斎藤佑樹は、今季も二軍で投げていたが、球速が130km/hに届いていないという記事も上がっていた。果たしてここからどんな可能性が拓けるというのか、と思っていたが引退発表のニュースとなった。

 思えば日本中が沸いた2006年夏の甲子園からもう15年も経ってしまった。斎藤佑樹をはじめとする「ハンカチ世代」は、もう33歳、プロ野球ではベテランの域に達している。

 プロ入り11年、その後の低迷を考えれば、むしろこの年代までプロで投げることができたのは、大したものだという見方もできよう。そんな彼のアマ球界からプロでの足跡について、記録とともに振り返っていく。

春のセンバツでも再試合→15回完投していた

 斎藤佑樹は、群馬県太田市出身。中学時代は軟式野球で活躍し、推薦入試で2004年、早稲田実業に入学する。

 早実は、第1回の夏の甲子園に出場しているという古豪中の古豪ではあったが、1996年夏の甲子園出場を最後に地方大会で敗退していた。

 2004年夏も4回戦で工学院大に敗退。斎藤が2年生になった2005年夏も準決勝で日大三に敗戦する。しかしこの年の秋季都大会で優勝し、第36回神宮野球大会に出場。準々決勝で岐阜城北を11−3で破り準決勝に進出したものの、駒大苫小牧に3−5で惜敗している。駒大苫小牧の2番手投手は田中将大、これが宿命のライバルとの公式戦での初対戦だった。

 2006年春の甲子園にも出場し、3月25日の1回戦で北海道栄を7−0で下す。2回戦では関西と当たるが延長15回7−7で引き分け再試合となる。関西は6回からのちに日本ハムで斎藤のチームメイトになるダース・ローマシュ匡が投げたが、斎藤は15回を完投した。

 3月30日の再試合では2年生の塚田晃平(のち広島)が先発したが、3回から斎藤がマウンドに上がり、4−3で勝利。しかし翌31日の準々決勝の横浜戦では先発したものの初回から失点し、3−13で敗退した。

 今、思えば「延長15回を投げ抜き、再試合で勝つ」という斎藤佑樹の恐るべきドラマは、この春に予告編があったのだ。

センバツの関西戦、再試合で勝利して喜ぶ斎藤と早実ナイン ©JIJI PRESS

当時「948球」に批判の声はあまりなかった

そして夏の甲子園、勝敗と斎藤の球数である。

8月6日 1回戦 鶴崎工13−1 126球
8月12日 2回戦 大阪桐蔭11−2 133球(完投)
8月16日 3回戦 福井商7−1 136球(完投)
8月18日 準々決 日大山形5−2 144球(完投)
8月19日 準決勝 鹿児島工5−0 113球(完封)
8月20日 決勝戦 駒大苫小牧1−1 178球(完投)
8月21日 再試合 駒大苫小牧4−3 118球(完投)

 早実は西東京大会(6試合)でも塚田が先発して、斎藤が救援した試合が2つあるが、4試合で完投した。甲子園では1回戦で塚田が中継ぎで投げたものの、延長引き分け再試合も含めて投球数は948球に上った。

2006年夏の甲子園 ©Takashi Shimizu

 夏の甲子園での投球数としては、1990年以降の甲子園では最多。1998年の横浜・松坂大輔でも782球で、斎藤に次ぐのは2018年金足農・吉田輝星の881球だった。当時の中継を聞くと、アナウンサーも解説者も「斎藤佑樹のスタミナには恐れ入りました」と語っており、批判の声はあまりなかった。

 なお高校野球・甲子園で球数制限が大きな問題になったのは、2013年春の甲子園で済美の安樂智大(現楽天)が772球を投げた時だった。この大会については、のちに「豪腕 使い捨てされる15億ドルの商品」というドキュメントで日米球界に波紋を投げかけたジャーナリスト、ジェフ・パッサンが来日し、安樂や済美の上甲正典監督(当時)にインタビューをしている。

 そして2018年になって吉田輝星の881球が問題視されるに至ったのだ。

 2006年夏の奮闘によって、斎藤佑樹は「ハンカチ王子」という異名がつけられ、大ブームとなった。しかし斎藤はライバルの田中将大に比べて体も小さく、球速も遅かったことから、将来性では田中とは別の評価となっていた。

東京六大学でも31勝323奪三振、防御率1.77

 斎藤は早稲田大に進学し、東京六大学では4年間で61試合に登板し31勝15敗11完投4完封、371.1回を投げ323奪三振、防御率1.77という見事な成績を残した。

