2020年から2021年(対象:12月〜3月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト3を発表します。契約更改・戦力外通告部門の第2位は、こちら!(初公開日 2020年12月7日)。

 新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言が発令されていた頃、懐かしい人物からの電話があった。

「氏原さん、マスクあるんすか。大阪のドンキにマスクありますよ。で、人が溢れてます(笑)」

 2006年夏の大阪大会1回戦で、参考記録ながら準完全試合を達成。同年の高校生ドラフトでヤクルトから4位指名を受けた山田弘喜だった。田中将大(ヤンキース)、前田健太(ツインズ)、坂本勇人(巨人)と同期の、いわゆる“ハンカチ世代”である。

 甲子園の出場はないが、2006年のヤクルト入りの会見で持ち球を聞かれての「ダイナマイトスライダー」という返答が一時話題となった。だが一軍で登板することなく2010年のオフに戦力外通告を受けて今は大阪で真面目に働いている。

2006年12月ヤクルトの新入団選手発表。古田監督(中央)を囲みガッツポーズする(左から)山田弘喜、上田剛史、増渕竜義、高市俊、西崎聡、衣川篤史の各選手 ©KYODO

 筆者の取材活動が高校生などのアマチュア選手からプロまでを範囲としているため、こうした選手から学ぶことはたくさんある。高校時代から知っていて、スーパースターになる選手がいる一方、山田のように、日のあたらなかった選手との“その後”の交流は野球界の持つ意味を知る機会となっている。

「今はヤクルトの時より、給料良いんで…」

 球団からの「戦力外通告」とは残酷なものだ。体はまだ元気であっても、その力を発揮する場所が失われてしまう。あと少し。もう1年。言い出せばキリはないが、その場が欲しいと誰もが思う。

 とはいえ、通告を受ける選手はおおよそ、その空気を感じるという。

 山田の場合で言うと、2010年、一軍の監督だった高田繁氏が成績不振により休養。その後からファームでの登板機会が激減した。高田監督の秘蔵っ子というわけではなかったが、3年目の秋季キャンプでは初めて一軍メンバー入り、大阪出身であることで高田監督からはよく声をかけられたそうだ。

「まぁ、しゃあないっすよ。監督が代わって、今まで出番がなかった人が試合に出だしたということもありますし、それはタイミングやったんやと思います。ただ、同期の(増渕)竜義にはいい刺激になれたと思いますけどね。同じ、公立出身のピッチャーやったし」

 今思えば、高卒投手の伸び率の悪いヤクルトに入った時点で、山田のような無名公立校の「一か八か」のような選手は、どうあがいても厳しかったかもしれない。ただ自分は活躍できなくても、切磋琢磨する存在になれたことは彼の中で「組織とは何か」を知るきっかけになっているだろう。

 SNSなどでその後もやりとりをしていく中で「今はヤクルトの時より、給料良いんで、まぁ、楽しくやっています」という言葉を聞くと、むやみに現役生活を引っ張られるより、スパッと切られた方が良かったのかもしれない。メディアなどでは戦力外通告を「非情宣告」と報道することがしばしばあるが、後々を考えると再スタートだと受け取ることもできる。

「トレードかなと思っていたんですけど…」

 山田に加え、蕭一傑(しょう・いっけつ)、村田透はこの時期に思い出す2人だ。

 台湾からの留学生だった蕭一傑は大学の頃から気の配れる人物だった。食事に行けば、翌日には必ず連絡が入り、球場では遠くからでも駆け寄ってきたほど。蕭は2008年に阪神から1位指名された。しかし、4年目のオフに戦力外通告を受ける。中村勝広GMが就任し、チームの改革が迫られていたときで、ドラ1でも容赦無く斬る姿勢を見せるには、蕭の解雇は好都合だった。

「次の1年で調子を戻してとは思っていましたけど、あのシーズンはプロに入ってから一番調子が悪かったんで、何も言い返せなかったですね。ただ、電話がかかってきた時は何が起きたのか分からなかったんです。トレードかなと思っていたんですけど。阪神で偉大な選手が付けた『19』を自分も付けさせてもらったことは本当に光栄でした。でも、その背番号で活躍できなかったことは、悔いとして残っています」

 同年のトライアウトを受けたあと、ソフトバンクでは育成選手として1年在籍しただけで台湾に帰国した。昨季は台湾のスーパースター・王柏融の通訳として日本球界に復帰。他のリーグ、異なる球団を知ったことで多くの学びを得たと語っていた。今は日本ハムを退団、台湾のプロチームでコーチ業をしている。

“上原2世”の戦力外通告「兄貴に電話して泣きました」

 そして、日本ハムでリリーバーとして、時には先発として活躍する村田透は巨人を退団してから大きく人生を変えた人物だ(※12月2日、村田は日本ハムから自由契約選手として公示された)。

