工藤有生が現役を引退――。それは彼を知る人はもちろん、陸上ファンにとっては衝撃的なニュースだった。

 駒澤大学時代は1年の時から箱根駅伝を走り、大学のトップランナーに成長。大学4年時には、駅伝主将を務めた。だが、大学ラストランとなった箱根駅伝7区で左足に異変が起き、失速。懸命に襷をつなげようと蛇行を繰り返しながらも足を止めない工藤の姿を覚えている人も多いだろう。

 卒業後はコニカミノルタで実業団選手として足の治療をしながら再起を図ってきたが、入社してわずか3年で「引退」という大きな決断を下した。将来を嘱望されたランナーに、いったい何が起きていたのか。駒大時代とコニカミノルタでの“空白の3年間”を追った(全2回の1回目/#2に続く)。

工藤有生さん ©Yuki Suenaga

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「都大路未出場」から名門・駒澤大学へ

「駒大から話が来たのは、進路を決めるギリギリのタイミングでした」

 工藤は、少し苦笑しながら、駒大入学当時を振り返った。

 駅伝の強豪校である広島・世羅高校で陸上を続けていたが、当時はまだ芽が出ず、インターハイ、都大路など全国大会には縁がなかった。他大学からスカウティングの話は来ていたが、「もう決めないと」という時期に飛び込んできたのが、駒大だった。

「もう即決しました(笑)。駒大を選んだのは、常に駅伝大会で優勝争いしているような厳しいところに行きたいなって思っていたから。実力を考えても大変だなとは思っていましたけど、不安はなかったです。長距離には自信がありましたし、やれば強くなる、やるしかないだろうと」

 強い気持ちで駒大での挑戦を決めたが、入学前、新入生だけで走る5000mのタイムは、13名の内で後半の順位。さっそく厳しい現実と自分のポジションを思い知らされた。当時のチームには、4年生に中村匠吾、村山謙太らトップランナーがおり、一学年上には中谷圭佑らが名を連ねていた。個々のレベルが非常に高く、練習についていけないことも多かったという。

「最初の頃は、強度の高い練習で離れてしまう事が多かったんですけど、距離走を丁寧にやることで徐々についていけるようになりました」

©Yuki Suenega

 当時の駒大の練習メニューは、毎朝12、3キロ、それから月曜は砧公園を走り、水曜はポイント練習、土曜は26キロの距離走。それ以外の火木金は80分ジョグだったという。月間にして約800キロ前後。大学の陸上部としては練習量が多い方だろう。

 こうした厳しい練習を丁寧にこなしていた工藤が、自分の走りに手ごたえを感じ始めたのは、1年の夏合宿だった。

「夏合宿は、3週間あって1週間ごとにテーマがあるんです。1週目は野尻湖で『足を鍛える』。2週目は志賀高原で『心肺を鍛える』で、3週目が野尻湖で『気持ちと根性を鍛える』という感じでした。最後の野尻湖で30キロの距離走をするんですけど、そこで余裕を持って走れた時に、駒大に来て初めて、強くなったなあって感じましたね。中村さんや村山さんとも一緒に練習ができるようになっていましたから」

声掛けも『元気か』から『もっとやれるぞ!』に

 本人の実感だけではない。この頃から、大八木監督の視線や言葉にも変化を感じた。

「入学の頃は、『元気か』みたいな普通の声掛けが多かったんですけど、徐々に『もっとやれるぞ!』と言われるようになって、少しずつ監督とのコミュニケーションが変わっていったんです」

 信頼を置く大八木監督の指導の下、レベルの高い仲間とともに厳しい練習を続け、競技力はどんどんと上がっていった。そして、大学1年の秋に満を持して全日本大学駅伝に出場。5区2位で駅伝デビューを果たす。つづく箱根駅伝では4区を任され、区間2位という好走も見せた。

