9月22日、ラグビーの新リーグ「リーグワン」でディビジョン3に振り分けられた宗像サニックスブルースから、追加新入団選手と追加退団選手が発表された。

 退団選手として記されていた名前は「小野晃征」。

 日本代表のSOとして2015年ワールドカップ初戦、南アフリカ戦勝利の立役者となった名司令塔は34歳になっていた。サニックスとの契約は来季(2022年)まで残っていたが、6月の段階で退団と現役引退を決意。すでに家族とともにニュージーランド(以下、NZ)へ帰国している――そう、小野は漢字表記の名を持つ日本人選手であると同時に、NZで育った逆輸入司令塔だったのだ。

NZ育ちのSO、19歳で代表初招集

 引退発表から2日、小野へのオンラインインタビューが実現した。Zoomの画面で向かい合うと、初めて小野を取材したときの場面が甦ってきた。2007年2月、W杯に向けて始動した日本代表に招集されたとき。当時の小野は、まだ19歳だった。

「日本語も全然話せなくて、何も知らない中で、本当にいろんな方に助けて頂きました。日本でプレーした初めての試合が韓国とのテストマッチ。普通はキャリアを積んでステップアップしていった先にテストマッチがあるのに、珍しい例ですよね(笑)」

2007年2月、初めて参加した日本代表メディカルチェック。SH後藤翔太(右・現早大コーチ)と言葉をかわす小野晃征 ©︎Nobuhiko Otomo

 小野は日本で生まれ、3歳のとき家族でNZのクライストチャーチに移住。6歳でラグビーを始め、U10からU19まで各年代のカンタベリー代表に選ばれ、アンドリュー・マコーミックやダン・カーターを輩出したクライストチャーチ・ボーイズハイスクールで、一軍のSOとして活躍した。

 その情報を聞きつけた日本代表のヘッドコーチだった、JKこと、ジョン・カーワンから連絡を受けて来日。そこから冒険は始まった。

「プレッシャーは感じてなかった」

 20歳の誕生日の5日後、秩父宮ラグビー場で行われた韓国とのテストマッチに、小野は57分から途中出場。最初のボールタッチでWTB小野澤宏時に絶妙のキックパスを送り、みごとトライ! と思われたが、惜しくも判定はオフサイド。「ファーストタッチでのトライアシスト」は幻に……それでも終了直前には日本代表史上最年少でのゴールキックを成功させた。

 ファンは初めて見る若き逆輸入SOのプレーに心躍らせた。

2007年4月の韓国とのテストマッチで日本代表デビュー。その才能をいきなり見せつけた ©︎Nobuhiko Otomo

「プレッシャーとかは……あまり感じてなかった気がします。緊張はあったけれど、当時は何よりもラグビーが好きで好きで、新しい場所で新しい仲間と高いレベルのラグビーができることが嬉しくて、ワクワクしていた方が強かった。当時は日本のラグビーなんて、NZでは全然見ることができなかったし、ラグビー用語も違う言葉が結構多かった。そもそも日本語ができなかった」

 NZでも家の中では日本語で生活していたが、教育熱心な両親の元、身につけていたのは正しい、ちょっと古風な日本語だった。悪い言葉とは無縁。「他の外国人選手のほうがいろんな日本語を覚えていましたね」と笑う。

 07年W杯には20歳で出場。オーストラリアとの初戦で背番号10を着た。

 トイメンの相手SOは翌年からリコー入りする英雄スティーブン・ラーカムで、途中交替で入ってきた新人はそこから51キャップを重ねたのち来日し、パナソニックで2年連続トップリーグMVPを受賞するベリック・バーンズ。SHはジョージ・グレーガン、FLにはジョージ・スミス、CTBにはマット・ギタウと、後にサントリーに加入し、対戦相手あるいはチームメイトとしてともに日本のピッチに立つことになる新旧スーパースターがズラリと並んでいた。

 そんな輝かしいキャリアのスタートを切った小野だったが、その後は順風満帆とはいかなかった。

 翌年以降は日本代表のリストから名前が消えた。JKが背番号10を預けたのは、同じNZ育ちでも小野よりも体のサイズのあるジェームス・アレジやウェブ将武、ブライス・ロビンス、マリー・ウィリアムスといった顔ぶれだった。

