2021年上半期(3月〜8月)、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。インタビュー部門の第5位は、こちら!(初公開日 2021年8月26日/肩書などはすべて当時)。

 東京オリンピックで一番印象に残った競技はなんだった?

 旧知の記者にそんなことを聞いてみたら、彼は「スケートボードですかねえ」と答えた。パーク女子の岡本碧優がラストランで高難度の構成に果敢にチャレンジして失敗、にもかかわらずライバルたちに担ぎ上げられ称賛された場面が印象的だったらしい。ちなみに彼はその時、他の会場で取材をしていた。現場では見ていなかったのだ。それでもそんな風に感じたのだという。

 競泳の大橋悠依もインタビューの中でパラリンピックに対する質問に「すごく一生懸命やっている姿とか、スケボーの女の子を見ていてもそうですけど、楽しそうにやっている姿って絶対に誰かの感情を動かす一部になると思うので」と語っていた。さまざまな人からさりげなくスケートボードという単語が出てくるようになったことが、今回の五輪による変化ではないだろうか。各地のスケートボードスクールも予約が殺到している状況だという。

岡本碧優を称える選手たち ©Getty Images

 ただメダルをたくさん獲っただけではこうはいかない。競泳の二冠女王や取材記者、そしてテレビで見ていた人たちの心に何かを残していくような、東京五輪のスケートボードとはそういうものだったのだ。

 ではスケーターの目には初めてのオリンピックでのスケートボード競技はどんな風に映っていたのだろう。

「スケートボードが五輪に食われちゃうんじゃないか」

「最初は不安でした。スケートボードがオリンピックに食われちゃうんじゃないか、スケートボードっていうものが歪んじゃうんじゃないかと。でも全然そんなことはなかった。出ている人たちがオリンピックに煽られることなく今まで通りに自分たちを表現した結果、スケートボードの魅力、見方がしっかり伝わった。心配してたおじさんはバカみたいでしたよ」

 そう言って笑ったのはプロスケーターの岡田晋だ。

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 90年代中頃に日本人のトップスケーターが集まって結成された「NEWTYPE」の中心メンバー。日本人で初めてアメリカのスケートカンパニーにスカウトされ、同世代の米坂淳之介や荒畑潤一、中島壮一朗らと海外で活躍する日本人スケーターの道を切り拓いた先駆け的な存在である。現在43歳。現役からは退いているが、スケートボード映画の原作・プロデュースやファッションブランドの展開など幅広く活動している。

 大会前、岡田は懸念を抱いていた。それは得体のしれない(しかもやたら粗ばかりが目につく)オリンピックというものに対する至極真っ当な警戒心だった。

「スケートボードという星形のブロックを、急にオリンピックだ、スポーツだと四角い枠組みを持ってきて通そうとしたって無理だと思う。だから強引にところてんみたいにストンと落とすしかない」

 だが、スケートボードや新時代のスケーターたちは想像以上にずっとしなやかだった。四角い枠に押し曲げられることなく、それどころか四角い枠組みを星形に押し広げて通り抜けていった。

「しかもそれをパワープレーじゃなくて、スムーズに通って人々の心に刺さった。何か時代の流れもあるのかなと思いますね。僕は俯瞰でしかスポーツを見ていないけど、スポーツ界も色々な問題が出てきたり、スポ根の時代じゃないよみたいな議論がある中で、スケートボードのバイブスが他競技の選手にも響いたし、スケーターもきっと他のオリンピアンから影響を受けたところがたくさんあると思う。うまく相互作用が生まれていたのが感動的で、すごく幸せな時間でした」

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堀米雄斗の滑りは「常軌を逸している」

 印象に残ったシーンは数多くある。しかし、岡田にとって最もインパクトがあったのはやはり堀米雄斗の滑りだった。日本チームの先陣を切った男子ストリートでの金メダルが、スケートボードムーブメントを生み出す導火線になったことは間違いない。その滑りは岡田をして「常軌を逸している」と思わせるほどだった。

「あれを見て『スケボーかっこいいから始めよう』と思っても、あそこには一生たどり着けないかもしれない。いざ始めてみたら、そのことに気づくと思います(笑)。修行というか、鍛錬の極みと言ってもいいレベル。それを楽しくやってあそこに到達しているから、もう楽しさの質が違うんですよ。

©Getty Images

 よく言うじゃないですか。楽しく滑ればいいって。そういう一般の人が思っているレベルとは全然違う。苦しさとか怖さとかしんどさとか、全部ひっくるめて楽しんでる、雄斗の場合は。スケーターはみんな(トリックを)メイクするときの高揚感に取り憑かれている部分はあるんですけど、それにしてもあのレベルは神がかってますね」

 失敗の許されない状況からベストトリックで次々に高難度の技を成功させていく度胸、それを地元開催のオリンピックという特別な重圧のかかる舞台でやってのける勝負強さは、岡田自身がスケーターであるからこそ、どれだけ困難であるかが余計にわかったのだ。

「雄斗はいくつかトリックのバリエーションを持っているけど、今回はノーリーのブラインドサイド側のトリックが多かった。本人は『スピンばっかりでダサかったけどしょうがなかった』と言っていたみたいですね。でも今回は追い詰められた展開だったのもあるし、ノーリーの270からのテールスライドとか本当はあんな巨大なサイズのセクションでやる技じゃないんですよ。普通の縁石でやる人間も見ないくらい。それができるのは世界で雄斗ぐらいでしょ。瀬尻稜的に言ったらゴン攻めのビタビタですよ(笑)」

