リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドといった多くのビッグネームの移籍が成立し、激動の夏となった今年の欧州移籍市場だが、日本のサッカーファンにとって最大のサプライズとなったのは日本代表DF冨安健洋がイングランド・プレミアリーグの名門アーセナルへと電撃移籍したことだろう。

 夏の移籍市場最終日である8月31日、英国時間の昼頃にアーセナル移籍の報道が出ると、その日の夜にはもう冨安はアーセナルの選手となっていた。

 クラブの規模や世界的な知名度から言えば、冨安にとってアーセナル移籍というのはステップアップであり、大きな挑戦だといえる。

 ただし、彼のアーセナル移籍を機に久々にプレミアリーグの順位表をチェックしてみた、という方がいたとしたら驚かれたに違いない。

 今のアーセナルにかつての面影はなく、開幕3試合でチームは1得点も上げられず3連敗(そして最下位)と大不振にあえいでいる。

 ここ5年間は一度もトップ4には入れておらず、欧州のエリートクラブの象徴ともいえるチャンピオンズリーグへの出場権も得ていない。

 10年以上アーセナルを応援し続けている筆者としてはこんなことを言うのも非常に心苦しいのだが、伝統ある名門ではあるものの、最近の成績だけを見れば、アーセナルはもはや強豪とは言えないかもしれない。

“ベンゲルの22年間”からの迷走

 不振の原因に関しては多くの要因が絡み合っており、一つを挙げることは難しいが、多くの問題点がクラブがアーセン・ベンゲル時代(1996〜2018)からのスムーズな移行体制を整えられなかったということに端を発しているように感じられる。

 アレックス・ファーガソン後のマンチェスター・ユナイテッドがかつてほどの強さを取り戻せていないことからもわかるように、やはり伝説的な長期政権を築いた監督の後を継ぐ体制を整えるというのは非常に難しく、アーセナルも現代的なクラブ組織への移行に失敗してしまった。

 クラブの迷走が最も顕著に見て取れたのが、2019/20シーズンのウナイ・エメリ解任からミケル・アルテタの任命までの一連の流れだった。

 ベンゲルの後を継いだエメリにクラブを託すというプロジェクトが失敗に終わってしまったわけだが、彼の解任から次期監督の選定までに長い時間がかかっただけでなく、その間暫定で指揮を執ったフレディ・ユングベリにクラブは満足にコーチングスタッフも用意できず、チームドクターのオドリスコールとアカデミー部長のメルテザッカーが暫定的に監督をサポートしていた。これを見るに、クラブのオーナーと上層部に何かよりどころとなるような明確な方針があったようには思えない。

 また、昨年8月には当時アーセナルでサッカー長を務めていたラウール・サンジェイがクラブを去ったが、夏の移籍市場の真っ最中に選手獲得の責任者である人物がクラブを去るというのはクラブがスマートに運営されている証からは程遠いだろう。

ベテランの補強で「賭けに負け続ける」

 これと並行するような形で、ベンゲル時代終盤から、アーセナルでは将来を見据えたというよりも、当座のチームの穴を埋めるような、その場しのぎともいえる応急処置的なベテランの即戦力の補強が目立ち始めた。

 ルーカス・ペレス、ムヒタリアン、ラカゼット、ソクラティス、オーバメヤン、リヒトシュタイナー、セドリク・ソアレス、パブロ・マリ、ダビド・ルイス、ウィリアンと名前を挙げていけばきりがない。

2018年1月に加入。大きな印象を残すことなく2019年夏にクラブを去ったムヒタリアン

 もちろん、即戦力の補強が悪いということではなく、チームの強化において必要なものではある。だが、選手としてのピークを迎えている年代の選手の獲得というのは活躍が見込める期間が短く、かつ高給のため放出が難しいというリスクを孕んでいる。

 獲得を一つ一つ見ていけば成功したものもあるが、総合的なクラブ戦略という意味ではアーセナルは短期的な戦力強化からのCLの舞台に返り咲きを目指す、という賭けに負け続けてしまった。

 さらにダビド・ルイスやウィリアンの獲得をはじめとする即戦力・ベテラン志向の選手補強の傾向が、(将来的なポテンシャルを見据えてのものであると思われた)監督未経験のアルテタをトップに任命した後も続いたのは非常にちぐはぐなものに感じられた。

この夏は「23歳以下を6人獲得した」

 しかし、この夏アーセナルはようやく長期的な将来も考慮したビジョンに基づいて動いているという兆しを見せ始め、選手獲得戦略に関しては劇的な方向転換を行った。

 この夏だけで6人の獲得を行い、移籍金に費やした総額はプレミアリーグ全クラブ中トップとチームの大幅な刷新に乗り出したのだが、獲得した6人全員が23歳以下の選手だったのだ。

 青田買いと育成のアーセナル、という時代を懐かしむファンにとっても嬉しいサプライズだったといえるだろう。

 イングランド代表のラムズデールとベン・ホワイトの2人は23歳、ローンからの再獲得となったウーデゴールは22歳、ロコンガとタバレスの2人は21歳で、これらの若手中心の補強の最後のピースとなったのがボローニャからの冨安健洋の獲得だった。彼もまだ22歳で、アーセナルの若手志向の方針とも合致している。

冨安の“約30億円”は異例ではない

 英スカイスポーツによると、冨安獲得にアーセナルが支払う移籍金はボーナス込みで最大2300万ユーロ(約30億円)に達する見込みで、これは岡崎慎司や香川真司といった選手たちの移籍金を上回り、プレミアリーグのクラブに移籍した日本人選手としては歴代最高額の移籍金となる。