 2007年の大学・社会人ドラフトで、巨人から1位指名を受けた村田は入団直後から、「上原2世」と期待された。上原の大学の後輩にあたり、全国制覇の経験を持つ村田に偉大な先輩を重ね合わせたのだ。

 しかし、周囲の期待とは裏腹に巨人での村田は持ち味を発揮することができなかった。重度な怪我はなかったものの、戦列を離れることもあり、フォームが安定しなかった。プロ入りからたった3年で戦力外通告を受けた。

 村田は当時、こう振り返っている。

「8月からはほとんど試合で投げる機会さえもらっていなかったので、予感はありました。その年、知人の結婚式にビデオレターを送っていたんですよね。ジャイアンツのユニフォームを着て、その結婚式の日が戦力外を言われた日で……。すごく悔しかったですね。日頃はあんまり泣かないのですが、あの時は兄貴に電話して泣きました」

アメリカへ…6年のマイナー生活

 しかし、村田はそこで腐らなかった。戦力外通告を受けた選手の多くは、自暴自棄になり、数日間、練習をしなかったりするものだが、村田は「ここでやらなかったら野球人生が終わる気がする」と奮起して翌日から再スタートを切った。

 その思いは結果へと繋がる。日本球団からの声はかからなかったものの、トライアウトを視察したインディアンスからオファーを受けた。「やり切ったという達成感がなかった」村田は海を渡ることを決断。そこから6年のマイナー生活を送ったのである。

 実績があるわけでも、年齢が若いわけでもないのに、6年も過酷なマイナーでプレーした。言葉の壁、長距離のバス移動、日本以上の厳しい競争社会……しかし、その中でも2015年には3Aで最多勝。メジャー初登板も実現している。何より6年のうち5年間はオフに中南米のパナマやベネズエラのウインターリーグに参加したという経験は、日本人選手では稀有だろう。

2015年6月インディアンスでメジャーデビューを果たした村田透 ©Getty Images ©Getty Images

「向こうに行けば何とかなるんですよ」

 言葉は?土地勘は?食事は?など疑問をいくつかぶつけてみたが、さらっと言ってのける村田からはバイタリティーと何にも屈しない精神の強さを感じずにはいられなかった。大学時代からその人当たりの良さを知っていただけに、その身一つで勝負をしにいく姿勢には野球の技術とは別の人間的成長を見たものだ。

「球団からすれば外国人と一緒ですよ」

 2017年から村田は日本野球界に復帰した。

 普通ならばローテーションの一角を務めてもおかしくないが、栗山監督の奇想天外な投手起用の“駒”として欠かせない存在となった。オープナーの後を任せられるリリーバーから谷間を埋める先発まで、顔色一つ変えずに、マウンドに立ってきた。

「球団からすれば外国人と一緒ですよ。使えないと判断されれば斬られると思うので、しっかりチームに貢献できるように頑張りたい」

 入団当初からの誓いを彼は守り続けている。

「戦力外通告」そのものが絶望ではない

 3人の野球人生は三者三様だ。

 ただ、一つ感じるのは「戦力外通告」そのものが絶望ではないということだ。

 大事なことは、その後の人生をどう生き抜くかで、それは野球に取り組んでいた時に何を学び得たかであろう。

 プロ野球選手がその業界で一流と言われる理由は、「成功」や「技術そのもの」にあるわけではなく、成功するためのたくさんの試行錯誤や様々な困難などに耐え抜く力、自分を作り出す創造性にある。

 その過程があってその道のトップに辿り着ける。

 それは野球の業界に限ったことではない。ビジネスでも、どの世界でも通用するためには必要な素養と言える。

 先日、あるオンラインイベントで元ヤクルトのサウスポー・久古健太郎さんとトークセッションをさせてもらった。現役を引退後、野球界には残らず、コンサルティング会社に勤めている久古さんは「野球界の常識が通用しない」と苦笑する一方で、野球を通して培った努力の仕方や成功への向かい方をビジネスでも存分に生かしていると話していた。

 今年の戦力外通告はすでに終わっている。

 筆者が高校時代を知り、プロ入り後も顔を合わせた選手では、吉川大幾、西田哲朗の2人がそのメンバーに入った。ともに、高校時代は大阪トップクラスのショートストップと言われながら、プロではレギュラーを掴むことなく2球団を渡り歩いた。

 彼らがこれからどのような人生を選択するかは分からない。

 ただ一つ言えるのは野球で培ったことを人生にどう活かしていくかが大切だということに尽きる。

 ここからがスタート。

 山田、蕭、村田の3人の人生がまさにそう思わせてくれている。

文=氏原英明

photograph by KYODO