早大4年時 ©Shigeki Yamamoto

 筆者はこの時代の斎藤を何度か見たが、余裕のある表情でマウンドに上がり、切れのある140km/h台の速球と、変化の大きなスライダーで打者を手玉に取っていた。鋭く変化するスライダーには、しばしば打者が「これは打てないや」という表情をしたものだ。

 2010年ドラフト1位で日本ハムに入団。ここで「ハンカチブーム」が再燃した。

 そして――以後の斎藤佑樹の一軍、二軍での成績である。

2011年
一軍 19試6勝6敗 0S0H 107回 率2.69
二軍 5試2勝0敗0S 23回 率4.70
2012年
一軍 19試5勝8敗0S0H 104回 率3.98
二軍 5試1勝3敗0S 29回 率4.34
2013年
一軍 1試0勝1敗0S0H 4回 率13.50
二軍 7試1勝3敗0S 23回 率8.61
2014年
一軍 6試2勝1敗0S0H 26回 率4.85
二軍 17試1勝7敗0S 85.2回 率4.73
2015年
一軍 12試1勝3敗0S0H 42.1回 率5.74
二軍 18試2勝3敗3S 39.1回 率5.03
2016年
一軍 11試0勝1敗0S0H 23.2回 率4.56
二軍 16試3勝6敗0S 60回 率4.50
2017年
一軍 6試1勝3敗0S0H 28回 率6.75
二軍 18試3勝7敗0S 85.1回 率5.06
2018年
一軍 3試0勝1敗0S0H 8.2回 率7.27
二軍 21試1勝4敗1S 70回 率3.09
2019年
一軍 11試0勝2敗0S0H 21回 率4.71
二軍 18試4勝2敗0S 38.2回 率3.49
2020年
一軍 出場なし
二軍 19試1勝3敗0S 19.1回 率9.31
2021年
一軍 出場なし
二軍 11試3勝1敗0S 16回 率5.63
通算
一軍88試15勝26敗0S0H 364.2回 率4.34
二軍155試22勝39敗4S 489.1回 率4.82

※2021年10月1日現在

2012年の斎藤 ©Hideki Sugiyama

1、2年目こそまずまずの活躍を見せたが

 1、2年目は制球力とスライダーなど変化球でそれなりに活躍したが、以後、じりじりと成績が下降。2013年に右肩を痛めてからはパフォーマンスはさらに低下する。

 一軍の登板数が減少し、二軍が主な働き場になっていく。ここ2年は一軍登板はなかった。その後、二軍では救援投手にも挑戦するが結果は残せなかった。

 一方で高校から楽天に進んだ田中将大は、2013年に24勝0敗の空前の成績を残し、チームを優勝させるとともにニューヨーク・ヤンキースに入団。NHKの番組で感想を求められた斎藤が「何回も言いますけど(田中は)そんなに倒したい相手ではないです。そんな余裕も生まれないですし、あまりそこに労力を使ってもしょうがないです」と語っていたが、いち視聴者としてつらさを覚えた。

 一軍だけでなく二軍でも捗々しい成績をあげられなくなった時点で、斎藤佑樹の可能性は大きく閉ざされたのだと思う。

2017年 ©Nanae Suzuki

 甲子園での「投球過多」が原因だったのか、プロでの故障が原因なのか、それとももともと「これだけの投手」だったのかはわからない。

 ただ、1つ、見聞した事実がある。

母校・早大で子供達と楽しそうに野球を

 斎藤の母校、早稲田大学は秋季リーグが終わると大学の安部磯雄記念球場で、子供たちに野球の楽しさを実感させるイベントを開催する。野球部OBである斎藤佑樹はこのイベントに何度も参加し、子供たちと一緒にボールを追いかけて、本当に楽しそうな表情を浮かべた。

2016年、斎藤(左から3人目)は青木宣親、和田毅(右端)ら早大OBとともに野球普及のイベントに参加していた ©Sankei Shimbun

 しかしそんなイベントにも報道陣は集まり、斎藤に「囲み取材」を求めた。筆者はその囲みに入ったことはない。

「来年は何勝したいか」「肩の故障はどのくらい戻ったのか」「結婚は」

 こういった質問に、一つ一つ答える斎藤の表情が痛々しかったからだ。それでも、早稲田大の関係者はこのように語っていた。

「佑樹はこのイベントの趣旨をよくわかって、参加してくれている。メディアが追い回すのを承知で来てくれるのはありがたい」

 大変な現役生活だったが――勝者と敗者の両方を知る斎藤は、よい指導者になるかもしれない。

©Shigeki Yamamoto

文=広尾晃

photograph by Takashi Shimizu/Nanae Suzuki/Toshiya Kondo