 堀米が見せる圧巻の滑りの理由の1つは、ストリートと並行してやってきたバーチカルにあると岡田は考えている。

 スノーボードのハーフパイプのようなU字型のセクションを滑るバーチカルを堀米は父・亮太さんとともに子どもの頃から日常的に滑ってきた。その経験を基に'18年世界選手権のパーク種目で6位になったように、一時はストリートとパークの両種目での五輪出場も目されていたほどの万能タイプ。

堀米雄斗と岡田さんは旧知の仲である(岡田さん提供)

「僕らよりちょっと前の時代の人たちはストリートとかバーチカルを分けずに全部やっていたんです。確かにバーチカルをやっていると、恐怖心とかスケールに慣れるという面ですごくいい。そこからストリートに入ってきた人はみんなスケボーがうまくて、エリック・コストンとかもそうだったし、なんかアメージングな動きもできちゃうんですよね」

「スケボー=若者」を覆す“46歳スケーターの五輪参加”

 スケートボード4種目のうち、唯一日本人以外が金メダルに輝いたパーク男子にも胸を打つものはあった。それは『スケートボード=若者文化』という固定観念を覆す2人の46歳のスケーターの存在である。

「パークの男子は年齢層が幅広くてすごく素敵だった。デンマークのルーン・グリフバーグって世界的なレジェンドなんですよ。僕らが子供の時に見てたバーチカルのプロで、彼の出ているビデオも見ていたし、好きなスケーターの1人だったんです」

©Getty Images

 もう1人の46歳は、南アフリカから出場したダラス・オーバーホルザーである。五輪出場権ランキングでは57位。コンテストでさしたる実績はなく、五輪ならではの各大陸から1人は出場権を与えるという「大陸枠」で拾われた選手だ。岡田も初めて耳にする名前だった。

 ただし、このオーバーホルザーは偶然五輪会場にやってきたただのスケート好きのおっちゃんではない。南アフリカで20年前にNPOを立ち上げ、同国内でスケートボードを通じて恵まれない子供たちへの支援と競技の普及活動に汗を流してきた人物だった。そんな彼の経歴を知ったときに、岡田はあるスケーターのことを思い出したという。

「よく滑っていた地元の世田谷公園に増田力也くんというスケーターがいるんです。彼はそこで10年かけてスクールをやって、行政とも長年話し合って、ついに世田谷公園にパークを作ったんですよ。それを聞いた時にそういう貢献の仕方もあるんだなと思ったんです。その時と似た心境になりましたね」

 岡田は自らが世界で名を売り活躍することが、日本のスケートシーンを広げ、日本人スケーターの地位向上に繋がると思って活動を続けてきた。一方で地域に根付いて草の根レベルでスケートボードを広めていこうと取り組む人たちもいて、彼らも彼らの成果を出している。

「そこに優劣はないというか、みんなそれぞれのポジションで何かを形作る。10年単位の時間をかけて、力也くんも地元のローカルスポットをよくしよう、パークを作ろうと思って形にした。そういう活動をしている人は世界中にたくさんいて、そういう人たちの代表がオーバーホルザー選手のような感じがしました」

ダラス・©Getty Images

「五輪には逆にスケートボードっぽい多様性がある」

『ストリートリーグ』や『Xゲーム』、『VANSパークシリーズ』といったトッププロが集うコンテストだったら、オーバーホルザーは出場できなかった。46歳のスケーターが日の目を見る可能性は皆無だった。

「だからオリンピックには逆にスケートボードっぽい多様性があるなとも思ったんです。もしオリンピックがなければ僕が彼を知ることはなかったし、彼のような選手にもスポットが当たるのがオリンピックなんだっていうことも面白かった」

©Keiji Ishikawa

 岡田らの時代に比べ、コンテストは巨大なショーとしてコンテンツ化され、賞金もそれだけで食べていけるほど高額になった。そこにさらに巨大なコンテストとしてオリンピックが加わった。

「ただスケーターとしての活動の一番のベースが何かと言ったら、やっぱりそれはビデオですよね。自分の映像を残すことがたぶんメインなんです。それは変わらないと思う。ナイジャ(・ヒューストン)だってそうだし、雄斗だってそう。大会はあくまで1つのきっかけであって、有名になるきっかけ、交流のきっかけ。スケボーを始めて大会で優勝するためにスケボー頑張ってますという人はいないはずです、たぶん……。でも、もしかしたら今はそう思っている人もいるのかもしれない。ストリート(実際の街中で手すりや階段などを利用して滑ること)なんかはやらない。そんなのはよくない。自分は大会の競技だ! みたいな人たちがこれから出てくるのかな(笑)。

 でも、それは今の人たち、これからの人たちが流れをつくっていくことですね。今はもう新しい時代だから、いろいろ各方面で問題はあるかもしれないけど、それも含めて若いスケーターは素敵にしなやかに時代を変えていってくれると思ってます。今回のオリンピックと同じように、おじさんの心配なんかよそにね(笑)」

米国へ向かう堀米に「3年後のパリ五輪」を聞くと…

 オリンピック閉幕から1週間あまり、羽田空港の出発ターミナルに堀米の姿があった。拠点を置くアメリカへ戻る金メダリストのために、地元のスケートボード仲間だけでなく、テレビでの共演をきっかけに毎日一緒に遊ぶほど仲良くなったという格闘家の那須川天心まで見送りに訪れていた。

 今後の五輪との関わりについて聞くと、スケートボード男子ストリートの初代五輪王者はこう答えた。

「最初はあまりパリのことまで考えられてなかった。でも東京が終わって3年後だし、今はすごく近く見えている。パリも頑張りたいと思っているし、その次のロサンゼルスまで滑れるように頑張りたいです」 

 オリンピックがスケートボードを変えていく。スケートボードもオリンピックを変えていく。堀米たち日本人スケーターはその未来を形作る役割を担うことになる。

©Getty Images

文=雨宮圭吾

photograph by AFLO