2021年上半期(3月〜8月)、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。ボクシング・格闘技部門の第4位は、こちら!(初公開日 2021年6月25日/肩書などはすべて当時)。

 かつて全日本プロレスで“完全無欠のエース”と呼ばれたジャンボ鶴田が49歳の若さで亡くなってから21年。今年も全日本の6.26大田区総合体育館大会で、「ジャンボ鶴田メモリアルマッチ」が行われる(当初5月16日に開催予定の大会が緊急事態宣言延長により日程変更)。

 旧・大田区体育館は、1989年4月18日に鶴田がスタン・ハンセンを破り、インターナショナル、PWF、UNのヘビー級三冠統一をはたした縁のある会場。来年、創立50周年を迎える全日本では、この大会に「2021 Champions Night〜三冠統一の地から50周年への飛翔〜」というタイトルをつけており、団体としても鶴田のメモリアルを大事にしていることがうかがえる。

天龍革命は“眠れる怪物”を覚醒させた

 ジャンボ鶴田は、1972年のミュンヘンオリンピックにグレコローマンレスリング100kg超級日本代表として出場後、旗揚げ間もない全日本プロレスに入団。約10カ月のアメリカ修行後、翌73年10月に日本デビューすると、ジャイアント馬場に次ぐナンバー2として若くしてメインイベンターとなり活躍した。

 そして80年代半ばからは、馬場に代わって押しも押されもせぬ全日本のエースとなり、80年代末の天龍源一郎との抗争や、90年代初頭の三沢光晴ら超世代軍との闘いでは、その圧倒的な強さから“怪物”と呼ばれるようにもなった。

 デビューから常にメインイベンターだった鶴田だが、じつはその強さや実力が、本当の意味でファンに評価されたのは、天龍と抗争を展開した80年代末以降。それ以前は、歴代NWA世界ヘビー級王者や、大物外国人レスラーをあと一歩まで追い詰めながら、ピンフォール勝ちを逃してきたことで、“善戦マン”というありがたくない異名もちょうだいしていた。

 また、体格と才能に恵まれながら気迫を前面に出さず、常に余裕を持った闘いをしていたことで、入団の時に発した「全日本プロレスに就職します」という言葉尻を捕らえられて、“サラリーマンレスラー”と揶揄されることも多かった。

 1987年から始まった天龍革命は、天龍源一郎が、そんな“眠れる怪物”である鶴田を怒らせ、目覚めさせることで全日本の活性化を目指した運動で、天龍の思惑通りここから鶴田は覚醒。プロレスラー鶴田と、全日本という団体の両方が、90年代に最盛期を迎えることとなる。

天龍革命の前に鶴田をキレさせたレスラー

 その鶴田を、じつは天龍革命が起こるよりも前に試合中にキレさせ、その怪物性を引き出したレスラーがいる。当時、ジャパンプロレスの若手有望株だった仲野信市だ。

仲野信市

 仲野信市は、1980年に新日本プロレスでデビュー。ヤングライオン時代は同期のライバルだった高田延彦(当時・伸彦)らとしのぎを削り、84年に新日本退団後、85年1月からは長州力らとともにジャパンプロレスの一員として全日本に参戦。その後、87年春に長州たちが新日本に復帰したあとも全日マットに残り、ジャパンプロレスのナンバー2として谷津嘉章のパートナーに抜擢された。

 そんな時に組まれたのが、1987年4月23日の新潟市体育館でのジャンボ鶴田&天龍源一郎vs.谷津嘉章&仲野信市のタッグマッチだ。

 この試合で、仲野がコーナー最上段から放ったミサイルキック(ドロップキック)が鶴田の顔面を直撃。これによって口と鼻から出血した鶴田は明らかに顔色が変わり、仲野を力づくでマットに叩きつけると、ジャンピングニーパッドを鋭角的にアゴに突き刺し、最後は急角度のバックドロップで投げ捨て、仲野をKOした。

 この時の鶴田のジャンピングニーパッドとバックドロップは、明らかに普段と比べて、スピード、角度ともに鋭く強烈な一撃。鶴田の真の恐ろしさが垣間見られたのと同時に、仲野も「あの鶴田を怒らせ、本気にさせた男」として、注目された。ある意味での出世試合となったのだ。