 なにより工藤にとって、初出場の箱根駅伝は「一番印象に残っている」レースでもある。今でも初めて箱根路を走った時の記憶は鮮明だ。

「とにかく声援がすごい。耳の鼓膜が破れるんじゃないかと思ったくらいで(笑)。先頭で走れたというのも大きかったです」

2014年11月2日全日本大学駅伝 ©Nanae Suzuki

大八木監督は「とにかく圧がすごかったです(苦笑)」

 入学時点ではチームの練習に追いつくのもやっとだったランナーから、駒大のエースへ。この時から、陸上に対する意識も変わっていった。

「1年目は、とにかく勢いでした。大学でトップを目指すとかじゃなくて、世羅高校時代に負けていた選手や同級生に勝ちたい思いが強くて……。でも監督に『上を目指せ』と言われるようになって、2年目からは徐々に大学のトップや世界というのを意識するようになりました」

 グンと伸びる時期、大八木監督の『常に上を目指す』ための言葉や指導は工藤を後押しした。

「監督は、人間性を大事にする指導をされていました。それでいて、すごく奥が深すぎて、僕には想像がつかなかった。もちろん厳しいところもありました。とにかく圧がすごかったです(苦笑)。今日こそはなんか言ってやろうと思って前に行くんだけど、何も言えず、結局『はい』みたいな」

 日々、叱咤激励がつづいたが、「ほめられることはなかった」という。

「僕は、1位を獲ったことがなく、2位ばかりだったんです。そのせいか、監督からは常に『これで満足するなよ』と言われていて……。正直言うと、『この人を満足させるためには、一体どうしたらいいんだろう?』ってよく考えていましたね。『結構頑張ったと思うんだけどな〜』って(笑)。でも、監督の常に上を見ている姿勢が自分のモチベーションにもなっていたと思います」

箱根駅伝2017年(大学3年時) ©Takuya Sugiyama

駅伝主将を任され、最後の箱根を目指すも……

 最終学年に上がり、大学陸上界で実力がトップクラスになっていくと、大八木監督から駅伝主将を任された。さらには、夏のユニバーシアードで2位になるなど、結果でもチームを引っ張っていく“駒大のエース”に成長した。

 しかし、本格的な駅伝シーズンに入ると、調子が上がらず、出雲駅伝も全日本大学駅伝もいまひとつの出来だった。箱根駅伝を1カ月後に控えた12月。駒大にとっても工藤にとっても、厳しい決断が下される。

「箱根に向けての合宿で、距離走とかできないわけじゃないですけど、動きが全然イメージ通りじゃない。最後の方は、満足に練習を消化することもできなくて。そこで最終的に2区出走はなくなりました。自分としては2年、3年と続けて走って、最後まで2区を走る準備をしてきたので、悔しかったですね」

 大八木監督の判断で、最終的に復路の7区に置かれた。2区を走ることができず、練習も消化できなかったので、せめて気合を入れようと頭をバリカンで剃り、坊主頭にした。また、自分の状態を少しでも上げようと鍼灸院に通い、腰に鍼を打った。

 しかし、調子が上がっていく気配は感じられなかった。

箱根駅伝当日の朝は「動きが思った以上に悪かった」

 2018年1月2日、大学最後の箱根駅伝――。

 チームの目標は総合3位以内だったが、まさかの往路で13位に低迷。チームに重たい空気が漂う中、「シード権死守」に目標が切り替わった。ゲームチェンジャーとして7区に置かれた駅伝主将に、期待と責任がズシリとのしかかる。

 往路で同学年の高本真樹が4区5位と好走し、力をもらっていたが、当日の朝も1000m1本の調整練習では、動きが思った以上に悪かった。「エースの責任」を背中に背負いつつ、自分の中に渦巻く大きな不安を最後までかき消すことができない。ここで盛り返さなければ、シード権も危うい。工藤は、自分の力を信じてロードに飛び出した。

坊主で臨んだ最後の箱根駅伝。7区を任されて、勢いよくスタートした ©AFLO

「あっ、いけるわ」

 最初の数キロを走ると朝の動きの悪さはなく、1キロ2分55秒でテンポよく走れた。シード権死守のために順位を挽回すべく、軽快なペースを刻んでいく。ところが、5キロを過ぎてから突然、左足に異変が起きた。

