藤井聡太三冠(王位・叡王・棋聖)は、10月から始まる竜王戦七番勝負で豊島将之竜王に挑戦する。豊島とのタイトル戦は、王位戦と叡王戦に続いて3回目である。両者はともに愛知県生まれで、地元は大いに盛り上がっている。豊島と藤井の関係、愛知県棋界の歴史や出身棋士について記す。【棋士の肩書は原則として当時】

 2017年8月、豊島八段と藤井四段は棋王戦で対戦した。両者の公式戦での初対局は、豊島が勝った。その後、両者は2019年に銀河戦、竜王戦、王将戦、2020年に将棋日本シリーズ、王将戦で対戦し、いずれも豊島が勝った。

 豊島が通算勝率8割台の藤井に6連勝したので、メディアは藤井の「天敵」と呼んだ。ただ私は、3年間に6局だけの対戦成績で、そのように見るのは早計だと思った。実は、次のようなケースがあったからだ。

加藤一二三も中原誠になかなか勝てなかったが

 1968年から1976年までの8年間、「神武以来の天才」と称された加藤一二三・九段は、「将棋界の若き太陽」と称された中原誠名人に、公式戦で1勝21敗と大きく負け越した。大棋士同士の対戦で、ありえない数字である。

 これだけ痛めつけられると、「サメ」に対する「イワシ」の関係がずっと続きそうだ。

 しかし、加藤はめげなかった。中原の将棋を詳しく調べると、自信を持って戦えるようになったという。やがて苦手意識を払拭して互角に渡り合い、タイトル戦で中原を打倒した。

 藤井が豊島になかなか勝てなかった理由のひとつに、以前に抱いた尊敬の念があったようだ。

2014年、研究会での「豊島−藤井」

 2014年12月。藤井の師匠の杉本昌隆七段は、研究会で豊島七段と将棋を指した。

©KiichiMatsumoto

 終局すると弟子の藤井初段を呼び、豊島に指してもらった。順当に勝った豊島は「小学6年でこれだけ指せたら、自分のときと比べて圧倒的に強い」と評した。一方の藤井は「終盤に本気を出されて負かされました」と後年に語った。

 それから2年半後の2017年5月7日。愛知県岡崎市で開催された恒例の将棋イベントに、公式戦でデビューから負けなしで16連勝していた藤井四段が登場した。藤井の人気はかなり高く、会場の岡崎城に多くの将棋ファンが詰めかけた。

 能楽堂での公開対局では豊島八段と藤井が対戦し、激闘の末に豊島が勝った。藤井は「A級棋士の力というものを感じました」と語った。

2人の共通点は“あの武将”にあり?

 藤井王位に豊島竜王が挑戦した今年7月の王位戦七番勝負第2局は、両者の対戦成績(その時点で藤井の1勝7敗)が一転した節目の勝負となった。

 藤井はずっと不利な形勢だったが、終盤の土壇場で豊島の疑問手に乗じ、驚異の終盤力を発揮して逆転勝ちした。勝ちを逃した豊島は終局後、茫然とした様子になったという。

Ⓒ日本将棋連盟

 その後、藤井は王位戦で4勝1敗として初防衛を果たした。豊島叡王に挑戦した叡王戦五番勝負は、3勝2敗で破って叡王のタイトルを初獲得した。両者の対戦成績(9月末日時点)は、藤井の8勝9敗とほぼ互角。王位戦第2局以降は、藤井が7勝2敗と大きく勝ち越した。潮目は変わってきている。

Ⓒ日本将棋連盟

 豊島は1990年に愛知県一宮市で生まれた。5歳のときに父親の仕事の関係で大阪府に移住したが、正月とお盆には祖父母が住む実家で過ごすという。

 一方の藤井は2002年に愛知県瀬戸市で生まれた。2016年12月に名古屋市で開催された四段昇段祝賀会では、「東海地区にタイトルを早く持ってこれるように精進したい」と挨拶した。

 戦国時代には、愛知県で生まれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の英傑たちが天下に君臨した。

 豊島はあるインタビューで、「タイムマシンに乗れたら、戦国時代に行って織田信長に会いたい」、藤井もある対談で、「チャレンジ精神がある織田信長が好き。自分も常識にとらわれない将棋を指したい」と語った。豊島と藤井が好きな武将は、織田信長で一致しているのだ。

