東京で行われる2回目のオリンピックが、ようやく開会式の日を迎えた。いろいろのゴタゴタやどの競技で日本人選手がメダルを獲りそうか、については別の記事を見ていただくとして、今回の主役はオリンピックスタジアム、である。

 1964年のオリンピックでも、そして今回のオリンピックでも、メインスタジアムは国立競技場だ。建て替えられてはいるが、どちらも同じ場所にある(新旧)国立競技場。脇道に逸れそうなエピソードが今回のオリンピックには多すぎて困りものなのだが、とにかく国立競技場は2回目のオリンピックスタジアムを経験するのだ。

2019年12月に開場した新国立競技場。建築家・隈研吾氏によるデザイン

「国立競技場どこが“最寄り駅”か」問題

 で、ここで問題がある。国立競技場、どの駅が最寄り駅なのか――。

 この問題は国立競技場に限らず、同じく神宮外苑にある神宮球場などにも共通する悩みどころだ。国立競技場ならば、距離がいちばん近いのは都営大江戸線の国立競技場駅。その次にJR千駄ケ谷駅で、次いでJR信濃町駅もある。青山通り方面からならば少し歩くが地下鉄銀座線の外苑前駅、または副都心線の北参道駅という手もある。

 つまり、“国立競技場に来るならこの駅を使ってくださいね”とばかりに設えられた駅は意外となくて、近隣のどの駅もどちらかというと“地味”な駅ばかりなのだ。中でも気になる存在が、千駄ケ谷駅である。都営大江戸線の国立競技場駅は千駄ケ谷駅の駅前にあるから、ほとんど同じ駅といっていい。つまり、千駄ケ谷駅が国立競技場の玄関口と言える。

JR千駄ケ谷駅には何がある?「将棋の駅でもあるんだなぁ」

 ところが、この千駄ケ谷駅は中央線の各駅停車、黄色いラインの電車しか停まらない。いわゆる橙色ラインの中央線快速はさっそうと通過してしまう。おかげで利用者数(1日平均の乗車人員)も少なくて、2020年度はたったの1万141人。お客が少ないのはコロナのせいだろうとは想像もつくが、2019年度にしても1万6452人に過ぎない。

 天下の国立競技場、6万人が集まるようなスタジアムの玄関口がそんなにちっちゃくていいのだろうか。駅の立場になってみても、普段はあまりお客がいないのに、何かあると急にたくさんの人が押し寄せてきてしまってアップアップになってしまうに違いない。今回のオリンピックに合わせてホームやコンコースが少し広くなったが、それでも5万人のスタジアムの最寄り駅にしてはどうにも小さい。いったい、どうしてこの千駄ケ谷駅が国立競技場の玄関口になったのだろうか。

 このナゾに答えを出す前に、少しだけ千駄ケ谷駅前を歩いてみることにする。新宿駅で中央線快速から黄色い各駅停車に乗り換えて2駅。あっという間に千駄ケ谷駅に着く。ホームの向こう側(北側)には緑が生い茂る森。地図を見るとこれは新宿御苑である。階段を降りてコンコースを少し歩いて改札へ。

 その途中に、でっかい将棋の駒が飾られたコーナーがある。千駄ケ谷駅が将棋会館の最寄り駅、ということで設けられた将棋コーナー。以前はホームの上に駒のオブジェが置かれていたが、駅のリニューアルに伴ってコンコースに将棋コーナーができた。「千駄ケ谷駅」と書かれた達筆の文字は、羽生善治九段によるものだという。この将棋コーナーを見て、国立競技場を目指す人たちは「ああ、ここは将棋の駅でもあるんだなあ」と思いを巡らす。

 改札口を出ると、すぐ頭上には首都高新宿線が走っている。首都高の下をくぐった先には、津田塾大学の千駄ヶ谷キャンパスと東京体育館。この体育館もオリンピックの会場のひとつだ。そして東京体育館の脇を抜けて少し歩くと、国立競技場が見えてくる。駅を出て高速道路の下をくぐってスタジアム。まるで阪神甲子園球場みたいである。

なぜ「スポーツ」も「伝統文化」も根付いたのか?

 将棋コーナーでもわかるとおり、千駄ケ谷駅にあるのは東京体育館や国立競技場だけではない。体育館側、つまり明治神宮外苑側の反対側には、閑静な住宅地ともいいたくなるような静かな街並みが広がっている。その中には件の将棋会館や鳩森八幡神社、国立能楽堂などがある。入り組んだ路地をずっと歩いていくと明治通りに出る。そこからさらに少し歩けば、原宿駅も実はそれほど遠くない。コロナ前、神宮球場で我らがタイガースが敗れた夜に、適当に酒を飲みに行ったのはこのあたりのどこかにあった店である。

 ともかく、千駄ケ谷駅から南西、明治通り方面にかけてのエリアは国立競技場などがある神宮外苑とはまったく違う空気が漂っている。緑豊かでスポーツマンようこそ!と言わんばかりの神宮外苑と、静かで時の流れもどこかゆったりとした古き住宅地と商店街。将棋会館や能楽堂といった伝統文化にまつわる施設があるのも、この一帯の街の雰囲気を特徴づけている。

 体育館や国立競技場、神宮球場、つまり神宮外苑側と住宅地側のコントラスト。千駄ケ谷駅のこれは、いったいどういうことなのか。ここで千駄ケ谷駅の歴史をたどってみることにしよう。

“117年前”の千駄ヶ谷駅には何があった?

