プロ野球選手は一体、どんな少年時代を過ごしてきたのか――。『あのプロ野球選手の少年時代』(宝島社)は、侍JAPANに名を連ねる日本を代表する選手たちの少年時代を、小・中学校の指導者や本人から取材した記録集です。今回は書籍でインタビューにも答えているソフトバンク柳田悠岐、DeNA山崎康晃の2人の“知られざるエピソード”について転載でご紹介します(全2回/柳田悠岐編はこちら)

 埼玉県・奥秩父を源流とし、流域面積2940平方キロメートル、全長173キロメートルを誇る一級河川・荒川。

 その川沿いには多くの野球場、グラウンドが点在し、週末になれば草野球から少年野球までたくさんの『野球人』が汗を流す。

 現横浜DeNAベイスターズのクローザー・山崎康晃もまた、「荒川河川敷」のグラウンドから将来のプロ野球選手を目指した少年のひとりだった。

山﨑康晃が育った荒川の河川敷※書籍より転載

 2014年ドラフト1位で亜細亜大学からベイスターズに指名された山崎は、入団1年目からチームのクローザーに定着。2019年終了時点ですでに通算163セーブを挙げ、侍ジャパンでも不動の抑えとして東京五輪での活躍も期待されている。

 彼が小学2年生から帝京高校に入学する直前まで所属したチームが、荒川区の「西日暮里グライティーズ」。1974年に結成された歴史ある軟式クラブチームだ。

帝京高校時代の山﨑©Kyodo News

“松坂世代”の指導者と出会った山崎少年

 当時の山崎少年を知る人物を訪ね、練習拠点でもある荒川の河川敷まで足を運んだ。

 出迎えてくれたのは、当時からチームで指導を行う内山潤司さん。

中学生の山﨑康晃を指導した内山さん※書籍より転載

 内山さんは1980年生まれのいわゆる『松坂世代』。グライティーズのOBでもあり、所属時は森本稀哲(元北海道日本ハムファイターズほか)とチームメイトでもあった。6年生の時にはキャプテンとして荒川区で優勝も果たしている。小学校卒業後は森本とともに地元の『シールズ倶楽部』に入団するも、本人曰く「ガチンコの野球がちょっときつくて……(苦笑)」という理由で退団。

 中学、高校と野球から離れた時期を送っていたが、父親がグライティーズの監督を務めていた縁もあり、20代前半の頃からチームに顔を出し、選手たちを指導するようになったという。

 そしてちょうどそのころ、チームに入団してきたのが山崎少年だった。

 内山さん自身は当時、中学生の指導を行っていたが、小学生、中学生が同じグラウンドで練習するケースなども多々あったため、当時のこともよく憶えているという。

「バックネットに突き刺さる大暴投」も

「とにかく、『足が速い』『肩が強い』『身体能力が高い』という印象が強かったですね。稀哲もそうでしたが、やはり足の速さは野球の基本です。足腰が強ければ速い球も投げられるし打球も飛ぶ。将来性はとても感じるタイプの選手でした。ただ、ピッチャーとしては……」

 苦笑いしながら一呼吸おいて、内山さんは当時の『ピッチャー・山崎康晃』をこう称した。

「コントロールがない子でしたね(苦笑)」

 確かに、球は速い。ただ、そのボールを制御するだけの技術が当時の山崎少年にはまだなかった。マウンドからキャッチャーミットをめがけてボールを投げても、「バックネットに突き刺さる大暴投」になることも珍しくなかったという。

 内山さんだけでなく、チームの指導者はみな、口をそろえて「球は速いんだけどなぁ……」と漏らしていたそうだ。

今や球界トップの人気を誇る山﨑だが、少年時代は意外な欠点があったという(2017年撮影)©Hideki Sugiyama

抜群の野球センスは疑いようのない事実

 ただ、コントロールに課題があるとはいえ、当時の山崎少年が抜群の野球センスを持っていたことは疑いようのない事実だ。中学に上がり、内山さんが実際に指導する立場になったときも、その能力の高さには驚かされたという。

「1年生の時点で、例えばベースランニングを走らせれば上級生と比べても遜色ありませんでした。当時の3年生たちには『1年に負けてどうする!』と発破をかけていましたが、彼が単純に速かったんです。いわゆるスーパー1年生でしたね」

 成長期真っただ中の中学生にとって、2学年という差は想像以上に大きい。それをものともしない身体能力の高さは、山崎少年の大きなストロングポイントだった。

「下級生のころから試合には出ていました。ピッチャーとしてはまだまだコントロールに難があったので、メインポジションはショートでしたね。バッティングも良かったですから」

「4番を任せることも多かった」ワケ

 打順は「4番を任せることも多かった」という。

「特に3年生になってからは、ヤマが打席に立つと外野手がみんな下がる。そういうバッターでした。ピッチャーとしても少しずつ技術が追い付いてきて、投げる機会も増えてきましたが、いわゆる『絶対的エース』ではなかったですね。チームにはもうひとり、柳田玲於奈というピッチャーがいて、彼との併用が基本プランでした」

 小学校時代は『制球難』だったピッチャー・山崎康晃だが、その課題は少しずつ克服された。その理由を、内山さんはこう語る。

「中学に入って、グライティーズとは別に中学校の野球部にも入ったんです。平日は学校で野球をして、土日は荒川の河川敷でクラブの練習に出る。いわゆる掛け持ちです。野球部の試合があるときは、そちらを優先させることもありましたが、小学校までは土日だけだったのが、いきなり野球漬けの毎日を送ることになった。そこで、意識も大きく変わったんじゃないかなと思います。それまでは高い能力を持て余していたのが、少しずつですが技術が追いついてきた」

 平日は部活動、休日はグライティーズの練習。毎日のように『野球』に触れ合うことで、山崎少年の技術はめきめきと上達した。

山﨑はプロ入り後、侍JAPANの常連となった(2015年)©Nanae Suzuki

多くの出会いを、成長へとつなげた

 チームとしても、山崎少年の代のグライティーズは優秀な成績を残したという。

「荒川区内では結構勝っていた印象が強いです。ただ、いつも準優勝どまりだったイメージですね。都大会には2チーム出られるので、準優勝でも及第点ではあるんですけどね。ヤマの代で一番印象に残っているのはKボールの大会。都大会の決勝戦まで行って、強豪の大森ホワイトスネークスさんと対戦したんです」

 Kボールとは『KWBボール』の通称で、軟式球と同じゴム製だが、ボールの重量、外径は硬式球と同じ。反発係数なども硬式球に近い『軟式球と硬式球の中間』のようなボールだ。

ホームスチールされてのサヨナラ負け

「先発は柳田でした。彼が好投して確かロースコアで延長サドンデスまで進んだんです。ただ、相手ランナーが三塁まで進んで、柳田もいっぱいいっぱい。そこで、ヤマにスイッチしたんです。そうしたらあいつ、ランナーが三塁にいるのにいきなりワインドアップで投げたんですよ(笑)。それで、ホームスチールされてサヨナラ負けです……(苦笑)」

 なかなか劇的な幕切れだが、内山さんはこの瞬間をこう振り返る。

「あれは、我々指導者がしっかりと注意しなければいけない場面でした。完全に、大人のミスで負けた試合。彼らには本当に申し訳ないことをしましたね」 

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文=花田雪

photograph by Naoya Sanuki