今回やってきたのは、中央線の三鷹駅である。

 三鷹駅、何を思い浮かべるだろうか。中央線ユーザーであれば、中央特快と快速が待ち合わせる駅、というイメージが強い。あとは総武線各駅停車の終点、といったところか。駅の外に出てみると、北口が武蔵野市、南口が三鷹市と分かれているから、少し前、時短営業の“境目”でも話題になった。駅の西にある跨線橋は太宰治も歩いたことがあるとかで有名だが、老朽化によって取り壊し云々と騒がれている。

スワローズの“消えた野球場”

 ……と、スポーツなどとはまったく関係のなさそうな三鷹駅である。駅の周りを少し歩いてみても、東京郊外の駅っぽい商店街があるくらい。いったい、三鷹に何があるのだろうか。

 ここで早々に答えを明かしてしまうと、三鷹駅から少し北に離れたところにかつてプロ野球の試合が行われた野球場があった。使っていたのは主に国鉄スワローズ。さらに野球場どころか、三鷹駅の先で中央線から分かれて球場の目の前まで運転される鉄道路線までもうけられていたのだ。さすが天下の国鉄のプロ球団、球場に線路まで引っ張ってしまったのである。

 もちろん、誰もが知っているように今は国鉄スワローズは東京ヤクルトスワローズになって、三鷹にプロ野球の球場などはない。その球場への鉄道路線なんてとうぜんとうの昔に消え失せている。ならば、その跡地はどのようになっているのか。三鷹駅から歩いてみようと思う。

野球場への“廃線”を歩く

 どうせ野球場の跡地に行くならば、そこに通じていた線路の跡を歩くのがいいだろう。そういうわけで、まずは廃線跡を探してみることにする。

 古い航空写真を見ると、三鷹駅から野球場への線路は駅の西側、件の太宰治の跨線橋の少し先から分かれていたようだ。三鷹駅北口から玉川上水を渡って線路際の道に出て5分弱。跨線橋の先に、何やら遊歩道のようなものが現れた。これが、かつての野球場への線路の跡なのだろう。

 遊歩道は「堀合遊歩道」と名付けられている。堀合とはこの一帯の地名のことで、跨線橋の近くにある線路をくぐる地下道も堀合地下道という。さっそく堀合遊歩道を進んでいくと、木々が生い茂って散策路は右に左に蛇行しながら伸びている。が、よくよく落ち着いて眺めてみると、全体的には大きな弧を描くような道筋だ。幅もクルマでいえば1車線には余るし2車線には足りないあんばいで、見る人が見れば「これは廃線跡だな」とすぐに指摘してくれそうな道である。

 とにかくこの道をしばらく歩く。ゆったりとしたカーブを描く道だから感覚としてはまっすぐ進んでいるようでも気がついた頃には北側へ方向転換。新武蔵境通りと並んで玉川上水を再び渡り、このあたりからは三鷹市から武蔵野市へと入る。武蔵野市側にも廃線跡の遊歩道は続いているが、こちらは堀合遊歩道ではなく「グリーンパーク遊歩道」という。住宅街の中のこの道を延々と歩いた先に、野球場があったのだ。野球場の名は「武蔵野グリーンパーク野球場」。遊歩道の名前に、しっかりといにしえの球場の歴史が刻まれている。

5万人以上の巨大スタジアムだった!

 堀合遊歩道からグリーンパーク遊歩道へと歩くこと約20分。住宅地が途切れたところで武蔵野中央公園という広々とした公園が現れた。ここが野球場の跡地か……と思いたいところだがお目当てはもう少し先にある。

 公園の中を抜けると巨大団地の中に入り、そこをさらに進んでいくと、団地の中の小さな広場がある。その傍らに、「武蔵野グリーンパーク野球場がここにあったよ」と教えてくれる説明書きが置かれている。

 スタンドの跡やホームベースなどはもちろんどこにもなくて、他にここに野球場があったことを伝えるものは団地を取り囲むカーブをした道路くらいだ。きっとこの道路は、野球場の外周道路だったのだろう。

 今は団地に生まれ変わっている武蔵野グリーンパーク野球場。それはどのような野球場だったのか。調べてみると、開場当時は新聞などに「東日本一の野球場」と謳われていたという。何しろ両翼91.4m、中堅128.1mという今の国内の野球場と比べても圧倒的な広さを誇り、収容人数は5万1000人(一説には7万人とも)。つまり、天下の甲子園球場もびっくりの巨大なスタジアムが三鷹にあったのである。

70年前、なぜ三鷹に野球場を作ったのか?