「そんなことをしてないで、みんなと一緒に練習しろ」

 以前、筆者が仲野にインタビューした際、あの“鶴田をキレさせたミサイルキック”は、じつは全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場のアドバイスによるものだったと語っている。

「長州さんたちが新日本に戻り、ジャパンプロレスが事実上、全日本に吸収されたあとも、僕は意地を張って全日本の合同練習には参加せず、一人でスクワットしたり、走ったり、基礎的な練習をしていたんですよ。

 そうしたらある日、馬場さんから『そんなことをしてないで、みんなと一緒に練習しろ』『お前は、コーナーからのドロップキックを練習してみろ』って、言われたんです。それからハル薗田さん(故人)にコーチしてもらって、毎日、ドロップキックの練習をやるようになって。そんな時に鶴田さんとタッグで当たったので、『ドロップキックを練習した成果を出すぞ』と思ったんですよ」

鶴田を見て「これは、やべえ」と思った

 馬場からすれば、谷津の正パートナーとなった仲野に対し、「今後は前座ではなくメインイベントに出場する機会が増えるから、見栄えのする大技を身に付けろ」ということだったのだろう。そして馬場の助言により磨かれたミサイルキックは、予想以上の効果を発揮することとなる。

「それまで鶴田さんとは何回かやったことはあったんですけど、いつも余裕でもてあそばれてる感じだったんです。だから『今日は思い切ってやってやれ』と思ってミサイルキックをやって、鶴田さんの顔を見たら、口から血が出て人相が変わってるんですよ。『これは、やべえ』と思ってね(笑)。

 案の定、すぐにとっ捕まって、ジャンピングニーパッドを喰らって。そのニーパッドも普段とは全然違うんですよ。最後のバックドロップもすごい角度で落とされて、『いつもはそんなんじゃないだろ!』みたいなのを喰らいましたね(笑)」

馬場「いいんだよ。それぐらいやらなきゃダメだよ」

 プロレスは体の鍛えた部分を攻撃し合うのが基本。“暗黙のルール”違反を犯した仲野に対して、鶴田はキツい技でもってそれを教えたということだ。

「普通はミサイルキックって、胸のあたりを狙うんですけど。僕の場合は三沢(光晴)みたいにうまくないですから、飛んだらどこにいくかわからないんですよ。そしたら顔面に当たっちゃったんです(笑)。

 故意ではないですけど、結果的に口を切って顔が腫れるようなケガをさせてしまったので、試合後、全日本の控室に挨拶に行ったんです。そうしたら馬場さんが『いいんだよ。それぐらいやらなきゃダメだよ』と言ってくれて。鶴田さんからも『信ちゃん、それでいいから』って言ってもらえたんですよ。

 それで翌週のプロレス雑誌を見たら、『鶴田を怒らせた男』って自分のことが書かれてたんです(笑)。結局、馬場さんと鶴田さんの懐の深さで、僕はファンに名前を知ってもらえるようになったんですよね」

鶴田は「やっぱり怪物であり、天才ですよ」

 そんな仲野の鶴田評は次のようなものだ。

「ナチュラルな強さは鶴田さんがずば抜けていると思います。試合会場で鶴田さんが練習してるの見たことないですもん。チューブを引くトレーニングをちょっとするのと、あとは柔軟体操だけですから。それでいて長州さんと60分フルタイムやっても、試合後、平気な顔してましたから。やっぱり怪物であり、天才ですよ」

 仲野はその後、1990年にメガネスーパーが作った新団体SWSに移籍。90年代半ばには「レッスル夢ファクトリー」で、選手兼鬼コーチとして若手選手を鍛え、2001年に藤波辰爾が主宰する『無我』のリングで引退した。現在は運送業の仕事をしながら、住居のある長野県下で時折試合をしている。

 そして全日本の6.26大田区での「ジャンボ鶴田メモリアルマッチ」にも出場が決定(渕正信、越中詩郎、高杉政彦、土方隆司vs仲野信市、西村修、SUSHI、力の8人タッグマッチ)。

 基本、長野県下でしか試合をしないと決めている仲野が、東京での試合に出場するのは「ジャンボ鶴田メモリアルマッチ」だからこそ。そして50代後半となった今も、めったにない試合のたびにプロとして恥ずかしくないコンディションを作ってくることで知られる仲野だけに、6.26大田区でもきっと「鶴田を本気にさせた男」の片鱗を見せてくれるはずだ。

文=堀江ガンツ

photograph by AFLO