 DFである冨安に2000万ユーロを超える移籍金がついたのはかなり高額にも感じられるが、これに関してはそもそもプレミアリーグ全体で移籍金の相場が高騰しているというのを考慮に入れる必要があるだろう。

 近年アーセナルが獲得したDFで言えば、ティアニー、ガブリエウ、サリバといった選手たちは全員2000万ユーロ以上の移籍金が支払われており、今の時代にはDFに高額の移籍金が支払われるのはそこまで異例のことではない。

 冨安のように、22歳にして既にA代表で20試合以上出場、セリエAで50試合を超える出場経験がある将来有望な選手の移籍金としては2300万ユーロというのは特に法外な額ではないように感じられる。

 この夏に約5000万ポンドの移籍金で獲得されてきたベン・ホワイトのように、移籍金のせいで大きなプレッシャーがかかり、活躍の足かせとなる可能性がある、というほどの金額ではないはずだ。

右サイドバックに“困っていた”アーセナル

 冨安はキャリアを通して様々なポジションでプレイしてきた選手だが、現在のチーム状況からして、アーセナルで想定されているのは恐らく右サイドバックとしてのプレイだろう。

 まず期待したいのは、開幕3試合で9失点と、半ば属人的ともいえる失点の形も目立つアーセナルの守備の改善だ。

 今季アーセナルの右サイドバックとしてプレイしているのはチェンバーズとセドリクの2人だが、2人とも守備に難があり、攻撃面ではそれぞれ得意分野はあるもののここまで監督を納得させるようなパフォーマンスは見せられていない。

 その点冨安は守備の本場ともいえるイタリアで、CBとしてもサイドバックとしても結果を残してきた選手であり、アーセナルで右サイドバックとして起用されることになれば、守備面、特に空中戦の強さでライバルたちを何歩か上回っているのは間違いない。

 長身でスピードもある冨安であれば、フィジカル面を理由にプレミアリーグに適応できないという可能性は低いだろう。

 もちろん期待されているのは守備だけではない。ボール前進能力も高いモダン型のDFであり、戦術理解度が高く献身的なプレイが見せられるといった点でも、冨安はまさにアルテタ監督が好むタイプの選手だ。

現地記者は「バカリ・サニャを思い出す」

 冨安のアーセナル移籍は、この夏3人目のDFの獲得だったということもあり、そこまで熱狂的に迎えられたというわけではないが、現地ファンの間では概ね好意的に受け止められている印象だ。

 特にジャーナリストやプレミアリーグだけではなく他国のリーグも観戦するような層からの評価は高い。

 英国ファンの間では「冨安獲得に対して少し物足りなさを覚えた」という反応もあったが、これは冨安の評価というよりもむしろ、夏の間にアーセナル移籍の噂が出たのがマックス・アーロンズ(ノリッジ)やハキミ(PSG)といった攻撃的な右サイドバックであった、というのが大きな理由だろう。

 伝統的に攻撃サッカーを好むアーセナルで右サイドバックを務める選手としては「ファイナルサードでの貢献などには物足りなさが残る」という意見があるのかもしれない。

 攻撃的な右サイドバックも見たかったが、現状のアーセナルを見るに守備のテコ入れも必要で「右サイドバックが誰も来ないよりは遥かに良い」といった少々複雑な気持ちで冨安獲得を受け止めたファンもいるようだ。

 ただ、冨安が得点やアシストを量産するタイプの選手ではない以上、もし冨安が想定されている通り、守備力が高くビルドアップに貢献できる右サイドバック、といった立ち位置で起用されるのであれば、チーム全体の攻撃が停滞しているような状況ではそのような選手が高評価を受けるイメージは湧かない。

 逆にチームの攻撃の仕組みさえうまくいっているのであれば、空中戦に強く、守備力のあるDFというのはむしろイングランドで好かれるタイプの選手であるように思える。

 英メディアThe Athleticのマクニコラス記者は「冨安の獲得は少しバカリ・サニャを彷彿とさせるところがある」と述べていたが、確かにサニャもまた守備がうまくゴールキックのターゲットとなれるほどに空中戦に強い選手で、アシストや得点が多かったわけではなかったもののファンから高い評価を受けた右サイドバックだった。

稲本、宮市、浅野……とは異なる点

 アーセナルのテクニカルディレクターのエドゥはインタビューで「実際に起用を決めるのはアルテタだが、冨安は即戦力となれる選手だ」と語っていたし、冨安の獲得はスカウティング部門よりもむしろ監督のアルテタ主導で行われたものだと報じられている。

 そう言った意味では、冨安は監督とテクニカルディレクターというチーム編成を担う2人から高評価を受けているはずで、アーセナルで出場機会が得られないのではないか、という心配はあまり必要ないだろう。

 むしろ今季いきなり台頭し、レギュラーの座をつかみ取ることも十分考えられる。

 アーセナルの低迷を示しているともいえるのかもしれないが、この点が稲本潤一や宮市亮、浅野拓磨といったアーセナルに所属した選手たちと冨安がおかれた立場の最も異なる点だ。

 上の選手たちは皆、レギュラー争いに食い込めれば成功、という挑戦者の立場でプレイしていたが、冨安健洋はかつての栄光を取り戻そうと苦心する名門の救世主となることを期待されているのだ。

 アーセナルでプレイする選手にはいつだってプレッシャーがかかるものだが、冨安健洋には過去にアーセナルに在籍した日本人選手たちとは全く異なる種類のプレッシャーを背負ってアーセナルでプレイすることになるに違いない。

 いち日本のアーセナルファンとして、冨安健洋にはアーセナル復権のキーマンとなってくれるような活躍を期待したい。

文=山中拓磨

photograph by Getty Images