エディーが重宝した才能

 運命が変わったのは12年、日本代表HCにエディー・ジョーンズが着任してからだ。エディーは5年ぶりに小野を代表に呼び戻し、背番号10を預けた。小野はエディーの求める戦術を遂行し、試合でも練習でも、アタックでもディフェンスでもハードワークを重ねた。日本代表が史上初めて欧州でのアウェー試合に勝利したルーマニア戦と続くジョージア戦はともにフル出場。ジョージア戦では同点で迎えた後半ロスタイムに劇的なサヨナラDGも決めた。

2012年、ルーマニアを相手に欧州でのアウェーのテストマッチで初勝利をあげて、エディー・ジョーンズHCに迎えられる小野晃征 ©︎Nobuhikoto Otomo

 練習では本来の通訳を補完する役目も果たしたが、悩みもあった。時に口調が激しくなるエディーの言葉を、英語のまま聞かされるのは「けっこう辛かったです」と苦笑する。「通訳経由で聞いている他の選手がうらやましかった」。

 とはいえ、エディーとは今も連絡を取り合う仲だという。今回も引退を決意した時点で小野はエディーに報告した。返事はすぐに返ってきた。メールにはねぎらいの言葉に続けて、こんな言葉が添えられていた。

『あのときは激しい言葉を使ったけれど、選手としてはどう感じていたかな。2015年を戦うときは、どういうマインドで大会に臨んでいたかな?』

「そこからまた学ぼう、自分もコーチとして進化しようと思っているんですね。エディーらしい(笑)」

 エディーもまた、そんな小野の観察眼を評価していたのだ。15年W杯では、田村優、立川理道と3人のSOが選ばれていたが、最初の南ア戦で10番を着たのは小野であり、結果として、小野が10番を着た3試合に日本は全勝した。

 そんな小野のSO観とは。

「僕のプレースタイルは、周りの選手の強みをどれだけ引き出すか。自分がスペシャルなプレーをやるわけじゃないけれど、強いボールキャリアーに早く渡すこと、ディフェンスでは一人にならずに強いディフェンダーと一緒にタックルすること。自分が中心というより、周りのみんなのつなぎ役、みんなの力を引き出したかった」

 まさしく、長年、日本の選手に足りない、言い換えると海外のトップクラスの司令塔(ベリック・バーンズやダン・カーターなど)が優れていると言われてきた部分だ。人の力を引き出す力、人とつながる力、コミュニケーション力。

「僕が意識していたのは『人を知る』ことです。この選手はこういう場面ではこんなことをしたがる、こういう形だと力を出す、このタイミングでボールをほしがる……そういう傾向を理解して、試合中も言葉や表情で仲間の状態を把握して、ボールを渡す。

 あと対戦相手を観察することも大事です。事前の分析もあるけれど、試合中の表情や口調、ボディランゲージからメンタルの状態を読み取って、次にしてくることを予測する。たとえば東芝にいたデイビッド・ヒルなんかは、体が大きくてフィジカルに自信があるから、上手くいかなくてフラストレーションがたまると自分でボールキャリーを仕掛けてくることが多い。そういう分析、予測はずっとしていました」

2016年度はトップリーグから日本選手権まで全試合に10番で出場。リーグ得点王にも輝いた ©︎Nobuhiko Otomo

これからの「10番」に期待すること

 自分の後輩にあたる日本代表のSOについてはどう見ているのか。今秋のオーストラリア戦と欧州遠征に向け発表された日本代表候補に、SOは2019年W杯組の田村優と松田力也の2人しか選ばれていない。

「ジェイミーとしては、コロナの影響でなかなか経験値を高められなかった現在、チーム作りをこのチームのラグビーに慣れている2人に任せたいんだと思う。優はキックとパスの技術に関してはワールドクラスだし、W杯を2大会経験している。力也は昨季、日本人SOとしてパナソニックを久しぶりの優勝に導いた。自チームでチャンピオンシップを取ったという経験はやっぱり大きい。23年のW杯までこの2人で行けるかどうかは分からないけれど、今はこの2人が抜けている」

 2人を追う、次の世代には何を期待するか?

