夏の甲子園で智弁和歌山が優勝した日の夜、こんなメールを頂いた。

『母校のように甲子園で勝負できるチームを地道に作りたいと思います』

 大阪の興国高校野球部の喜多隆志監督(41歳)からだった。喜多は智弁和歌山のOBで、2018年夏から興国を率いている。

智弁和歌山で全国制覇、慶大でも活躍した元ドラ1

 生まれは奈良県の生駒。6つ上の兄が奈良の智弁学園にいた縁もあって自身は智弁和歌山に進学する。智弁和歌山現監督の中谷仁主将、高塚信幸(元近鉄)らと1997年の夏、全国制覇を経験した。喜多は3番センターで初優勝の原動力になった。

 その後、進路は慶応義塾大学の後藤寿彦監督(当時)に声をかけてもらって、迷わずAO入試に挑戦した。

「人生の中で一番、嬉しかったのは、慶応に受かったことですかね(笑)」

慶応義塾大学時代の喜多の活躍ぶりは「早稲田スポーツ」も大きく伝えるほどだった

 慶応大時代には東京六大学シーズン史上最高打率となる「.535」をマークし、ベストナインに4回選出されるなど実績を残すと、プロ野球選手という小さい頃からの夢も叶えた。千葉ロッテに1位でドラフト指名されたものの、5年間で53試合、22安打の通算成績だった。自身も結果は出なかったと認めるが、それは今の教員生活にとって、貴重な時間だったという。

 プロ野球選手を引退し、喜多は高校指導者を目指した。

 当時はまだ、アマチュア資格を回復するのに教職履修に2年間、さらに教壇に2年間立つ必要があった。後藤の紹介で岐阜経済大(現岐阜協立大)の教職課程の履修、朝日大ではゼミの講義を担当し、規定の長い4年を終えた。朝日大では慶大の先輩、林卓史が監督をしていて、野球部のコーチも任された。

高嶋先生からの連絡を受けた、あの日

 1年目は特に長かった。人生で一番、勉強したと振り返る。

「慶応出身で賢いという評価をされていましたし、単位は落とされへんと。60単位かな、ほぼ成績はAですよ。意地ですよね。20歳ぐらいの学生に交じって、こっちは28、29歳で」

 現在は数日の講習でアマチュア資格が回復できる。それは悪いことではない。ただ喜多は4年を要した最後の年代だ。そもそもプロで活躍して引退がもっと後だったら、このタイミングにはなっていない。「その年月がいろんな経験になっていて唯一無二だった、数日でなんて取らなくて良かった」と誇りに思っているという。

喜多や中谷らを擁して優勝した頃の智弁和歌山 ©Hideki Sugiyama

 4年の目途がたつころ、戻ってくる気があるのか、と智弁和歌山の高嶋仁監督(当時)から連絡があった。理事長に会って復帰が決まる。

 智弁和歌山では2011年4月から2017年3月までの6年間、副部長や部長などを歴任して夏に3回、センバツに1回出場した。一方で2015年夏には高嶋監督の退任が報じられた。最終的には続投となったものの、喜多の居場所もはっきりとしない状態だったという。

「最後は高嶋先生、死ぬまでやってよ、という思いになって(笑)。他校で監督になれるんなら行きたいな、という自分のわがままな結論を出しました」

 妻の実家がある岐阜に戻ることも視野に入れ、自宅も既に売却手続きをした。そこに興国の話が舞い込んだのだ。

かつて“やんちゃ”だった興国高校だが

 その昔、興国は“やんちゃ”な高校だったが、女性の3代目理事長になって新しい時代に入ろうとしている最中である。国公立大学への進学者も増え、サッカー部は古橋亨梧らを輩出するなど全国屈指の強豪の仲間入りを果たしている。その中で野球部も新鮮な指導者を探していた。そこに喜多がハマった。

