いな性格だったんですけど、大学に入学してから、負けても悔しくなくなってしまっていたんです。肉体的にどうこうと言うよりも、そのことが自分の中では引っかかっていました。心境の変化は大きかったです。悔しさがなくなってしまったら、選手としては終わりなんじゃないかなって思っていました」

 結局、競技者として臨んだレースは、大学2年時の箱根駅伝予選会が最後になった(その後、記録会に一度だけ出場しているが)。

教育実習で中学生にかけた言葉とかけられた言葉

 それでも、「もう一度箱根を走らないといけない」という気持ちは持ち続けた。4年時は新型コロナ禍に見舞われ気持ちが切れそうになったが、9月の終わりに母校の西宮市立深津中で教育実習を行った際に、はたと気づかされたことがあった。

「陸上部を見させてもらって、純粋でフレッシュな子たちを見ていて、“俺も頑張らなきゃな”と思いました。“箱根、頑張ってください”とも言われましたし、その期待に応えたいって思いました。

 それに、1年生の体育の授業を受け持ったのですが、みんなには“夢や目標を持ってください”と言っているのに、自分自身は何をしているんだろうと思ったんです。それが一番大きかったですね」

 生徒に対して発したはずの言葉が、渡邊自身に向かってきた。

「厳しい状況ではあるけど、ここで諦めるのは違うんじゃないか」

 そして、ようやく気持ちを切り替えることができた。

渡邊が在籍した4年間で東京国際大は強豪校に

 結局、最後の箱根駅伝にも届かなかったが、それまでは自分自身で加減して練習に取り組むことが多かったのが、Bチームの練習をこなせるぐらいまでには力を取り戻せた。

 大学4年間も社会人時代と同様に波乱万丈だったが、年下のチームメイトとの関係は良好だった。

「社会人時代にはなかった門限とか消灯時間とかがあったのは、けっこうきつかったです。日曜日はだいたい飲みに行っていたのですが、門限が21時なので、ぎりぎりまで居酒屋にいて、駅までみんなでダッシュしていましたね」

 チームメイトとは、普通の学生らしく、恋愛話など他愛もない話題で盛り上がっていたという。

 もちろん日本のトップに立った実力者だけに、競技に関するアドバイスを求められることも多かった。そういえば、今や箱根の常連校の城西大も、黎明期には実業団を経て入学した中安秀人(西脇工業高→旭化成→城西大)という選手がいた。渡邊や中安のように、実業団で経験を積んだ選手がチームメイトにいることがもたらす好影響もあったのではないだろうか。あくまでも、想像の範疇ではあるが……。こうして、渡邊が在籍した4年間で、東京国際大は一気に強豪校へと駆け上がっていった。

「自分の理想の指導者になれるように」

 渡邊は退寮した後、実家のある兵庫に帰った。

 もともとは社会人、貯金を切り崩しつつ、奨学金を借りて学生生活を送っていた身でもある。一般的な学生であれば、最後の春休みはだらっと過ごしたいものだが(もっとも今年は卒業旅行にも行けずにいた学生は多かったが)、春休みの間、渡邊はウーバーイーツの配達員として勤しんだ。

「コロナ禍だからか年齢的な理由からかは分かりませんが、居酒屋や焼肉屋、近くのデパートなど、バイトの面接には全部落ちました。そこで、友達に勧められたのがウーバーイーツでした。

 奨学金もこれから返していかないといけませんし、実家にいるので母親にもちょっとはお金を渡さないとダメですから、採用が決まるまでは続けます」

 ちょうどこの取材の日に渡邊は中学校の教員採用の面接を受けていた。

 そして、この4月からは中学教諭として、新たな道が切り開かれることが決まった。それは、目標としていた指導者としての第一歩でもあった。

「中学、高校、大学、実業団と、ステージに応じて、指導方法も変わってくると思いますが、まだ経験はゼロなので、これから試行錯誤しながら自分の理想の指導者になれるように頑張っていきたい。実業団までいくと結果が求められますが、中学、高校であれば、まずは陸上の楽しさを知ってもらいたいですね」

文=和田悟志

photograph by AFLO