あの日から、もう四半世紀が経つ。アジアの女子選手が初めてウィンブルドンのシングルス準決勝の舞台に進み出たあの日から。そしてグランドスラムの決勝にもっとも近づいたあの日から――。

“学校テニスで育った”25歳が女王グラフに挑む

 この10年、アジアの女子テニスは新しい歴史の扉をダイナミックに開け放ってきた。2011年、全仏オープンで中国の李娜がグランドスラムにおけるアジア初のシングルス・チャンピオンとなり、3年後に全豪オープンも制した。2018年には日本の大坂なおみが全米オープンで頂点に立ち、李娜も到達しなかった世界1位に上り詰め、今では4つのグランドスラム・タイトル保持者である。歴史が生まれる瞬間はいつも感動的で、興奮に満ちている。しかし、彼女たちがどれほどの英雄になろうとも、またこの先、別の誰かによってさらなる快挙が成し遂げられようとも、90年代にまだ道なきところへコツコツと道を作った小柄なアジアの女王の姿を忘れないだろう。

 1996年7月4日、午後7時33分。ディフェンディング・チャンピオンであり第1シードのシュテフィ・グラフとともにウィンブルドンのセンターコートに姿を現したのは、当時世界13位、25歳の伊達公子だった。外国で英才教育を受けたわけでもなければ、恵まれた体格があるわけでもない。日本の〈学校テニス〉で育ち、かつてはインターハイ・チャンピオンであり全日本チャンピオンだった選手である。

日本人で初めてウィンブルドン準決勝に進んだ25歳の伊達公子 ©AFLO

グラフの豪快なフォアに伊達は……

 二人はロイヤルボックスに向き直り、片足を後ろへ引いて軽く膝を折った。当時は王室ファミリーが観戦するセンターコートへの入退場の際、男子はお辞儀、女子はこの跪礼を行うのが慣習だった。ウィンブルドンの持つ格式と品位がその一瞬の動作に集約されているといっていいだろう。数ある大舞台の中でも<聖地>という言葉がもっとも似合う場所、その中でも格別な一戦である。現在では女王陛下と皇太子が観戦する場合のみに残っている伝統だが、当時、伊達の初々しくも美しい跪礼にどれほど多くの日本人が胸を熱くしたことか。

 グラフのサービスゲームで始まった試合は、立ち上がりからグラフの豪快なフォアとキレのある片手バックのスライスが炸裂し、たちまちグラフの4-0となった。しかし伊達のテニスはいつもここからだった。

 地面にきわめて近い位置でボールの上がりっぱなをカウンターヒットする独特の〈ライジング打法〉は、インパクトのタイミングがきわめて難しく、相手のショットの性質やスピード、コートの状態に慣れてペースをつかむまでに一定の時間を要する。伊達がいわゆるスロースターターであった所以だが、ひとたびリズムをつかんで低軌道のフラットなショットを自在にコントロールし始めれば、その厄介さは対戦した選手なら誰でも知っていた。

相手の球がまだ十分に弾んでいない状態で、いち早く返球する〈ライジング打法〉が伊達の武器だった ©AFLO

 その年も準々決勝までの5試合のうち4つが逆転勝ちだった。それはもう予定調和のようなもので、過去6勝1敗と大きく勝ち越していたグラフも十分に警戒していたはずだ。伊達がグラフを7-6、3-6、12-10の死闘の末に破り、ひいては日本がドイツを破ったフェドカップ――〈有明の奇跡〉はわずか2カ月前のことだった。あの試合、伊達は第1セットを0-5からひっくり返したのだ。

 芝での対戦は初めてとなるこの準決勝の前、グラフは直近の敗戦の影を振り払うように「キミコのプレーは芝には適さない」と言い放ったが、それは間違いだった。滑るようにバウンドして相手側へ食い込んでいく伊達のフラットなショットは、球足の速い芝ではより効果を発揮する。伊達自身ものちに「私が芝を好きなわけじゃない。相手が芝で私のボールを嫌がるんです」と話したことがある。

 あとは、芝でのグラフのショットのスピードとパワーに慣れるまでにどれくらい時間を要するか、だった。第1セットを2-6で失い、第2セットも0-2。これ以上の時間を費やすわけにはいかない。そんなタイミングで突然ターニングポイントは訪れた。すぐにブレークバックすると、そこから6ゲームを連取。一番の見どころは、9回のデュースの末にブレークした第5ゲームだった。グラフの焦りと苛立ちは試合が進むにつれて顕著になり、女王らしくないミスが増えていく。決して威力があるように見えないのに、テンポの早い伊達のショットにあのグラフが一歩も動けない。

伊達の素早い返球にリズムを崩されるグラフ©AFLO

伊達に有利な戦況で「暗くてボールがよく見えなかった」

 いよいよ最終セットという局面、伊達とグラフの動きは対照的だった。 「最後の2、3ゲームは暗くてボールがよく見えなかった」というグラフは、主審のもとへ行って翌日への順延を訴えた。一方、「私は視力がいいので全然問題なかった」という伊達は、何の疑いもないようすで次のリターンのポジションに向かっている。

 グラフの要求が強引だったとはいいきれない。時刻は午後8時56分。第2セットの終盤にはレフェリーも日没状況を確認しに来ており、1セットの所要時間を少なくとも30分と想定すれば、そこでストップするのが無難だった。しかし、あのときもし形勢が逆で、女王グラフが「やれるところまでやりましょう」と提案したとしたら、どういう決断になったのだろうか。グラフはさっさと荷物をまとめにかかり、伊達は少し遅れてベンチに戻った。

 翌日のコート入りは11時。NHKが急遽、夜7時のニュースに代えてこの最終セットを中継した。グラフのサービスエースで始まった試合は、第5ゲームまで両者サービスキープで進んだが、伊達サービスの第6ゲーム、30-30からグラフが2ポイント連取でブレークに成功。前日よりもサーブが良かったというグラフに対し、伊達はブレークバックのチャンスを見出せず、26分で決着がついた。

「あのまま続けていたなら勝てていたと思うか?」に……

 1日目にあのまま続けていたなら勝てていたと思うか――伊達はこれまでの人生で何度その質問をされただろう。答えは試合後の記者会見からずっと一貫している。

「それは勝負だからわかりません。でもそのほうがチャンスはあったと思います。2セット戦って体が動いていたし、グラフのスピードにも慣れていたので、できれば続けたかった。彼女はナンバーワンだし、簡単には負けてくれないと思う。でももっといい試合にはなっただろうと思います」

 これは会見での言葉だが、そのときは語らなかったことで、のちに伊達がこの試合を振り返るときによく話すことがある。

「試合はすべて駆け引きで、それは観客や審判も巻き込んでの話になる。そのあたりをうまくコントロールできる術も選手には必要で、勝つために大切なこと」

当時の伊達公子(1995年撮影) ©BUNGEISHUNJU

 グラフが順延を強く訴えたことを匂わせているのはわかるが、それをむしろ肯定しているように聞こえる。しかし伊達はそんな駆け引きの世界をさらに突き進むことを拒み、この試合のわずか2カ月半後に突然引退を発表した。

今もなお、伊達公子は“アジアの女王”である

 あの年、7度目のウィンブルドン優勝を果たしたグラフからセットを奪ったのは伊達だけだった。そしてのちのアジアのスターたちもウィンブルドンでは伊達を超えてはいない。今なお私たちがセンターコートに思い浮かべるアジアの女王といえば、夕闇の中でグラフを追い詰めていったあのときの伊達公子である。

文=山口奈緒美

photograph by Getty Images