 校舎は天王寺区にあって、そこから枚方の山の中腹にある専用グラウンドにバスで移動する。全員移動だと観光バスとマイクロバスを使って1時間弱。費用もかかるし練習時間も削られるハンデがある。20時まで練習してまた、バスで学校に戻って各自の帰路につく。

 その中で喜多は自身で車を運転して移動する。朝は和歌山県岩出市の自宅を5時半に出る。1日の移動距離は200キロほどになるそうだ。

 教師として週に6コマの社会科の授業を受け持つ。体育は資格を取るのに6年がかかるので、社会科にしたそうだ。

 興国は府内2番目の生徒数を誇るマンモス男子校である。野球部員も喜多が4年前に来た時は130人だった。今年も3学年で118人が在籍する。新チームは2年生が34人で少なめ。1年生が44人いる。

©Takashi Shimizu

 智弁和歌山は一学年10人強の少数精鋭で鍛え上げていた典型。両者の違いはまず、その部員の数だ。

「少数の方が、レベルが上がるんちゃうのと思っていたんですが、今は、こっちのが面白いなと思って。ませたのも幼稚なのも、いろんな子がいてて、ぼくの性格的な部分も合ってるかなと思いますね」

 数の分だけ個性があって、戦力のバリエーションも増える。やりがいが生徒の人数分ある、というわけだ。

「甲子園を意識してない集団があったんやなと」

 そしてもう1つ、智弁和歌山時代との大きなギャップがあった。

「高校野球をやっている限り、だれもが甲子園を目指してるもんだと思ってましたが、甲子園を意識してない集団があったんやなと。でも、常に目指してるのが異質であって。ここにきて初めて気づかされた」

 喜多は智弁和歌山で常勝軍団の英知を学んできた。その経験を浪花の地でどう生かすか――という思いを持っていたが、現実は違うものだったのだ。

「ほぼ、参考にならないです(笑)。智弁の打って打って感覚をつかむ練習は通じない。ここの子にはかみ砕いてわかり易く伝えてあげないと。話をして練習して、話をして練習しての繰り返しです」

智弁のポテンシャルが「10」なら「2」くらいだが

 智弁のポテンシャルが「10」だとしたら、興国の選手は2もないかもしれない、という。

「出来たことが出来なくなるのが得意なチームなんで(笑)上書き保存しようという話をするんですが、常に新しいファイルを作るんで、前のファイルが残らないんですよね。バント練習を多めにやったら、明日の試合ではバントが多いよ、ということなのに、見事に彼らは気づかない(笑)」

 教えがい、伸びしろがある、という単純なことでもない。目を離すことが出来ないから、首脳陣は忍耐が必要なのだ。

「なんかしろ」

 急に喜多が選手に大きな声で、連続して指示を出した。グラウンド整備をしていた彼らの手が止まった時だ。

「これがうちのチーム。一瞬、無になる(笑)。1個、指示を言った後に2個目を言うんですが、すると1個目をできなくなって2個目だけになる。

 もう、我慢です。耐えることは野球で学んできた。自慢できるのは辛抱強い、ということ(笑)。放り投げた瞬間に終わっちゃいますから。僕は生徒に対する思い、高校野球への思いが極端に強い。だから(気持ちを)保てているのかなと。僕は普通じゃないと思うんで。どうしてもグラウンドに足が向いちゃう」

 この情熱は高嶋から受け継いだものだ。

©Takashi Shimizu

履正社に勝ち、大阪桐蔭撃破もあと一歩だった

 今年の夏、準々決勝で履正社に勝ち、自身初めて決勝に進んだ。9回には大阪桐蔭相手に追いつくなど、大接戦を演じた。去年の秋は準々決勝で大阪桐蔭に1対15のコールド負けを食らっていた。《もう1回、桐蔭とやろう》を合言葉に一つ一つレベルを上げていったチームだった。