板谷四郎九段いわく名古屋は「不毛の地」だった

 そんな2人と縁が深い、愛知県棋界の歴史と出身棋士などを紹介する。

 愛知県棋界に最初に根を下ろした棋士は、板谷四郎九段だった。

©MasaruTsurumaki

 板谷は1940(昭和15)年、木村義雄名人の門下で関東の奨励会(棋士養成機関)に入った。時に26歳。妻子がいる身で生活は苦しかった。親子もろとも心中する覚悟で必死に戦い、翌年に四段に昇段して棋士になった。

 板谷にとって、在住していた名古屋は「将棋の不毛の地」だったという。実戦で鍛え合ったり研究する仲間は誰もいなかった。新聞の将棋欄で、強い棋士の棋譜をひたすら並べて研究した。本人いわく「愚鈍の一念」で打ち込んで実力をつけた。

 1950年に順位戦でA級八段に昇進。同年の第1期九段戦(竜王戦の前々身棋戦)では準優勝した。

 板谷は愛知県棋界の発展に尽力し、地元の将棋ファンには「大(おお)先生」と呼ばれて親しまれた。1959年に46歳で引退。1970年には念願だった「日本将棋連盟東海本部」を設立し、本部長を長く務めた。

板谷進九段と弟子の小林九段、杉本八段

©MasaruTsurumaki

 板谷進九段は板谷四郎九段の次男である。父親の反対を押し切って奨励会に入り、1962年に21歳で四段に昇段、1974年に順位戦でA級八段に昇進した。「将棋は才能ではない。体で指すもんだ」と語り、懸命に頑張り抜く棋風だった。それだけに体力は人一倍あった。

 息子の板谷も愛知県棋界の発展に尽力した。あるイベントで「100面指し」(100人のアマを相手に順番に指す)を行ったときは、ねじり鉢巻きの姿で100面の将棋盤の前を移動して指し続けたこともある。

 そんな板谷父子は、名古屋に将棋会館を建設することに意欲を燃やしていた。東海出身の棋士がタイトルを獲得することも願っていたのだ。
 
 ところが1988年2月、板谷は急に倒れて緊急入院し、3日後に47歳で急逝した。死因は、くも膜下出血だった。

 弟子の小林健二八段は「先生の弟子たちでタイトルを争う日を、天国から楽しみにしてください」と、将棋雑誌に追悼文を寄せた。同じく弟子の杉本三段は、世話になった師匠と公式戦で対戦し、「恩返し」(弟子が勝つこと)をしたかったが叶わなかった。

 それから30年後の2018年、杉本七段と藤井六段との初の「師弟対局」が実現した。杉本は師匠からもらった扇子(文言は『忠』)を持参して臨んだ。勝負は藤井が勝ち、杉本は恩返しをされた。

「研究会システム」の草分けだった山田九段

 山田道美九段も愛知県で生まれた棋士だった。

 山田は1950年に名古屋から上京して奨励会に入り、翌年に17歳で四段に昇段した。その後も関東に住み続けた。昔のプロ棋界は、棋士同士で研究することはあまりなかった。山田は親しい棋士たちと研究会を開き、ともに切磋琢磨した。現代の棋士が行っている「研究会システム」の草分けだった。

 山田はA級八段に昇進しても、「山田教室」を開いて奨励会員に胸を貸した。当時は異例のことだった。私こと田丸も指導してもらった。1960年代にタイトルを独占して無敵を誇っていた大山康晴名人に対して、山田は敢然と立ち向かった。

©Noboru Tamaru

 最後に何枚か、写真を紹介する。上の写真は、1965年の名人戦で挑戦者になった山田。

©Noboru Tamaru

 こちらも上の写真は、1966年の王将戦で山田が大山と激闘した対局光景である。

 山田は、大山に挑戦した名人戦と王将戦でいずれも敗退したが、1967年に大山棋聖を破って初タイトルの棋聖を獲得した。

©Noboru Tamaru

 写真は、1968年の山田棋聖の初防衛戦で、中原誠五段の挑戦を受けたときの1枚。中央の記録係は、私こと田丸二段。

 山田は将棋に打ち込むために、健康にいつも留意していた。ところが1970年6月、山田は自己免疫疾患の難病にかかり、A級棋士のまま36歳で急逝したのだった――。

文=田丸昇

photograph by 日本将棋連盟