「日本人SOのスキルレベル自体は海外と比べても高いと思います。何が違うかというと、外国人のSOたちは自分のプレーだけでなく、ゲームプランを理解して、それに従いながら周りの強みを引き出せる選手が多い。次の世代のSOには、自分のスキルを高めることと同じくらい、周りの力を利用するコミュニケーションスキルを身につけてほしい。

 もうひとつは英語力ですね。トップリーグでも外国人HCが8割くらいになっていたし、リーグワンではもっと増えるかもしれない。HCとコミュニケーションをとって、意図を理解してゲームをリードして行くには英語力が大事になる。それができれば外国人SOとも勝負できるし、選手自身が海外に出て行くためにも役に立つ」

自身のサヨナラDGでジョージアに勝利した後、インタビューに応える小野晃征。英語が堪能な司令塔は海外メディアにとって貴重な存在だった(2012年) ©︎Nobuhiko Otomo

 それは小野のこれからの仕事にも関係してきそうだ。

 小野は、14年間にわたった自身のプロ生活をサポートしてくれたNZオークランドに本社のあるマネジメント会社「ヘイロー・スポーツ(Halo Sports)」に10月1日付けで入社。自宅のあるクライストチャーチを拠点にしながら、NZ選手の日本移籍を、あるいは日本選手のNZを中心とした海外挑戦をサポートする業務につくという。

「日本で活躍できる外国人選手には共通点があります。日本の文化をリスペクトする、チームの歴史、文化、企業の文化を知り、リスペクトする。そんな、相手の文化に対してオープンマインドな資質を持った選手を日本に紹介したい。いい選手が日本に来てくれれば、選手にとっても日本にとってもいいこと。そのために、僕の経験を次の世代に役立てたい」

「体が小さい中でやってきましたから」

 サントリーからサニックスに戻って迎えた昨季は膝の内転筋の損傷が続き、出場したのはわずか3試合。4月にチームの活動縮小が宣告され、直後に臨んだプレーオフではトップチャレンジの近鉄に敗れてシーズンが終了したが、小野はベンチにも入れなかった。さらにオフに入ってからのトレーニングでも再び受傷した。

 振り返れば、15年W杯のあとはケガに見舞われ続けた。16-17年はトップリーグから日本選手権まで全試合で背番号10を着てサントリーをシーズン全勝に導いたが、最後の4試合は肩を負傷したままプレーしていた。そのオフに肩を手術して復帰したが、その後は腕を骨折、顔面の陥没骨折……復帰まで数カ月を要するような大きなケガが続いた。

「アンラッキーなケガもありましたけど、その前の10年間大きなケガがなかったのはラッキーだったわけだし……まあ、体が小さい中でやってきましたから」と小野は笑った。

2015年W杯初戦南アフリカ戦、サニックスでチームメイトだったWTBカーン・ヘスケスと観客に勝利を報告する小野晃征 ©︎Nobuhiko Otomo

 サニックスの活動縮小、リーグワンの3部スタートは「関係ない」という。契約ももう1年残っていた。だが、練習にも試合にも出られない自分がプロ選手としてチームにいるのは望ましくない。そして、日本のラグビーがリーグワンに再編され、スーパーラグビーも再編するこのタイミングは、新しい仕事に飛び込むチャンスだと思った。

「タイミングが来たんだな、と思いますね。子どもも小学校にあがるし」

 海を越えて遠距離交際を続けた妻・エルイーズさん、長女モエさん(4)、長男・仁航さん(にこ・11カ月)とは、すでに拠点をクライストチャーチに移した。

 NZと日本、両方の文化を知り、両方のラグビーを楽しみ、日本のラグビーを新たな水準に導いた、笑顔の似合う小柄な司令塔。両国ラグビーの架け橋としてのチャレンジが始まる。

文=大友信彦

photograph by Nobuhiko Otomo