履正社に勝利して大喜びの興国ナイン ©Sankei Shimbun

「桐蔭でレギュラーになれるような選手は一人もいない。でも、全員が同じ目標に向いたとき、見えない力が沸いていた。僕がイメージする高校野球を体現してくれた学年でした。素直だったし、学校生活も大きなトラブルもなかったですし」

 時に、野球以外でトラブルが起こることがある。授業中の“ケンカ”などは、かわいい部類のヤンチャだが、些細なことでもチームは後退する。学校長からは野球部は看板です、と言ってもらっている。それにふさわしい行動、立ち振る舞いが求められる。周りから応援されるから勝つチャンスが得られる。それは口うるさく伝えている。

「野球の前にそっちが大事。学校生活が適当でグラウンドだけちゃんとやるような子は伸びないのではないでしょうか。監督、コーチがいる時だけは一生懸命にやるとか、そんなチームは強くない」

大阪大会決勝後、高嶋先生から届いたメッセージ

 日々、様々な発見の連続だ。子供からの貴重な発信を見逃さないようにアンテナを張る。キャッチできなかったときに、“あっ、しもうた”ということがないように。もどかしいことが多いのは想像できるが、喜多の性分には合ってるようだ。

「朝日大学でもそうでしたが、昔から表現できない子が気になって、よく声をかけてました。思っていることを口に出せない子には、こっちが理解したうえでコミュニケーションをとると、心を開いて変ってきよるので。彼らの本心を聞き出せれば、指導も入っていく」

 学校では生徒指導部の一員でもある。一般生のトラブルの事情聴取もして、気持ちを汲んでやる。それは野球の現場にも生かされる。エンパシーに優れた指導者だ。

 恩師・高嶋の年賀状には『甲子園の解説ができるまで待ってるわ』と一言があったりする。高嶋から大阪大会の決勝の後、初めてショートメールが来たという。

「ずっと気にしてくれてたようで、『戦う集団を作ったことに敬意を表する』と。嬉しかったですね」

 高嶋の野球を自分も追い求めている。夏は理想に近づいたチームだった。

「高嶋先生が自分の作ったチームと重なっとる、と感じてくれたと思ってるんです。そういうのが見えたからこそ、メールをくれたんかなという思いはあります」

 そんな母校と、練習試合は組んでいない。

「レベルが違いすぎるので。ダブルヘッダーで0対25でしょう。お互いに練習にならんちゃいますか」

 こんなふうに謙遜する。でも、いつか、甲子園で対戦したいという思いを持っている。

「ベルトの位置を直される4番、いますか?」

©Takashi Shimizu

 訪ねた日の翌日は秋の府大会の初戦だった。府立校相手だが、不安で不安で仕方ない、とこぼしていた(結果はコールドで快勝)。練習が終わって生徒がネット裏の首脳陣の部屋に貴重品を取りに来る。喜多が顔色を見ながら声をかける。

「しんどないか。勉強落ちてへんやろな。お母さん泣くで。お前が頑張ってくれんと、弟が興国に来てくれへん、頼むで」

 こんな風に声をかけた理由について、喜多はこのように語っていた。

「彼なんか、レギュラーは難しいですよ。でも、表情がほんと、良くなってくるんですよ。それがこっちのやりがいかな」

 指導者冥利につきる、と言い切った。

「おっ、不動の4番や。不動って意味わかるか。ストライクが来てもスイングしないこと。誉め言葉ちゃうで。あした、打ってくれるんかなぁ。そのベルト、ハイウエストすぎないか(爆笑)」

 そう言って、4番打者をいじった。

「ベルトの位置を直される4番、いますか? これがうちの4番です。甲子園なんて程遠いでしょ(笑)。ほんま、タレント集団や」

 こんな冗談に周囲が和むのはその顔立ちだからか。コーチや生徒との間に笑いが絶えない夏の夕方だった。(文中一部敬称略)

文=清水岳志

photograph by Takashi Shimizu