1921年9月10日に大日本蹴球協会として発足した日本サッカー協会が創立100周年を迎えた。

 1世紀の歩みにはいくつか大きな転換点があるが、最初にして最大の転機は「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人指導者、デットマール・クラマー氏の招聘だろう。1964年東京五輪をにらんだ代表強化が第一義だったが、退任に際して残した提言は、日本代表強化、育成、指導者養成の要諦を穿ち、その後の羅針盤になった。

 長沼健氏や岡野俊一郎氏、川淵三郎・日本協会相談役といった次代のリーダーがクラマー氏の教えに触れなければ、今日の日本サッカーはなかったと言っていい。

長沼氏とクラマー氏(1969年撮影) ©AFLO

「他のスポーツを見渡しても外国人指導者を呼ぶということはなかった。画期的だった。クラマーさんに出合っていなかったら、日本サッカーはどうなっていたか。まさに日本の夜明けだった」

 川淵相談役の言葉だ。

 それほどの大きな転機でありながら、クラマー氏の来日はいくつかの奇縁が紡がれなければ実現しなかった。

クラマーを連れてきた仲介役、その人物像とは

 力を尽くしたのは成田十次郎氏だ。日本協会とドイツ・サッカー連盟をつないだ仲介役ではあったが、経緯の仔細はこれまであまり語られていない。

 成田氏は東京教育大(現・筑波大)でウイングとして活躍し、その後は教育者の道を歩んで1960年から体育史を学ぶためにケルン体育大への留学が決まっていた。出発を目前にした同年春、日本協会の竹腰重丸理事長らに原宿の南国酒家に呼ばれ、切り出された。

「西ドイツに行くらしいな。実は協会は外国人指導者を呼びたいと思っている。西ドイツから連れて来られないか」

 当時の日本はローマ五輪出場を逃し、4年後の自国開催の五輪に向けて出直しを迫られていた。思い切って海外から指導者を呼びたい。戦前から日本と縁があり、1954年のW杯スイス大会で初優勝した西ドイツはどうか。当時の日本協会会長・野津謙氏の決断だった。そんな折、日本代表候補でもあり、協会広報の仕事を手伝った縁もある成田氏の留学話は渡りに船だった。

ほぼ丸腰、頼ったのはなんと陸上関係者だった

 ただ、依頼された側は大変だ。

 当時の日本協会は戦後の国際的な孤立状態からほぼ変化がなく、西ドイツにもパイプがなかった。めぼしい候補者がいたわけでもない。選手と一緒に動けるくらい若い人物で、月給は普通に日本で生活できる程度を支払う。そんな条件面だけを伝えられ、成田氏はほぼ丸腰でドイツへと飛んだ。

 ドイツ連盟にどう話を持ち込むか。成田氏が頼ったのは陸上関係者だった。

 前年に日本で開催された陸上大会で来日した西ドイツ選手団の通訳を務めていたこともあり、団長のホルンバーガー氏と信頼関係を築いていた。初めから勝算があったわけではなかったが、休日にホルンバーガー氏の自宅に招かれた際に相談すると、そこからとんとん拍子に話が進む。ホルンバーガー氏はその場ですぐに電話で話をつけ、翌日にはフランクフルトのドイツ連盟まで連れて行ってくれた。

 成田氏が日本協会の要望を伝えると、ドイツ連盟のバスラック事務局長は「私が責任を持つ」と快諾したという。成田氏は「日本もドイツも、ある年齢以上の役職のあるような方は戦前からの交流で互いに親しみを持っているようでした。ドイツからサッカーを学ぼうとしていることを喜んでくれた。そういうご縁に救われましたね」と述懐する。

 成田氏の寄宿舎のドアがたたかれたのは約1カ月後。ノックに応じると、小さく、頭髪の薄い男が直立不動で待っていた。

「ドイツ・サッカー連盟の推薦で参ったデットマール・クラマーと申します」

バイエルンで指導するクラマー氏 ©Getty Images

 挨拶は折り目正しく、表情には「生真面目さと日本に対する敬意」が溢れていたという。その日は条件面を説明するだけで終えたが、雰囲気や態度に一目惚れに近い好印象を持った。

W杯で優勝した後のドイツ代表監督候補の1人だった

 ここからクラマー氏と互いの家を行き交って交流を深める一方、日本協会に推薦するために情報を集めた。人格や手腕はどうか。誰に聞いても称賛し、悪評は皆無だった。西ドイツ代表を率いてW杯を制したヘルベルガー監督の後継者候補の1人とされ、バイスバイラー氏やシェーン氏とともに将来のドイツを担うと期待される有望株――。

 とりわけ、育成に定評があった。

1966年W杯でのクラマー氏 ©Getty Images

 ケルン体育大学で指導者養成責任者を務めていたバイスバイラー氏に相談すると「是非、彼を日本に連れて行くべきだ」とまで言われた。この人しかいない。日本協会と手紙でやりとりした成田氏はクラマー氏を強く薦めた。