「あれ? 力が入らない」

頭が真っ白に「やばい、どうしよう」

 嫌な予感を押し込めようとしたが、10キロを越えると症状がさらに酷くなった。左足から力が抜けて、思うように動かない。

「レース中に、その症状(ぬけぬけ病)が出てしまうのは初めてのことで、しかもかなりひどい状況でした。それで余計に驚いてしまって、頭が真っ白になってしまった」

 左足を手でたたいて刺激を入れても足は何も反応しない。体が横ブレし、徐々にスピードが落ちていく。その時点で、まだ10キロも残っていた。

「頭の中は、『やばい、どうしよう』しかなかったです。周囲に前を走っている選手がいたら引っ張ってもらえたかもしれないけど、誰もいなかった。今、思えば一度止まってストレッチをした方がリズムを変えて走れたのかなと思うけど、その時は冷静に考える余裕がなくて……」

 運営管理車で工藤を追いかける大八木監督の声は、聞こえていた。だが、そこに反応する余裕はなく、蛇行を繰り返す。その姿は、あまりにも痛々しかったが、工藤の頭の中には「もしかしたら」という思いもあった。3月の学生ハーフで同じ症状が出て、持ち直した経験があった。もしかしたら、また足が元に戻ってくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら思うように動かない左足と格闘していた。

「とにかく前へ、前へ、という気持ちで走っていました。左足はダメでしたけど、足そのものは動いていたので、絶対に止まらない、襷は絶対に繋げようと」

 襷の裏には主務を含めて部員50名の名前が書き込まれている。仲間のために、駅伝主将としての責任とプライドから、どんなに思うように動かなくても足を止めるわけにはいかなかった。

「中継所近くになると、より足がつらくなって……ほんとうに長かったです」

 8区の白頭徹也に襷を渡すと、その場で泣き崩れた。

9年ぶりにシード権を失い「すべて僕のせい」

 駒大は総合12位に終わり、9年ぶりにシード権を失った。レース後、ミックスゾーンでは、「ブレーキになってしまった。シード権を逃したのはすべて僕のせい」と沈痛な面持ちで語り、すべての責任を背負う工藤の姿があった。

「箱根駅伝という注目される舞台で(症状が)出てしまって、さすがに精神的に辛かった。4年生で最後の箱根でしたし、駅伝主将まで任されていて、あんな結果に終わってしまったのが本当にしんどくて……」

©Yuki Suenaga

 大会後、大八木監督は足の状態を心配して、いろんな治療院を紹介してくれたという。すでに実業団入りが決まっており、卒業後も競技人生は続いていく。タイムもなく、練習もついてこれなかった工藤を手塩にかけて、チームのエースに育てた。大八木監督にとって、工藤はとても思い入れの強い選手だったのだ。それは、箱根駅伝後に工藤の出走について問われた監督が、悩んだ中で最終的な決断に「情が入ってしまった」と述べていたことからも窺い知れる。

 そんな大八木監督を工藤も全面的に信頼し、言われたことを忠実にこなしてきた。

「大八木監督は、僕の恩師です。でも、今考えると監督に言われた練習をただやるのではなく、もっと自分なりに考えてやれていれば、良い方向に進んだのかなって思います。なぜこういう練習をするのか、この練習はどういう意味があるのか、監督にしっかりと聞けるぐらいに自分が競技に対してもっと真剣に向き合えていたら、もっと上に行けていたかもしれない」

 それでも信頼のおける指揮官の下で成長することができた。それがあったからコニカミノルタで陸上を続けることができるようになった。だが、卒業後の入社を前に「これからが楽しみだ」と思えてはいなかった。

大きい不安の中でも「もうやるしかない」

「今後の不安がすごく大きかったです。足の状態も変わっていないし、正直、(陸上を)続けられるのかと考えたりしました。ただ、治ると言われていたので、自分もその可能性があるなら全力で取り組もうと決意しました」

「もうやるしかない」。駒大に入学した時と同じ、強い決意を持ってコニカミノルタへ入社した工藤だったが、足の症状は出たり、出なかったり、一進一退を繰り返す。

 工藤がコニカミノルタのユニフォームを着て、レースに出場したのは、それから1年後のことだった――。

(【続きを読む】ぬけぬけ病、大ブレーキ、心の病「でも、もう吹っ切れました」 元駒大エース工藤有生が戦い続けた“苦悩の3年間”へ)

©Kenta.Onoguchi

文=佐藤俊

photograph by Yuki Suenaga