 武蔵野グリーンパーク野球場が開場したのは1951年のこと。前年に誕生していた国鉄スワローズが主に使うことを想定しており、観客輸送のための路線も時を同じくして誕生。野球開催日のみ運転される臨時列車専用路線だったようだ。

 といっても、いくら国鉄でも自らの(正確には国鉄の外郭団体が出資)球団のためにゼロから線路を敷くほどお人好しではない。というか、そんなことをしたら政治家もびっくりの我田引鉄。今の時代だったら大炎上間違いなしである。もちろん当時の国鉄にもそんな余裕はないわけで、この野球場への路線(武蔵野競技場前支線)は既存の線路を活用して設けられたものだった。

1950年1月25日、『国鉄スワローズ』として球団創立

 戦前から戦時中にかけて、野球場のあった一帯には中島飛行機の軍用機エンジン工場(武蔵野製作所)が広がっていた。いわゆる軍需工場である。当時の工場生産品の輸送は鉄道に依っていた部分が多く、工場への専用鉄道が敷設されるのが常だった。中島飛行機の工場にも専用線が敷かれていたのである。戦後の野球場への線路はこの専用線跡地を再利用した、というわけだ。

 野球場そのものも中島飛行機の工場跡地に生まれている。戦後、軍事関係の施設はことごとく進駐軍に接収されてしまって、中島飛行機の跡地も西側は米兵たちの住宅団地に生まれ変わっていた。残った東側がいち早く返還されて、そこに野球場が作られたのだ。

 当時、進駐軍に接収されていた施設は軍事施設だけに限らず、明治神宮野球場も米軍の管理下に置かれていた。神宮球場が使えない以上、他に使える都内の野球場は後楽園球場が精一杯。あとはせいぜい上井草球場くらいである。そんなところにプロ野球も2リーグに分かれて球団数が増え、隆盛期を迎えようとしていた。たくさんのお客が来てくれるはずの首都圏でも、圧倒的に野球場が足りていなかったのだ。そこで“新球団”国鉄のための球場として、進駐軍から返還された元軍需工場の更地に目がつけられた。そうして生まれたのが、武蔵野グリーンパーク野球場である。

16試合だけ…たった1年で使われなくなった理由

 武蔵野グリーンパーク野球場、経営していたのはその名も東京グリーンパーク株式会社。野球場の正式名称は「東京スタディアム」といったらしい。社長は東海大学創設者の松前重義、役員には武者小路実篤や近衛秀麿が名を連ねていたというからなかなかのものだ。かくして5万人規模の巨大スタンドと日本一レベルの広大なグラウンドを擁して、武蔵野グリーンパーク野球場は1951年5月5日こけら落とし。国鉄スワローズと名古屋ドラゴンズの試合が行われ、6対3で国鉄が勝利、あの400勝投手・金田正一が勝ち投手になっている。

 ところが、当初は年間180試合を目標にしてナイター用の照明も設けたというのに、ここで行われたプロの試合はたったの16試合にとどまっている。アマチュアの試合を含めてもわずか66試合。そして翌1952年からはもうプロの試合で使われることはなくなって捨て置かれ、1959年には廃止されてしまった。

1944年の上井草周辺の航空写真。真ん中左に上井草球場が見える 出典:国土地理院の空中写真

 豪華絢爛の設備を誇った東日本一の野球場がなぜわずか1年で消えたのか。どうやら、地盤の緩い関東ローム層の上に突貫工事で作ったために芝が根付かず、風が吹くと砂埃まみれになるほどの悪環境だったという。時には試合も中断したというから野球をするには劣悪すぎる環境である。それに、当時の人にしてみれば都心から遠い辺境の地。できることならば、選手も観客もここで砂埃にまみれながらの野球はしたくないし見たくなかったのだろう。

 さらに1952年には神宮球場の接収が解除され、川崎には川崎球場が誕生。武蔵野グリーンパーク野球場建設のきっかけだった“球場不足”が解消されてしまったのだ。そうなれば、わざわざ砂埃まみれの遠い地で野球をする理由は見当たらない。当時はまだフランチャイズ制が導入されておらず、少しでも集客力のある球場で試合をするのが常だったから、国鉄スワローズといえども武蔵野グリーンパーク野球場に固執する理由はなかったのである。

 そうして野球場はたったの1年で役割を終えて、同時に球場への観客輸送を担った鉄道路線もいつしか廃線となった。球場は1956年に解体されて跡地は団地に生まれ変わり、廃線跡は遊歩道に。わずかに当時の面影が残っているとはいえ、意識しなければ気がつくようなものでもない。団地の隣(つまり球場跡の隣)には武蔵野市役所が建ち、武蔵野市の陸上競技場や軟式野球場もあるが、それらはもちろん武蔵野グリーンパーク野球場とは関係がない。「緑町」という地名が、当時ここに“グリーンパーク”があったことをかろうじて伝えているだけだ。戦争と、それに次ぐ混乱の時代に生まれたたった1年だけの野球場。三鷹には、そんな歴史も刻まれているのである。

(写真=鼠入昌史)

文=鼠入昌史

photograph by KYODO