 就任が固まるのは8月だ。日本代表の遠征直前に野津会長が渡独し、成田氏とともにクラマー氏の職場だったデュイスブルグのスポーツシューレ(学校)まで足を運んだ。

 クラマー氏と対面する前、野津会長は壁に掲げられていた詩を目にして「成田君、これだよ。これが大事なんだよ」と感嘆の声を上げたそうだ。

「ものを見るのは魂である。目自体は見ることはできない。ものを聞くのは魂である。耳自体は聞くことができない」

 成田氏は、野津会長がこの一節とクラマー氏の人間性を同一視したように感じた。こういう精神を大事にする人物であれば間違いはない、と。

©Getty Images

 当時、外国人指導者を呼ぶことに一部で反対もあったという。「野津会長は成田君に任せると言ってくれていたが、不安もあった。ですが、この瞬間、僕は野津さんがクラマーさんを絶対に呼ぶだろうなと確信しました」と振り返る。

レベルが違った「止める・蹴る」の技術指導

 この初対面からほどなく日本代表がドイツに到着。クラマー氏の指導がスタートした。現場の指導者として残した最大の遺産は基礎の重視だ。しつこく基礎を徹底した。インサイドキックの練習をさせると「こんなの子どもでもやっている」と代表選手から不満の声が上がった。だがクラマー氏の実演したキックは、当時の日本選手とレベルが違った。

 クラマー氏は鋭く、正確なボールをびしびしと足元に付けるが、日本代表はばらばら。クラマー氏が後に持ち込んだドイツ時代の指導風景を収めたフィルムでは、日本代表に施した練習と同じ内容をドイツの一流選手がやっていた。もちろん、技術レベルには雲泥の差があった。クラマー氏は基礎にも世界基準があると示したのだ。

日本代表を指導するクラマー氏 ©Shinichi Yamada/AFLO

 田嶋幸三・現日本協会会長は当時、クラマー氏のコーチ教習で「デイジーカッターを蹴れ」と言われた。デイジー(ヒナギク)は芝と一緒に生える雑草である。その花を刈り取るような鋭い逆回転が掛かったパスを出せ、という指示だった。

 パス1本、こだわれば終わりがない。田嶋会長は初代スクールマスターを務めたJFAアカデミー福島では「止める、蹴る」を徹底させた。「トップレベルにたどり着くためにはいろんな技術が必要になる。だけど、基礎となるものは止めて、蹴る。土台がしっかりしていないと、その上に多くの物を築くことはできない」との信念は、クラマー氏から脈々と引き継がれたものだ。

オシムの46年前に日本サッカーが享受した“金言”とは

 技術指導だけでなく、モチベーターとしても多大な遺産を残した。

 1960年のドイツ遠征中、クラマー氏は覇気なく大敗したチームに「ドイツにはゲルマン魂がある。日本には大和魂があると聞いていたが、君たちにはないのか」と雷を落としたとの逸話もある。終戦から15年。死語になりつつあった言葉だった。

 この叱責から46年後の2006年にはイビチャ・オシム氏が日本代表監督就任会見で「日本を日本化する」と宣言した。外国人の指摘で日本の美徳や持ち味にあらためて気付かされることがある。外国人指導者を招く1つの利点であり、クラマー氏からも享受していた。

 当時のチームにいた川淵相談役は「クラマー氏は、怒り方がうまかったよ。今でも覚えているんだから。『貴様、何してるんだ、この馬鹿野郎』とか、日本の指導者がすぐ言うようなことは絶対言わなかったな」と懐かしむ。

©Getty Images

 当時の日本はOBたちが仕事の傍らに指導するのが一般的で、体系的な指導法もなかった。指導者が変わるたびに指導法も変わり、戸惑う選手も多かった。日本が指導者養成制度の確立へと乗り出すのはクラマー氏の提言を受けた後だ。

「クラマーのために戦う」を合言葉に銅メダル

 すでに制度を確立し、世界を制した西ドイツで評価を得ているクラマー氏の指導は慈雨のようで、選手はスポンジのように吸収した。急成長を遂げ、1964年東京五輪は8強入り。1968年メキシコ五輪のメンバーにはクラマー氏の指導を受けた釜本邦茂氏、杉山隆一氏ら主力が残った。

 メキシコでの合言葉は「クラマーのために戦う」。クラマー氏に心酔していた選手たちは、敬愛する恩師の指導が正しく、いかに素晴らしかったかを結果で示そうとしていた。国際サッカー連盟の一員として会場に来ていたクラマー氏は、銅メダルを獲得したチームに涙して喜び「大和魂を見た」と話したという。

メキシコ五輪の銅メダルに、クラマー氏も大喜びしたという ©Getty Images

「フィリピンにも負けていた日本を指導したのはわずか3、4年。それが1968年のメキシコ五輪では銅メダルを取るんだから。いかにクラマーさんがすごかったか分かるでしょう」

 成田氏の声が弾む。美しい思い出は、100年の歴史を重ねた日本サッカー協会がまだ高度に組織化されず、個人の奮闘が成果に結びつきやすかった時代の美しいおとぎ話のようだった。

文=出嶋剛

photograph by Takuya Sugiyama