 千駄ケ谷駅が開業したのは、1904年のことである。当時は中央線ではなく、甲武鉄道という私鉄の駅だった(甲武鉄道は1906年に国有化されている)。このとき、千駄ケ谷駅の駅前には何があったのだろうか。

 当時、千駄ケ谷駅前には徳川家達邸があった。徳川家達は徳川宗家の第16代当主。明治初期、1877年にこの地に家族で転居しており、あの大河ドラマでもおなじみの天璋院篤姫もここで最期まで暮らしている。そして国立競技場などがある神宮外苑はというと、青山練兵場という陸軍の施設であった。

 神宮外苑は正しくは明治神宮外苑、明治神宮の敷地である。明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祀った神社で、1920年の創建だ。だから、まだ明治時代の1904年には神宮外苑などあろうはずがない。開業当時の千駄ケ谷駅の目の前には青山練兵場、陸軍の兵隊たちの訓練施設が広がっていたのである。

 この青山陸軍練兵場は、1886年に日比谷から移転している。日比谷練兵場の跡地は現在の日比谷公園だ。日清・日露の両戦争も青山練兵場で訓練を積んだ兵隊たちが戦った。日露戦争後には戦勝記念の博覧会を開催する予定もあったという(実際にはポーツマス条約で賠償金を獲得できず、博覧会も開かれなかった)。そして明治神宮の建設が決まると外苑の敷地になることが決まり、練兵場は代々木に移転した。代々木練兵場の跡地はワシントンハイツを経て1964年のオリンピックで選手村となり、今では代々木公園だ。歴史はつながっているのである。

青山練兵場(1886年〜1926年頃) ©KYODO

中央線の始まりは「軍事輸送」だった

 ともあれ、そんな練兵場を横目に開業当時の中央線は走っていた。ただ、実は千駄ケ谷駅は中央線が甲武鉄道として開業して練兵場の脇を通るようになってから数年遅れての開業であった。この甲武鉄道の開業にも、青山練兵場が大いに関係している。甲武鉄道(中央線)が新宿から都心方面へ乗り入れるにあたり、当初は今とはまったく違うルートが計画されていた。ざっと言えば新宿御苑よりも北、現在の都営新宿線のあたりを通るルートだ。最初はその計画で決定するも、着工が遅れている間にそのルートでの建設が難しくなってしまう。そこで現在の中央線のルートに切り替えられたのだが、背景にあったのが青山練兵場。その脇を通過することから、軍事輸送のための駅を設けやすいということになったのだ。

 実際、甲武鉄道が建設を進めているさなかに日清戦争開戦の機運が高まり、いち早く練兵場まで開業するよう陸軍から求められている。新宿〜青山軍用停車場間で開業したのは1894年9月23日。開戦の約2カ月後のことであった。青山軍用停車場は、いまでいうと千駄ケ谷〜信濃町間のほぼ中間。開業の6日後から兵隊の輸送が行われている。

 青山軍用停車場は1896年をもっていったん役割を終えるが、その後もほぼ同じ場所に仮の停車場が2度開業している。最初は1897年で、英照皇太后の大喪の礼、2度目は1912年で明治天皇の大喪の礼である。どちらも霊柩列車の始発駅であった。

そして国立競技場の“前身”ができた

 このように、最初は千駄ケ谷駅は存在すらしていなかった。国立競技場も千駄ケ谷駅もない、そうした時代がほんのわずかだがあったのだ。

 そして1904年に千駄ケ谷駅が開業。明治神宮外苑は関東大震災を経て1926年に完成した。それに先立つ1924年には明治神宮外苑競技場も竣工。いわば国立競技場の“前身”だ。1943年、出陣学徒壮行会が行われた、その競技場である。

 戦後、明治神宮外苑競技場はGHQによる接収を経て返還され、1953年にはサッカーワールドカップの予選、日韓戦にも使われている。そして1958年のアジア大会が東京で開催されることが決まると、国立競技場に建て替えられることになった。その後は、1964年のオリンピック、そしてまたも建て替えられて現在のオリンピックスタジアムという流れである。

 この間、特に千駄ケ谷駅には大きな変化があったわけではない。むしろ、開業当時は近くに練兵場があるくらいの小さな駅として生まれたに過ぎず、勝手に練兵場が移転して競技場ができて、その競技場が何度かの変遷を経つつもオリンピックスタジアムになってしまった、というほうが正しいだろう。オリンピックと同じ年、1964年8月には首都高新宿線が開通、“駅を出たら高速道路”という構造はそのときからのものだ。

 ちなみに、将棋会館が千駄ヶ谷にできたのは1961年、国立能楽堂は1983年だ。将棋会館ができた頃の千駄ヶ谷には、連れ込み旅館がたくさんあったという。米兵が暮らしたワシントンハイツから程よく離れた千駄ヶ谷は、そうした場所だった。それが1964年のオリンピックで姿を消し、ファッションの街・原宿の後背地としてアパレル関係の企業も増えた。良くも悪くも、千駄ケ谷駅は小さな駅のままでオリンピックという歴史に左右されてきた存在なのである。

(写真=鼠入昌史)

文=鼠入昌史

photograph by Masashi Soiri