紡いでいく言葉の細部から、故人の体温が伝わってくるようだった。語り部たちが、故人との記憶を紐解いていった。ほとばしるような生前の息遣いが聞こえてくるようで、その存在を間接的に共有できた。それほど深く、鮮明に心に刻まれている先人だったのである。

 北海道日本ハムファイターズは7月5日、訃報に接した。

 東京ドームを本拠地とした日本ハムファイターズ時代に監督も務めた大島康徳氏が6月30日に逝去されていたことが、公表された。それぞれの中にはエネルギッシュで、ポジティブで、生命力にあふれた大島氏が、今も生きているのである。

 野球人生の晩年を、ファイターズで過ごした。1988年、中日ドラゴンズからトレードで入団した。当時37歳。既に球界を代表する打者の1人だった。43歳の1994年シーズン限りで引退するまで、パ・リーグで下位に低迷していたチームへ刺激を与え、ベテランとして改革のために注力し続けたそうである。

 当時ともにプレーし、現在は査定担当を務める五十嵐信一氏は回想する。守備は一塁が主戦場で、同じ右打者で代打の切り札も担った。その役回りは大島氏と、重なっていたという。ライバルの先輩だったのである。五十嵐氏が頭角を現せば、自身の出場機会が脅かされる可能性がある。それにも関わらず、大島氏は惜しげもなく打席での思考、打撃の技術や理論を伝授してくれたという。

「優しかったよね。『小出しにな』とか言いながらだけど、代打の極意とかいろいろアドバイスしてもらった。『追い込まれてからすべての球種に対応しようとしても打てない。相手の決め球に絞るか、そうしないか。どちらかにしないと』とか、いろいろ教えてもらった」

 導きから、劇的に変わったケースがある。五十嵐氏が苦手としていたのが、オリックス・ブルーウェーブの技巧派サウスポーの星野伸之氏だった。独特の軌道を描く、大きな変化をするスローカーブが特長。その球種への対応に、苦慮していた時である。右打者であるため攻略の手札として起用されることが多かったが、応えられないことが多かった。大島氏からの1つのアドバイスで、開眼したそうである。

 カーブを待ち切れずに体勢を崩されるのが打ち取られる際のパターン。通常時よりも早めに左足を踏み出すようにステップをアレンジして対応するように進言されたことで、その宝刀を快打できることが増えたという。

「星野のカーブが怖くなくなったので、そこからストレートとかも含めて少しずつ打てるようになっていった」

 大島氏が、監督に就任してからはコーチとして仕えた。「大島さんには、よく『シンイチ、教え方がなってない』と。とにかく、熱い人だったから」と笑う。現役時代、そして指導者としても、大きな心に包み込んでもらったのである。

「野球は最後まで何が起きるか分からんぞ」

 野球人生のスタートラインから、すべてを学んだ人もいる。

 OBで愛称「ガンちゃん」の岩本勉氏は現役をともにし、エースとして監督時代の大島氏と戦った1人である。ルーキー時代の初対面は、合宿所の風呂場だった。扉を開けると、球団のスター選手の大島氏と遭遇したという。

 高卒新人の18歳は思わず「大阪の八尾っちゅうところから来ました岩本です」と挨拶したという。すると、たしなめられたという。岩本氏は述懐する。

「大島さんに『八尾というところから来ました』と言え、と。ちゃんとした日本語を使う大切さということを、まずは学びました」

完投勝利を飾った岩本を手荒く迎える大島監督 ©︎Sanukei Shimbun

 投手と野手ではあるが、一流のプロ野球選手のすごみ、姿を目の当たりにして感化されたという。あるシーンが、今も脳裏に残っている。岩本氏によれば「4、5点ビハインドくらいで、もう7回か8回の終盤」という展開の一戦。敗色濃厚だったが、ベンチ裏のスイングルームで代打の準備をしている大島氏から、こう声を掛けられたという。

「ガン、野球は最後まで何が起きるか分からんぞ。辛抱していけ」

 大島氏に目をやると、汗びっしょりになって準備をしていたという。

「野球マンガとかでバットを振る時によく表現されるような『ギュッ』、『ギュッ』っていう音が、本当に聞こえてきた。あれには、びっくりした」。

 大島氏がバットのグリップを両手で力いっぱいに絞り上げて素振りをすると、現実世界では耳にしたことがないような音が響いてきたのだそうだ。

 94年、大島氏の引退試合の一コマもはっきりと覚えている。まだ試合中盤、ベンチを覗きにいくと、既に野手たちの涙腺が決壊していたという。岩本氏は「5回とか6回くらいじゃなかったかな。試合中なのに、みんな泣いているんですから。大島さんと今日で野球をできなくなるって、後輩たちが。あれは、感動しました」。

 岩本氏は、しみじみと言う。

「喜怒哀楽は豊かだったけれど、落ち込んでいるところは見たことがない。それは、みんなと話していたんですよ。そして最後の1アウトまで、あきらめなかった。病気と闘っている時も、そうだった。ホンマ、カッコ良かった」

1994年9月28日の引退試合でナインに胴上げされる大島康徳 (c)KYODO

愛情がないと叱ることはできない

 監督としての大島氏のイズムは、継承されていく。

 選手として仕え、ファイターズの指導者になった1人が、上田佳範外野守備走塁コーチ。「一番、しかられた選手じゃないかな。褒めてもらった記憶がない」と自認しているが、そこには深い愛情を感じていたという。上田コーチを主力へと一本立ちさせようと、とにかく厳しかったという。試合中に走塁ミスなどでベンチへと戻れば「バカヤロー!ヨシノリ!」と面罵されるのは、日常茶飯事だったという。

 試合前の打撃練習ではケージの後ろに大島氏が陣取り「昨日、あの場面でお前が打っていたら勝てた試合だった」など執拗に、口撃された。見かねたコーチがフォローしてくれることもあったというが、その言動に潜む思いも理解していた。上田コーチは、同じ指導者になって理解できたことがある。

「しかる時は、しかる。それは愛情がないとできないことだと、今になって分かる。この立場になって、その姿は参考にしている」

 大島氏は2000年から3年間、監督を務めた。小笠原道大ヘッドコーチ兼打撃コーチも、主力選手として同じ時代を生きた1人である。

 激情家で、勝敗に強く執着する指揮官としての姿は印象深い。「抗議か、何かだったかなぁ。大島さんがベンチから飛び出した瞬間に、肉離れしたことがあって。足を引きずっていたのは、記憶にあるなぁ」と笑い、懐かしむ。

 監督を退任後も、連絡を取って助言を請うなどサポートをしてもらってきた。家族ぐるみでも交流があり、かけがえのない恩師の1人である。がんを患ったことをオープンにして、病と闘う姿を目に焼き付けてきた。小笠原コーチがファイターズに復帰した際には「俺も、いつでも現場に戻る準備できているから」などと言葉を交わし、旧交を温めていた。

 小笠原コーチは感服し、悼んだ。

「心の強さがある。最期まで、変わらなかった」

現役時代の大島康徳(c)Sports Graphic Number

 死去の報から一夜明けた7月6日、旭川スタルヒン球場。埼玉西武ライオンズ戦は半旗、黙祷で故人を偲び、喪章をつけてプレーした。

 9回2死から、高濱祐仁選手がサヨナラ打を放った。不沈の埼玉西武ライオンズの平良海馬投手からドラマを生んだ。 

 あと1アウト、最後まで諦めずに白星を追った。

 大島氏が主な持ち場とした一塁で出場した、同じ九州男児で右打者が主役を張った。

 遺志が宿った――。そう信じてしまう一夜だったのである。

文=高山通史

photograph by KYODO